イスラム国に拘束されていた日本人二人への、殺害予告と身代金要求が行われました。要求は2億ドル。安倍首相がイスラム国対策のために、財政支援を行うことを発表したことへの「報復」です。
御親族の気持ちを思えば、言葉が濁るのですが、私が教育問題に繰り返し言及するのは、日本人とはなんぞやという問いかけからで、この事件がひとつの解というか、警告を与えてくれます。
残念ながらわが家にコウノトリはやってこず、ならばと庭先に設けたキャベツ畑の成長もいまひとつで、一時期預かり育てた甥は、後ろ足で砂を掛けるようにでていきました。
Yes高須! の高須クリニック院長、高須克也氏が、カメラマンの亭主をなくした直後、現在は愛人の漫画家 西原理恵子さんに告げた言葉を借りれば、
「人はDNAのいれものに過ぎない」
のであり、私と妻のDNAは、ここで「行き止まり」となり、迷路で言えば「外れ」なわけで、連綿と続けてきたご先祖様に申し訳ない気持ちを持ちつつも、あきらめていないのは「iPS細胞」・・・とは余談も過ぎますが、とにかく、次世代の日本について、極言すれば
「どうでもよい」
のです。利益該当者ではないという意味です。
だから「つまようじ男」のようなバカがいても、こちらの方が先に死ぬから、どうでも良い・・・のですが、やはりご先祖様から受け継いだバトンを、次世代の誰かのために役立つ、言葉や文章を残せたら、という思いも本稿には込めております。たまに。
「日本人とは何か」とは、移民国家、米国のような「出生地主義」は馴染まないと考えます。鬼怒鳴門(ドナルド・キーン)氏は当然として、近田ボビー(こんだ、ボビー・オロゴン)氏のように、日本との同化を望む人を指すと考えます。
白眞勲氏のような人物もいますが、「祖国」を「先祖」と置き換えれば、心情的に理解できなくもありませんが、筋論としては違うでしょう。
ちなみにデーブ・スペクター氏は埼玉生まれという説がありますが、米国民主党の工作員なので、仮に国籍が日本人ならスパイであり、米国人なら愛国者です。
これは日本だけが特別な国という選民意識からではなく、人間のパーソナリティーは「環境」に影響を強く受けるもので、DNA的なものはそれほど多くないからです。
肌の色や筋肉の質、骨格、また攻撃的、好奇心旺盛、思慮深いなどの「スペック」は、その影響を強く受け、人格形成において核にはなりますが、「躾け」という外部要因のほうが遙かに大きいということです。
文化人類学や脳神経科学の専門家ではありませんが、この説に自信を深めたのは文字通りの「フィールドワーク」です。
近所を散歩していると、小学生の肌の色がとりどり。赤黒黄色に白色もさほど珍しくありません。
通りの向こうから、少女のような白人の少年が、同級生と思われる日本人少年と歩いてきました。
私にそのケはありませんが、その美しき容貌に、ショタコン(幼児性愛の少年版)の気持ちが少しだけ分かった気がします。隣の日本人はガキと表記しても差し支えありません。
すれ違いざま、白人少年の会話が耳に入ります。
「俺のポケモンがさぁ・・・」
耳に届いた言葉は、ネイティブな日本語。無駄にがっかりしました。
その後、何度かすれ違い、何年かが過ぎると、少年の変化に気がつきます。外形的には、より白人へと変化していくのですが、目の色を無視した目元の表情や態度を見る限り「日本人」なのです。
それは黒人でもアラブの係累でも同じです。
日本で生まれたから、ではありません。
近所にはこれまた赤黒黄色に白の異邦人がいて、彼らの目つきを見ると、滞在年数の長短がわかります。また、日本人との交流が多く、結びつきが強い人ほど、「日本的」な表情に変わっていくのです。
ボケと冠が付くほど平和な日本は、憲法9条が作ったわけではなく、日米同盟という米軍の軍事力は理由のひとつですが、そこに「国民性」は切り離せず、その「国民性」を支えているのは、道徳であり教育にあります。
一例を挙げれば
「他人に迷惑を掛けない」
