職業訓練校に大卒が学ぶ

 最近、お気に入りのキーワードは「苦役列車」。
西村賢太さんによる第144回芥川賞受賞作品のタイトルです。

作品は読んでいないので「語感」によるものですが、私の周囲に
なんだかピッタリの人間が多く、本作の示唆するところと違うかも
知れませんが、この列車の住民のいちばんの問題は、自分の置かれ
ている環境の不幸に気づいていないことです。

ある意味、ポジティブ。それは人間が本来持つ「性」であり
それがゆえに悲しみにも不幸にも苦役にも耐えられるのですが、
そこから這い上がるには、いま置かれている環境がネガティブな
ベクトルに包まれていることを自覚しなければならないことに気が
つかない無限ループに突入します。

つまり、「よくない」「悪い」環境にいるのだということを
知らなければ、いま置かれている環境をポジティブに受け入れて
しまい、それは受け入れることによりようやく人は生きていける
というコメディのような人間の真実がそこにあるのです。

繰り返しになりますが、自分の置かれた環境がネガティブである
ことに気がつかない限りひとはそこを抜け出せることはありません。

逆説的に北アフリカの革命ドミノが裏付けています。
ネットや衛星放送により、自分たちの置かれている環境が
ネガティブだと気がついた民衆により行われており、環境を知った
ことが爆発の導火線となり、携帯電話やツイッター、フェイスブック
により点火されたのです。

反対にポジティブにおいても同じです。自分が置かれている環境が
ポジティブな選択を許されることに気がつかない限り、ひとは不幸の
奴隷となります。

仕事があり、彼女もいて、食べるのには困らないが、自分は
恵まれていないと思う人がいます。彼の周辺にはもっと金持ちがおり、
さらに美人の彼女がいる友人がいて、体型を気にしてダイエットばか
りしていることにより幸福感は損なわれてしまいます。

しかし、仕事があるのならそれに没頭し貢献することで、自己実現
は容易で、この場合の自己実現とは周囲の信頼を勝ち取ることであり、
スキルアップです。追加投資も自己啓発も必要ではなく、

「ひとりでできたもん」

なみの自然な満足を与えてくれることでしょう。これは経験則
ですが、大きなプロジェクトを任されるには、こうした小さな信頼
を積み重ねていくしか近道はありません。

つぎに彼女の美醜は主観に過ぎず、しかし、彼女という人間と
過ごす時間をどう楽しむか、どう楽しんで貰うかは前向きな努力で
いくらでも改善できます。

そして美味しいものを少しずつ食べるというダイエットもあれば、
日頃小食にして、ハレの日にご馳走を食べたり、賛否はありますが
一日一食ダイエットを奨める医師もおり、これなら体型を維持しな
がら贅沢をすることも不可能ではなく、充分な満足を得ることができる
ことでしょう。

苦役列車の乗客と比較して相反することをいっているようですが、
幸せには、他者との比較からうまれる相対的な評価と同時に自ら創り
出す絶対評価もあり、列車の乗客は相対的な不幸を知らず、幸運が
日常の人間のなかには絶対評価があることを知らない人がいるとい
うことです。

平易な言葉に落とし込めばこうです。

「馬鹿と貧乏人は不幸な世界に甘え、
小利口ものは幸福に囲まれながら不平と不満を繰り返す」

・・・自己啓発ではなく、社会制度や道徳の話しです。

「職業訓練校」

というとどういうイメージがあるでしょうか。

手に職をつけるための施設で、新卒、社会人を問わず、ここでまなび、
ハローワークと連携して、就職を斡旋します。

いまは「職業能力開発センター」など別の名称で呼ばれますが本稿で
は「職業訓練校」のほうが語感が良いのでこれで通します。

ここの電気工事科とは、住宅設備などの配線工事の基本技術を学び、
一年をかけ国家資格の取得を目指すコースです。

以前は読み書きができれば入学できたのですが、数年前より「算数」は
必須命題となっており、単純な話し、算数ができなければが抵抗や電圧の
計算が怪しく、実際、そのレベルを克服できず卒業時に国家資格の取得が
困難となった反省からです。

知識や勉学においてはその程度です。しかし、現場では頭の回転だけで
はなく手先の器用さや肉体の耐久性も求められるガテン系です。

コンクリート打ちざらしの建築中のマンション、そぼ降る雨がみぞれ
へと変わるなか、カンテラのあかりを頼りに配線する手先は尋常ではな
い寒さに震えるといいます。

しかし、面白いものでネガティブな環境で育った苦役列車の住民は、
肉体的な辛さへの耐久力をもっているもので、つらくても仕方がないと
あきらめる悲しいまでの人間の本能で、辛さも受け入れることで生き
抜く人間の業です。

進学できなければ働けばよい。

という環境で育った人間は現場で、親方や上司に判子のかわりに拳固
を貰い仕事を学びます。かつては「手に職」といわれた世界の未来は
いま、ほの暗いのです。

各種規制がゆるく、よく言えばおおらかだった時代、職人は無学でも
仕事ができ、「矜持」から仕事の手を抜くことなど考えられず、ゆえに
資格は重視されませんでした。技術は複雑となり、社会は不寛容となり、
矜持は捨て去れれ仕事の担保となるのは学歴を含めた「資格」になりま
した。

「腕一本」で食えた時代は去り、資格がしゃもじとなり、持たざるも
のは「配給」を待つだけとなりました。つまり無資格者は腕が良くても
下請け仕事しかまわってきません。これも時代の変化と言えば、それま
ででしょう。

そして「職業訓練校」に大卒が学びます。

資格を取るために、就職口を得るために「学士」が苦役列車に乗り込
んできます。

今年、ある職業訓練校の電気工事科は異例の盛況で、募集人数を大き
く上回り、近年まれに見る倍率となりました。東京の職業訓練校は都営
ですから公平性が求められ、倍率を超えればテストの点数による順番で
機械的に選抜されます。

この春中学を卒業する15才と大学を卒業した22才が競争します。

選抜からもれた少年には苦役列車の指定席が渡され、少なくとも
大学卒業までの9年間、学生生活を謳歌した学士が、さらに一年間、
広義での「学生」を続けます。

この話を聞いたある区立中学校教諭は「狡い」とひとこと。
補助金という税金が投じられた大学を卒業して、さらに公的機関に
通い資格を取り、一方では「義務教育」で学習機会を奪われ、苦役列車に
乗り、労働者として税金を納めます。

しかし、リアル苦役列車を知っている私にとってはごくありふれた
日常のひとこま。ザ・ブルーハーツのテーマが耳に響きます。

「弱いもの達が夕暮れ、さらに弱いものを叩く」

弱いものが這い上がるチャンスは・・・希です。
 

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