小倉智昭さんが「とくダネ!」のオープニングトークで
鉢呂前経産大臣の「死のまち」発言を擁護していました。
曰く、廃墟を見た時の言葉のチョイスとして正しいと。
だからそれぐらいで大臣を変えている場合かと民主党を
庇うわけですが、贔屓の引き倒しにより、語り部として、
表現者として、限界を露呈してしまいました。
私自身も「死のまち」と感じた感性は批判しません。
しかし、人は立場により発する言葉に責任が生じます。
天皇陛下によって認証される国務大臣ともなれば、
民間人のタワゴトではすまされません。
そして非常に「民主党的な発言」でもありました。
私が経産大臣ならこう発言したことでしょう。
「まるで“死のまち”だった。だからこそ、一日も早く、
子供が笑い暮らせる“生きるまち”にしなければならない」
ここで反論があるかもしれませんので、報道にあった
鉢呂さんのことばを拾うと、問題の発言はこれ。
「残念ながら周辺町村の市街地は人っ子一人いない、
まさに死のまちという形だった」
ただ、このあとに、
「福島の再生なくして、日本の再生はない」
と続けているとあります。だから「死のまち」だけを
取り上げるのは「言葉狩り」だという意見もあります。
それでは私の提案は何が違うかと言えば
「死のまち」という言葉の印象と対比して、希望を与え
るための「生きるまち」という言葉を用意しての
発言だということです。文章術的にいえば「まち」により
両者を結びます。
一方、鉢呂さんのは「町村の市街地」が「死のまち」で
再生は「福島」です。すると印象がばらけ、発言に
一貫性がなくなるのです。
政治家は言葉のプロではない。という意見はその通り。
しかし、私が「民主党的な発言」としたのは、この
一貫性のなさで、端的に述べれば
「思いついたことを、そのまましゃべった」
という無責任さがちらつくからです。
小倉智昭さんに戻れば、言葉を操るものとして、
「死のまち」
という情景描写がどんな印象で受けとられるか、それを仮に
とくダネ!のリポーターが中継で発言した時にどうなるのか、
という計算すらできない彼は、震災後ヒステリーの重篤な患者かも
しれません。