を優先する国は、世界において日本だけとは言いませんが極めて少数です。
優先すべきは、他人よりも「個人」であったり、「神様」であったりするということです。
道徳教育の是非についての議論は、主に左翼陣営から立ち上っていますが、彼らにしても、他人に迷惑を掛けることの是非を問えば、よくないと答えることでしょう。
イスラム国で殺害予告の対象となった日本人二人とは昨年、拘束されたと報じられていた男装の麗人の生まれ変わりを自称する湯川遙菜氏と、ビデオジャーナリストを名乗る後藤健二氏。
後藤氏は湯川遙菜氏との接点があり、湯川氏が拘束されたと報じられた当時、各種メディアを席巻しており、「ミイラ取りがミイラになる」という言葉のままとなりました。
湯川遙菜氏については、以前に取り上げたように「自分探し」の旅で、いきなり最悪のカードを引いただけで、思想的背景も経験も実力も覚悟もありません。
テレビからの一報を受けて、ネットを漁りました。ネットの住民も変わったものです。
かつて「イラクの3馬鹿」のころは、左右が激しく激突しつつも、やはり左優位で、自衛隊の撤兵を求める「プロ市民」はともかく、「人の命(人権)」を盾にしたお花畑的な救済論が多数派でした。
ところが今回は「死ねば」と残酷です。彼らに身代金の価値がないという意見も散見します。ドルを円に換えた2億円でも高いというものもありました。
これは「右」ではありません。
あるいは「日本人的ではない」と。
もちろん、他人に迷惑を掛けることは「日本人的」には恥であり、もっとも避けなければならない「道徳」です。
しかし、金銭の多寡で測るのは唯物論的発想です。なにより、殺害予告の対象となっているのは日本人であり、殺害を実行しようとしているのは他国人です。
もちろん、自己責任論者であり、最悪の結末もやむなしという立場に変わりはありません。やむなしではありますが、殺されちゃえばと、ネットも含めた公の場で口にするのは「日本人的」でないと考えるのです。
それでも、無謀な冒険に損ねる国益を鑑み、処罰感情を発露するならば、
「腹を切れ」
ではないでしょうか。あくまで比喩表現として。
ネット上の「死ねば」という言説から明らかとなるのは、リベラル陣営が批判する「右傾化」とは、左翼的思考回路上を、流通するコンテンツが変わっただけだということです。
平易な言葉にすれば
「右傾化ブーム」
に過ぎないということです。もっとも残念なことは、保守陣営がブームの本質に気がついていないことです。
また、ネットのこうした反応の変化で忘れてはならないのがイラクの三馬鹿です。今回の事件について、知人と少し話をしたところ、彼もやはり「死ねば」といいました。
付き合いも古く、遠慮のない間柄からのプライベートな場での軽口ですが、こう続けます。
「無事、日本に帰ってきたら、それをネタに講演活動とかするんだろ?」
郡山総一郎、高遠菜穂子、今井紀明。
講演活動や執筆をしています。
同時期にやはり拘束された
安田純平、渡辺修孝
も同じ。
みな左旋回しています。
己の思想信条と、承認欲求を満たすために、日本国全体に迷惑を掛けておきながら、無事帰国を果たすと、それを「ネタ」に一稼ぎ。か、どうかは分かりませんが、一般の方の目には、本を出し講演をする人間は金持ちに映ります。
仮に「右傾化」が進んでいるとしても、こうした連中の「活躍」もあったことでしょうし、リベラルや左翼の著名人達らが、彼らを擁護しつつ日本政府の対応を批判したことへの反動です。
いずれにせよ、こうした「積み重ね」も
「死ねば」
へと繋がるのでしょう。
話を現在の事件に戻します。
オンラインで公開された二人の映像は「合成」とみて間違いありません。後ろに伸びる影の角度よりも、二人の日本人の顔と首の影が反対側に色濃いからです。
