本日より不惑。
「大人になれば分かる」
という台詞に反発して生きてきました。それは大人の逃げ口上で、
詭弁だと。
しかし、なるほど、年齢を重ねとわかることがあります。
と、同時に年齢を重ねるほど分からなくなることもあります。
昨日の日経新聞「春秋」に、作家の安部公房さんが唱えていた、
「漢字の書き取り不要論、文意の読み取り不要論」
が紹介されていました。安部公房さんは、いち早くワープロを
使い出した作家で、漢字は読めれば充分で、漢字変換で「憂鬱」が
でる時代に書ける必要はなく、学校のカリキュラムとして不用だと
いう主張です。
次は「〜の文章を読んで、主人公の気持ちを答えよ」という国語の
テスト問題で、主人公の気持ちの読解は、読者の置かれた環境と
感性により答えは異なり、そもそも答えなどない・・・というもの。
25才までの私なら迷わず頷き、自説を補強する材料としたこと
でしょう。漢字に関しては「書き写す」という単純作業が嫌いな
ことに加えて「暗記」に知的生産性を感じず、12才でコンピュー
タに触れ、その可能性を知れば
「いずれ漢字を書かなくてよい時代が来る」
ことを想像するのは自然な流れでした。
そして「●●の気持ち」については、言葉もありません。
年齢にそぐわない読書を好んだ私は「気持ち」に色んな形がある
ことを知っており、人により、その輝きが異なることも知っていま
した。
「母親が死んで涙を流す太郎の気持ちを答えよ」
大人が望む「答え」なら、母親の死を悲しむ涙でしょう。しかし、
肉親の死に際して「悲しみ」が胸中を占有することは理解できます
が、どんなに悲しみに暮れていても腹は減り、尿意も便意も訪れます。
また、親の死に「将来の不安」も考えることでしょう。さらに
文中に太郎が人を思いやる心が表現されていれば、こう考えるかも
知れません。
「僕(太郎)を残して旅立った母の悔しさを思い涙がこぼれた」
すると単純な答えを記入することが太郎にたいして失礼に思えて
きて、鉛筆がとまったものです。
あるいは太郎が子供子供している描写があれば、
「置いてかれたという悔し涙」
の可能性も捨てきれません。
私にとっての国語のテストとは、国語教師の望むところを探す
時間でした。ただし、授業をちゃんと聞き、板書をノートに転写
していれば、ここまで深読みする必要はなかったのですが、漢字
と同じく「暗記」が嫌いだったことがここでも影響します。
さて、不惑イブにこの記事を見て感慨ひとしおです。
大作家の向こうを張りあえていいます。
「書き取りも、読み取りも必要」
理由はみっつ。
その前に重要となるのが、前提条件です。発言者は成人してお
り、なにより東京帝大出身です。つまり、基礎学力があり、高い
知識を身につけている、あるいは身につける能力を備えている
ということです。
ここら辺の「錯誤」は、自己啓発やノウハウ本に散見する
レトリックで、悪い言葉で言えば「詐欺」に近いものがあります。
例えば齋藤孝さんの著者はなるほどと思うところもありますが、
そのひとつひとつは平易に見えても「凡人」には到達できない
領域をさらっと紹介します。文章の簡単さとスキルの再現性は
無関係ですが、文章の簡単さ、紹介する実例の分かりやすさが
自分にも当てはまると錯覚させるのは、健康食品の
「癌が治った! という声が続々と寄せられています」
という広告と同じです。こちらには消費者庁が規制をいれる
そうですが、書籍に関しては「表現の自由」の観点から、
見逃されており、怪しげな健康食品を販売している会社は、
今後「出版」にシフトしていくと睨んでいます。
齋藤孝さんに話を戻します。
最新刊の「15分あれば喫茶店に入りなさい。」タイトルの最後に
句点をいれているところに既に読者への軽侮が感じられる点は
痛快ですが、私は問います。
「あなたは即座に集中状態に入れますか?」
ざわついた店内、遠くに聞こえる街の喧噪、珈琲の香り。
これを「スイッチ」にすることは可能でしょう。つまり、
こうした条件が整えば集中状態=モードに入るという条件
反射にしてしまうということです。しかし、そのためには
訓練が必要です。そして多くの凡人は「モード」を切り
替えることが苦手です。簡単に言えば
「激怒から笑顔」
を意識してコントロールできないのです。
逆に言えば、これができるほど、自意識をコントロールできる
ならば、それは喫茶店でなく、街の雑踏でもファミレスでも、
ドコモショップでもできるのです。
齋藤孝さんという「天才」ならできるのでしょうが。
話しを安倍公房さんにまで戻します。
東京帝国大学=現、東大を卒業し、文壇で大輪の花を咲かせた
人の「教育論」が多くの一般ピープルに適用できるでしょうか。
議論がぶれるので掘り下げませんが、今の教育論に多い過ちは
「かつて勉強好きだった大人」
