気鋭の批評家やジャーナリストの正体

なんだこの苛立ちはという自問に解がでました。

本来、フィールドの違う人、思想の違う人、あるいは痛い人は「どうぞご自由に」というスタンスで、どうせ喧嘩を売るなら大物と決めていたのに、昨今。小物とまでは言いませんが、スマッシュヒットを飛ばしたことをきっかけに、旧来のメディアに取り上げられたのは、それを仕切るオジサン達の「許容範囲の毒」しか吐かないからだと気づいていない「時代の寵児(爆笑)」に苛立つコトしきり。更年期かしらと思いきや、違いました。

 

こいつら今までろくに政治も社会参加もしてこなかったくせに、メディアに登場し出すと突然「政治色=メッセージ性」が強くなるところにカチンとまでいかないイラっがきていたということ。それをファッションやサービス、求められてのコメントならば腹も立たないのは、AKB48のとってつけた「メッセージ性」など、バンドブームの終盤から見飽きた光景で商品だから目くじらを立てるものではありませんが、その歌詞のとおり行動しようととりあえず「脱原発デモ」に参加して社会派を気取る売れないタレントへの感情に似ています。

 

そもそも社会参加どころか、まともな就職すらしたことがなく、好きなことをやっていたらなんだか時代にはまった連中で、その好きなことにおける専門性において揶揄などしません。それは「あめふらし」の研究者を馬鹿にしないのと同じです。ところが「あめふらし」の研究者が「ナンパ」について語りはじまるから苛つくのです。

 

あめふらしはともかく、政治を語るのなら「国防」を語れなければナンセンス。あるいは「民主主義」に対する自身の立場を鮮明にすべきで、前者においては論外。国防とは至極単純に落とせば、殴られる前に殴ることです。殴られてからでは遅いのです。これは自身の体験からで「専守防衛」を額面で捉えて、いつもワンパンチを貰ってから殴り返していたがために、私の鼻は微妙に右に傾いています。右利きなので左側が前に出るので。これは亡父の教えでしたが、後年(といってもわたしが18の夏に亡くなりますので直後といっても良いのですが)このことを話すと、

 

「馬鹿、殴りかかろうとしたらそれは攻撃。即座に破壊すべし」

 

攻撃力のない防衛、攻撃意思のない防衛などあり得ませんし、これを踏まえぬ「政治論」など幼稚園の砂場の戦争です。

そしてもうひとつの「民主主義」。これが決定的に苛立ちの理由です。

批評家、ジャーナリスト、肩書きは結構。ようはネットによって世に出た、ネットをフィールドとしている連中の大半が民主主義を至上のものと考える腐れ日教組の呪縛そのままなのです。何処の民主主義国家でも口の端を上げて笑いながら扱う民主主義こそ最高と盲信し、そこから転じて数の論理と民意をご神託として崇め奉る馬鹿ばかり。おまえらの信奉する民主主義が鳩山由紀夫(ルーピー)と菅直人(ペテン師)、そして野田佳彦(上島竜兵)を総理大臣にしたんだよ。

 

と苛立ちは解消していませんが、その原因がわかってすこしスッキリ。

そしてこれから30〜40才ぐらいの「気鋭の●●」というのがじゃんじゃかテレビや新聞にでてくることでしょう。彼らが採用される理由はふたつ。まず先に述べた「許容範囲の毒」という点。それぐらいのことしか言えないということです。また別の意見に触れると微妙に立ち位置を修正してくるところも許容範囲たる理由です。もうひとつが「変」。あからさまに一方からみた意見述べるその姿はワイドショーにおける「室井佑月」や「倉田真由美」と重なるからです。

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