サムスンやヒュンダイの成功・・・いや、儲けをみて、せんぞ、韓国企業に学べといっていた日経新聞が手のひらをひらひら。もともと韓国系企業の成功要因は海外にでたことだけではなく、国内の利益で海外事業を支えることができことが大きく、時事的には為替による要因であり、構造的には財閥を中心とした産業集約からであり、その論でなぞるなら
「トヨタ、ホンダ、日産、マツダ、スズキ、いすゞ、スバル、光岡自動車は・・・よいとして、とにかくみなトヨタになりなさい」
と論陣をはってみろというものです。もちろん、お客様に弓を引く日経新聞ではありませんが。
また、シャープがサムスンから出資を受けたことを否定調に書くのもおかしな話し。あれだけ持ち上げていたサムスンがさしのべた手に感謝こそすれ悲嘆することはないはず。昨年までの日経自身が書いた筆が同じなら。ただ、日経のペンは3色どころか、7色備えたボールペンのようで、紙面により応援先が変わるので、彼らの主張のなにひとつも信じてはならないのです。
サムスンがシャープを救済というのもおかしな話し。円安ウォン高の流れが進むなら、リスクヘッジとして日本企業を持っておくのはサムスンにとって利益の見込める話しで、取りっぱぐれるようなことがあれば、技術や「シャープ」というブランドが担保になるのでリスクが低いとみたのでしょう。冷静なビジネスの視点での決断からで、義理人情の話しではありません。
それでも日経新聞が役立つのは、企業の勢力図が分かるからで、古くは「明星」や「平凡」の一面や、特集グラビアを人気者が占めていたように、それは今も女性誌に息づくバロメーターです。よく言えば金の匂いに敏感なのです。誉めているんですよこれ。日経的にね。
ただし、外交と国防、そして教育については鳩山由紀夫並です。
繰り返し述べていることですが、特段の差異が見つからない場合、国政を担う政治家や政党の選択は外交、国防、教育の3点から選択します。「消去法的自民党支持」を掲げるのはこれが理由です。
民主、社民、共産党、生活の党は論外。残るところで代表的なところは「みんなの党」と「維新の会」ですが、原発ゼロという時点で国防も外交も見えておらず、維新の会は共同代表が話しをすり替えるので信用なりません。自民党も嘘つきですが、時には嘘も仕方がないと思っている節がある自民党と、あくまで
「嘘ではない、状況が変わったのだ」
と強弁する橋下氏のどちらが許せるかで、小学生にとって嘘は許されざる者ですが、大人になれば嘘にまみれることは、単純な悪と言えないことを経験済みです。
そして日経新聞に戻ります。
安倍政権が発足した教育再生会議で「道徳教育の教科化」が掲げられ、早速日経新聞は
「疑問を拭えぬ道徳の教科化」
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO52231760Y3A220C1EA1000/
(日経新聞)
とぶち上げます。再生会議がいじめ問題を取り上げるなかで発した提言で
「新たな枠組みによって教科化し、人間の強さ・弱さを見つめながら、理性によって自らをコントロールし、より良く生きるための基盤となる力を育てる」
としたものを日経新聞は
「よくわからない説明である」
と自らの思考停止を告白します。仮に食い付くなら
「新たな枠組みとは何か? まずそこを示すべきであろう」
ぐらいは踏み込まなければ議論にすらなりません。それをよくわからないと論点を明示しないままに切り捨てるやり方は、まず始めに「レッテル」を貼る左翼の思考メカニズムと同じです。
平たく言えば「とにかくヤッ!」という三歳児レベル。
いっそ
「ならぬものはならぬものです」
と八重の桜に便乗するなら可愛げもあるのですが、こうした左翼系思考回路をもっているもの、特にマスメディアや著述業、漫画家などは自らの意思としての否定ではなく、全体論に結びつけることで民意にすり替えようとします。これをわたしは
「私論を持って公論とする」
と名付けているのは、ウェブ業界人の得意技だから。
自分の小さな体験を世界の変化と結びつけ、些細な趣味嗜好こそ、時代の潮流だと叫ぶ人たちのこと。一般社会では「妄想」と呼ばれるもので、メディアにのると頷くものがでてくるのが不気味です。
余談ながら思考回路というのは変わらないもので、左翼シンパから転じて、保守系を自認する文化人にも多々見られ、最たるものが漫画家の小林よしのり氏です。彼の他人の罵倒の仕方や、自分を高見に置くのは回路(思考手順)があちら側だからだと気がつくと、得心できます。なんで、そこまで罵倒できるのだろうと。どうしてそこまで都合が良いのだろうと。
で、日経新聞の論調はまさに私論と公論のすり替え。
先の記事を引用すると
“下村博文文部科学相は「成績評価にはなじまない」としながら「国として、どこでも使える教材をつくる」とも述べている。全国統一の教材で授業を行い、それに基づいた尺度で規範意識を測る。そんな展開が予想される。”
「成績評価にはなじまない」
という発言を
「としながら」
と前段を否定する接続詞でつなぎ、
「国として、どこでも使える教材をつくる」
をことさら取り上げ
「それに基づいた尺度で規範意識を測る」
とは次にあるように「予測」です。
しかし、教材作りにかかる言葉その前の
「新しい枠組み」
です。規範意識を測るとはいっておらず、その規範意識とは日経新聞が自ら「よくわからない」と読解力不足を告白したものが基準になります。たぶん、日経新聞の記者以外の大半の人なら分かることでしょう。成績評価で優劣はつけないが、
「人間の強さ・弱さを見つめながら、理性によって自らをコントロールし、より良く生きるための基盤となる力を育てる」
ための教科書(教材)はつくるということです。