や、勉強に向いている性質を盛っている識者が語っているこ
とです。
つまり、漢字も、読み取りも必要以上にできる人の発言で、
学校教育とはそういう人だけのものではない・・・というのが
前提条件。すいません。不惑を迎えても前置きが長いですが、
もうすこし前置きが続きます。
それでは理由です。まず、漢字の書き取りは「脳トレ」
であること。お手本をみながら、同じ動きをなぞる訓練で、
脳梗塞からのリハビリなどと基本は同じです。だから、
低学年は簡単な字形、高学年になるに従って複雑になります。
「真似る」が学ぶの語源で、すべての学習の基本です。
次に「文化」であること。それは字形みただけでイメージ
まで共有できる優れた文化を「体感」するのに書き取りは最適
です。これも余談になるので掘り下げませんが、「書き写し」
は直接的には嗅覚と味覚以外の五感を使うことで、効率よく
記憶できるのです。
最後は「書き取り」もそうですが、「読み取り」の必要性に
ついては最近気がついたことです。
「国民合意の形成」
と、すると大袈裟ですが、「一般論」あるいは「社会常識」
を醸成するのに「読み取り」は不可欠です。
先ほどの太郎君。人の思いは十人十色との説を採用して、
フリー記述にします。するとこんな回答がでることでしょう。
「プレステ3を買う約束を守らずに死んだ母親への恨み」
実はこれ、子供に多いのです。正確なデータはその筋の
研究が待たれるところですが、甥や姪、その周辺の子ども達
も含めた永年のフィールドワークから導き出された結論は
「子供は議論を限定できない」
子どもの話がてんでバラバラになるのは、登場人物も
舞台設定もめまぐるしく変わるからで、太郎君のプレステ3
が文中にでないとしても、自身の少ない経験から検索した
「涙する出来事」がこれだとしたら、そこで線が繋がり
答えてしまうのです。
これを解決する一助となるのが漢字の書き取りと、
文章の読み取りです。
漢字の書き取りは「読み」だけでは誤読したまま記憶する
可能性を排除し、国民のリテラシーを上げることで、
国民合意を形成しやすくなり、「読み取り」で
「出題範囲の中から、適切と思われる箇所を抽出する」
技能を身につけるということです。現実社会においては
こうなります。
「選択肢の中から適当と思われる方法をチョイスする」
・・・はい、いよいよここから本題です。
なるほど、年齢を重ねとわかることがあります。
考えようよ。をテーマに綴る本稿ですが、不惑突入記念
の今回は「断言」します。
書き取りや読み取りの不足が日本国を迷走させている
書き取りは苦痛でした。なぜ、同じ作業を何度も繰り返
してやらなければならないのかと、サボることばかり考え
逃げて大人になりました。
しかし、仕事を覚える、身につけるとは同じ作業の繰り
返しで漢字の書き取りより苦痛なことも少なくありません。
そして同じ苦痛なら「美しい字を書く練習」するほうが
得をするのは仕事でも同じです。同じノルマなら早く、
正確に美しく行えば、上司の覚え目出度く、職場の人気者
になる可能性もあるでしょう。
つまり日本人の資源である「勤勉性」の修練に漢字の
書き取りは最適なのです。ところが学校にもよりますが、
漢字の書き取りを「やった」「やらない」だけで判断する
先生も少なくありません。私の頃は「美醜」まで、指導
され、「トメ」「ハネ」「ハライ」の間違いで×をつける
教師もいたのですが。
やればよいという訓練を受け社会に出た先には・・・
容易に想像できる結論が待っています。
「読み取り」。は、いまの民主党政権を生み出した
要因です。
「選択肢の中から適当と思われる方法をチョイスする」
とは政権選択選挙でもあった昨夏の選挙と同じです。
しかし、私の調べたところ、民主党に票を投じた少なく
ない人たちは
「政界再編」
や
「政治主導による改革」
という妄想を信じていたのです。これはプレステ3です。
絶対権力を手にして政界再編をするわけないのは、
「自民党出身者と社会党出身者が手を組んでいる政党」
であることから、明らかでした。政権を取るために
思想まで封印する連中が、やっと掴んだ権力を手放すわけ
がありません。つまり「選択肢」のなかにすでに「文脈」
として現れていたのです。
次に「政治主導」ですが、公務員の労組に支えられている
政党にできるわけがないというのは、本稿では繰り返し
述べてきたことです。
冷静に振り返れば、文脈にあった「嘘」を見逃し、
選択肢になかった「希望」を具現化してくれるという「妄想」
にかられてチョイスした未来が今の惨状です。
これが年齢を重ねてわかったこと、そして分からなくなること。
「日本の未来」
です。
いや、分かりたくないのかも知れません。価値観が溶解し
文化が崩壊する、矜持が韜晦される教育と政権の前に。
しかし、初めて迎える40代の人生。楽しみです。