何も考えていない自分

 風邪からの立ち直りが悪く、難儀しております。
足首が痛くなり、肩こりが悪化し、その立ち居振る舞いは

「こわれかけのロボット」

とはいえ、この商売、「頭」がいきていれば、どうにかなるので
その点においては本当に助かっています。

で不健康記念の今回。

「タバコ」

について。年度末の最終日を記念して、今日までを総括し、
明日からを思うか否かは読者にお任せしますが。

世界的(主に欧米文化圏)な「禁煙包囲網」が襲っております。

今回の病にひざまずき、うっかりして1週間以上タバコを吸い忘れ
ていたぐらいのニコチン依存症の私です。

だから本音を吐露すればこう。

「タバコの所持も使用も犯罪になったら吸わない」

こういう反論もあるでしょう。

「法律で決めなければやめられないのか!」

意志薄弱というニュアンスを含んだ言葉に私はこう答えます。

だからやめる気ないし。

あくまで法に触れてまでは吸うつもりはなく、今後何かの
理由で吸わなくなっても、私は言い続けます。

「やめたのではなく、休憩中」

タバコは嗜好品です。その嗜好までお上に制限されたくないと
いう個人の意思表明です。

産経新聞によればこうあります。

「ドイツでは2007年に規制を適用した飲食店15%で
売り上げが50%減った」

この不景気の折にタバコを規制するなどと・・・とすると

「景気と健康のどっちが大事だ!」

と金切り声が聞こえてきそうですが、わたしゃ「どっちも
大切」と即座に答えることでしょう。これって排泄物味の
あのメニューと、あのメニュー味の排泄物のどっちが良いか
という設問に似た、平たく言えば「暴論」だからです。

排泄物に足並みを揃えて暴論を吐けばこうです。

「健康だけど食うものに困る生活と
豊かだけど病気がちな身体のどちらを選ぶ」

どっちもイヤです。

ここで日和ってみます。

もちろん、吸わない人のための配慮は吸うものの責任として
あります。タバコによる健康被害も取り沙汰され、かかる
医療費も吸わない人にご迷惑を・・・と、ここでも少し気にな
ることが。

ここから先は医学的根拠はまったくありません。
それは「タバコを吸った人の肺の写真は真っ黒」なみに。

何度も繰り返していますが、解剖学者の養老孟司先生に曰く
解剖した人間の肺は喫煙習慣に拘わらず、あんなものだと何か
で語っていました。

で、気になるのは「鬱病との相関関係」です。

いわゆる精神疾患の「抑止」としてタバコが役立っている
のではないかと。だとすれば「タバコ由来」とされている
呼吸器疾患による社会的損失、あるいは医療費と、精神疾患を
発症することで生じるそれとどちらが上かの議論こそ

「科学的態度」

ではないかと。

これはネットで拾った鬱病患者の推移を表したグラフです。

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2150.html

99年からの10年間で2.5倍に増えています。

そしてこちらは喫煙者数を追ったグラフ。

http://www.health-net.or.jp/tobacco/product/pd090000.html

99年 男性54.0% 女性14.5%
08年 男性39.5% 女性12.9%

と、半分にはなっていませんが激減しています。

私の技術(笑)を持ってすれば、両者のグラフを重ねて
いかにも「相関関係」があるようなグラフを創作するのは
造作もありませが、フェアではないのでそれはしません。

ただ、時折、タバコを吹かした瞬間

「何も考えていない自分」

をみつけて、メンタルヘルスにおいては某かの助けには
なっているのではないかと思いをくゆらせるのです。

実際のところ私は「鬱病」経験者です。心療内科にも通い
原因と対処法が分かり自主的に卒業できたほど、軽度なもの
でしたが、精神疾患の特徴のひとつが「考えすぎる」ことです。

一本、数分。あるいは最初の一口だけの「空白」かもしれ
ませんが、考えない時間が救ってくれた事実だけは私のなかに
残っています。

「嫌煙派」にとってはすべてが「暴論」に映ることでしょう。

健康という錦の御旗、被害という大義名分を振りかざし、
そこから外れるものを一刀両断にしたうえで、石臼でひき
水で溶かし練り硬め、焼きがまで焼成した後に、ハンマーで
砕き、DNAレベルまで喫煙者を粉砕したい人にとっては
許し難いことでしょう。

が、しかし。その「許容度の低さ」は社会全般を支配し、
タバコの煙以上の息苦しさをもたらしていないでしょうか。

もちろん健康は大切です。しかし、その健康が

「生き様」

すら否定するものでしょうか。するとやはり「切腹」も
ただの「自殺」にしか見えないのでしょうか。

最近、「非実在青少年」を巡り、ネット界では
エキセントリックな議論が過剰に走っています。

主に「表現の自由」を巡ってであることは、以前述べまし
たが趣味嗜好など、その「表現の自由」に重なるのではとい
うのが私の立場ですが、こちらに絡めて語るものなし。

つまり

「タバコを吸う、一個の存在たる自分がすでに表現作品」

という表現者がでてこないことが不思議です。
エロやロリは表現者の守るべき権利で、ヤニは規制に任せる
ままというのは・・・と、いうか今でも少年誌で

「非実在青少年」

の喫煙シーンは野放しにされており、喫煙者としても
眉根を寄せることがありますが。

すこし、あっちこっちに議論がふれましたので、ここで
まとめます。

議論が大上段に構えて「正しい!」とするものしか認めない
社会こそ異常・・・と、私は考えるのです。

そのひずみが精神疾患の増加にも現れているのではないか
とも。

タバコを吹かす、その一瞬。脳みそが文字通り思考停止する。
この時、ストレスすらも忘れていることを、いま、先進国は
忘れているのではないでしょうか。

とうぜん、「健康」という旗の下に規制をするのも「自由」。

ただ、その反動というか

「喫煙特区」

なるものがでてこないことは健全な民主主義、自由主義では
ない気がするのです。

こういう反論が聞こえてくるのは鬱病の副作用ではなく、
物書きとしての創造力がそうさせるのですが

「受動喫煙こそが問題だ」

なるほど。ならばこれはどうでしょう?

「喫煙者のみ入店下のバー、パチンコ屋、居酒屋
当店では犬猫子供、非喫煙者の入店をお断りしています」

・・・いまの「規制」ではこれなど論外と振り返ることも
ない、押しつけに意義を唱えないことのおぞましさを私は
危惧するのです。

そしてそれを許さないほど「有害」なのであるならば、

「ご禁制」

にしろと繰り返し述べます。

ちなみに私の鬱病は「出世」したことが引き金で発症しました。
やめる方向で心が固まっていたところに、昇進し、責任と
相応の「恩義」を感じたことで板挟みになったのです。

そして自主根治とした理由は簡単。

「これもキャラ」

と割り切ったこと。考えすぎるのも個性のひとつ。思い悩むのも
特徴のひとつ。それが理由で不眠になれば、寝られないと嘆くので
はなく

「寝なくていいんだ」

と開き直る。変わり者は変わり者で生きてもいい世の中・・・
なんですよ。と、私は考え、表現の自由同様に

「生き様の自由」

も大切にして欲しいと願うばかりです。

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