日経の解釈は国語のテストなら不正解です。その間違えの上に「規範意識を測る」と、予想としながらも「測る」という文言により成績評価を連想させるミスリードです。誤読の上に曲解されては議論になどなりません。
さらに続きます。というか面倒なのでそのまま引用。
「これでは道徳教育は窮屈な型にはまり、かえって矮小(わいしょう)化する。人間の心のひだに触れる道徳というものを上から押しつけたとしても、本当の効果は得られないだろう。教科化は弊害のほうが大きいのではないか。」
これをいいたいがために作文を続けてきたということです。まったく見事なプロパガンダ新聞です。
道徳教育とは窮屈な型にはめるものです。
そもそも窮屈な型とは何か。日の丸に敬意を持てとか、君が代を覚えろという日本人にとって当たり前のことではありません。
わたしにとっては社会の規範そのものです。
3人以上の集団にいれば、すべての意見が一致し続けることなどあり得ません。しかし、人は「なかよくしなければならない」という窮屈な型に自らを押し込み、そうなるように努力します。レジで行列ができていて、目の前がひ弱な女子供に老人なら、ぶっ飛ばしてどかせば、すぐに会計できますが、ならぬものという窮屈な型にはめ込むことで社会は成立しています。そもそも、それだけの暴力を持てば金すら払う必要などない、という気持ちを非常識として窮屈に生きていきます。
極論ではありません。人が生きていく上で「当たり前」、いや正しくは
「日本人として生きていく上での当たり前」
を教える教科が「道徳」であり、それを「窮屈」というのであれば、わたしにとってはすべてのモラルが窮屈に過ぎず、北斗の拳における拳王が支配する世界の倫理観となることでしょう。
日経新聞はいいます。
「心のひだに触れる道徳」
こころのひだとやらに触れるものは国語の授業や、「生活」の時間、あるいは読書や日々の生活の中で培うもので道徳で教えるものではありません。道徳への過剰な期待です。そこまで道徳は万能ではありません。
根本的な間違いを日経新聞はしているようです。道徳教育を映画「三丁目の夕日」かなにかをみせて、それで感動するようにと洗脳することだと見ているのでしょう。だとしたら、プロパガンダを越えた妄想です。
道徳とは何か。
・弱いものイジメをしない
・順番を守る
・家族を大切にする
・友達を大切にする
・仲間と力を合わせる
が普遍的なもの。これを「教科化」して何が悪いのでしょうか。
反対を並べ見ます。
・弱いものをいじめる
・順番を守らない
・家族を大切にしない
・友達を大切にしない
・仲間と力を合わせない
これを奨励するのでしょうか。
さらに高等なものとなれば
・自己犠牲の精神
などもありますが、「犠牲フライ」を例に挙げるまでもなく、日本人的価値観としては身につけておかなければ、近隣諸国と同じ人種になります。
他にはこんな感じ
・盗まない
・嘘つかない
・自分のことだけ考えない
心にひだに触れる前の話ばかり。
そんな当たり前のことをなどというのは教育現場を知らないタワゴト。いま、小学生の親が平気で嘘をつきます。自分のことしか考えません。順番を守りません。教師が弱者だと気がつくと、程度の差こそあれ保護者は虐める側にまわります。
悲しい話しですが家族を大切にするという意味をしらない親が増えています。子供を野放しにすることや、子供のワガママをゆるし、親の玩具となっています。
小学生の茶髪は当たり前です。なぜか? やりたいから。あるいは親が可愛いと思うからやらせるのです。
染髪が本人の意思であることは希です。親や祖父母を含む環境が茶髪や金髪を普通とさせています。そして先日はド金髪にピアスをいくつもぶら下げた小学生を発見しました。
こんな話を耳にしたことがあります。
小学生の茶髪を親に注意します。校則にないことを理由に茶髪をやめません。
別の中学校だったと記憶していますが、ここでは校則に染髪禁止が明記されています。すると「表現の自由」を盾に茶髪の容認を迫ります。
道徳とは、ここで生きるものです。
「明文化する必要すらない当たり前のはなし」
を教える時間です。
ではなぜ、染毛がいけないのか。
意地でも喫煙を続けるわたしがいっても説得力に欠けますが、こういうことです。
健康であること、生まれたままの自分で生きること。
これを良しとする価値観で公立学校は運営されているから。
染毛により切れ毛になることがあるといいます。それは健康な髪の毛(髪は既に死んだ細胞とかいう話はなし)ではないということ。そして生まれたままの自分を良しとするのだという教育理念のもとに、髪の毛の色そのものを変えてしまう染髪を禁ずるのです。
ウチの小学校は不健康上等! というのならこの限りではありません。また、アイプチどころか整形OK! なりたい自分になる!
とするのが小学校の方針ならばそれもありでしょう。ただし、それを国や都道府県、市区町村が認めるかどうかに「道徳」があるのです。
まもなく迎える新入学シーズン。
パパはシルバーアッシュ、ママはレッド、そして僕は金髪。並ぶジージとバーバは茶髪。
みな渋谷当たりをうろつくようなファッションで、腰のまわりにはちゃらちゃらチェーンがついて、耳は耳たぶどころか、中にまでピアスが刺さり、鼻とクチビルにはワンポイント。今日のように暖かい陽気に恵まれたので、パパは半袖というかTシャツで、袖と胸元から落書きがちらり。
これ、認めます? 日経新聞さん。本人の自主性に任せ、道徳教育をないがしろにしてきた結果、いま祖父母の世代でも道徳が欠落しているのです。
だれかが教えてあげないと、自己主張こそが最優先されるべきだという「道徳」を教え込まれ育てられる子供が・・・もうすでに大人どころか祖父母になっています。
だから、違う世界がある。と教えるのも「道徳」なのですよ。
非常に残念な現実ですが。