仮に同じ場所で撮影していたとするなら、真南に向かい、おおよそ1時間ぐらいの時間差で撮影した・・・のでしょうが、しかし、太陽の角度を計算されれば、おおよその位置情報が割り出される可能性もあり、推測に過ぎませんが、合成用のグリーンバックのスタジオかなにかで撮影したのではないかと見ています。
どうして日本人二人が殺害予告の対象となったかについて、湯川遙菜氏だけでは、その価値がなかったからです。
イスラム国などの原理主義を「血も涙もない殺人鬼」のように、西側諸国は印象づけようと報道していますが、彼らは信仰という目的で動いているのであり、その目的は殺人ではありません。
そもそも残虐非道とは価値観の違いによるところが大きいのですが、殺すことが目的の連中なら、湯川遙菜氏はとっくの昔に殺されていました。
イスラム国への渡航を計画した、北大生の事件で注目を集めた、中田考氏や常岡浩介氏らに代表されるように、国内でもイスラム国に通じているものはいて、こういう経路を通じて、イスラム国にも日本国内の情報は流れているとみるべきです。そして湯川遙菜氏の「価値」を彼らは知っていたのです。
これがいままで、湯川遙菜氏の命をつなぎました。ニュースバリューも思想も背景もなければ、国民世論を動かすこともないであろう、湯川遙菜氏を殺すだけの理由がなかったのです。
そこにミイラ取りがやってきました。そこそこ名の知れたジャーナリストならば「ニュースバリュー」があります。そしてセットになった、という見立てです。
それでは、後藤健二氏は、なぜ、行ったのか?
後藤健二氏はビデオジャーナリストを名乗り、湯川遙菜氏と比較すれば実績も積んでおります。だからシリアが危険であることは知っていたはずです。
一部報道では、湯川遙菜氏の救出をほのめかしていたともありますが、その難易度を測れなかったのであれば、甘いと誹りは避けられません。また、最悪の結果を迎えたとき、何が最後の引き金を引いたのかについての検証は、残された我々の糧とするために必要です。
真実は本人のみが知ることですが、ひとつのヒントとなるのが、彼は「日本基督教団田園調布教会の信徒」、すなわちクリスチャンです。
【インタビュー】国際ジャーナリスト・後藤健二〜それでも神は私を助けてくださる〜
http://goo.gl/KpMOxd
そこで思い浮かぶのが「殉教」、あるいは「聖戦」です。ジャーナリストにとっての武器は、カメラでありペンです。
イスラム国の実態を世界に拡散することで、某かの「戦果」を求めた、現代の十字軍を気取っていたかは分かりません。イスラム国が犯行声明で「十字軍」を挙げていたことも気になります。
いずれにせよ仮に「宗教」が最上位に来た上での行動ならば、そこに「日本人的」なるものを見つけるのは困難です。
日本人は他の宗教に寛容で寛大で無頓着ですが、一神教のもつ排他性だけは理解できません。先進国中でキリスト教が普及しない理由であり、権力闘争を繰り広げる政治家にクリスチャンが多いとすれば叱られるでしょうか。
もちろん、いまのキリスト教(とは雑な表現ですが)や、穏健派のイスラム教、ユダヤ教も含めて、他の宗教への肝要さを示しますが、一神教の考えを突きつめれば、その裏側には排他性が隠れています。
ここが日本の左翼やリベラル、そしてネトウヨに重なります。
安倍首相をこきおろすのは、政治家への批判として仕方がない面がありますが、集団的自衛権に特定秘密保護法、脱原発に辺野古への移設などなど、歩み寄りを見せない排他性が、日本の左翼とリベラルの特徴で、嫌韓、嫌中、在日批判のネトウヨも以下同文です。
私が定義する「日本人的」なる、肝要さにどちらも欠けているのです。
肝要さが喪失した先に「日本人的」なるものは、もはや日本人に非ず。それは即ち「日本解体」であり左翼陣営の勝利です。
右傾化を喧伝する左翼・リベラル陣営の狙いがここにある・・ほど彼らに賢明さはないでしょうが、気がつかぬうちに北朝鮮の思想的影響下に置かれた韓国のように、日本が日本人らしくない「非寛容」へと傾きつつある現状を「死ねば」が教えてくれます。
あ、まだ事件は終わっていませんが。