笑っていいともの企画がなぜダメかを指摘する

 来春に放送終了となる「笑っていいとも!」。もう企画がグタグタで終わっていいとも! 状態なわけですが、これから残り4ヶ月。壮大な「エンディング」となることでしょう。むしろ余計な企画などせず、タモリの至芸である「雑談」を1時間流せば、視聴率が回復し、有終の美を飾れることでしょう。

 ダメというのは結果論ではありません。先週で終了しましたが、木曜日のレギュラーが、それぞれ考えた文字や熟語を、習字で書いた文字をTシャツにプリントし、日本語が分からない設定の外国人が、そのなかから優秀作を選ぶという企画で説明します。

 司会はザキヤマ。彼のうるささは深夜サイズで、時間に追われる日中の生放送向きでないこと、さらに英語を使え外人風貌(ハーフなので)の「ベッキー」を使わないのは、絵面的にもミスマッチ。また、当日のゲストも多く、審査する外人も多く、画面がわさわさして落ち着きがありません。

 テレビは漠然と見るものですが、そこに映る情報を視聴者は理解しようとします。すると多すぎる情報は持て余すのです。それが「つまらない」などの不快感に転換するのは致し方ありません。

 そして企画そのものも煩雑です。レギュラーが選ぶ文字と、その意匠を競うという企画の範囲が広すぎるのです。日本人と外国人の感受性の違いを笑う狙いなのでしょうが、書く文字がひとりは「石油王」で、ひとりは「龍」、そして「黒髪」です。

 レギュラーはそれぞれ選定理由を説明しますが、これもザキヤマなみにお昼の番組としてはミスマッチです。チャンネルを合わせた瞬間に、その説明がなければ、書いた文字の意味が分からないからです。つまり、「笑っていいとも!」をずっと真剣に見続けなければ、笑えないのですから失格です。

 仮にこの企画を「お昼向け」にするなら、こうです。

「秋といえば○○」「クリスマスのオススメスポット」

 など、「お題」を設定することで、どの時間か見た視聴者にも分かりやすくするのです。ずっとみていた視聴者にとっては、「ベッキーは何を書く?」「鶴瓶は?」「タモリならこうだろう」と推測する楽しみも生まれますし、「ピース」が滑ったとしても、「だよね」と納得の笑いへと繋がります。

 ちなみに条件設定は笑いの基本。落語も漫才もコントも喜劇も同じ。さらにいえば、小説もコラムもエッセイも同じ。そんな基本ができていない「笑っていいとも!」は・・・というか大丈夫かフジテレビ。

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