株式界の「競馬エイト」と定評の「日本経済新聞」。銭ゲバという言葉がよく似合う新聞です。投資をやっていなければ絶対に買わないのですが、投資という賭場に参加している以上は仕方がありません。
主張はいつも反日的です。これが銭ゲバと呼ぶ理由。日本で金儲けを目指すなら、親日的あってもよいはずが、ときどき朝鮮日報新聞、略して朝日新聞と見間違えるほどの見識を披瀝します。
昨日朝刊「春秋」、一面コラムでは「道徳教育」に反対の立場でイヤミをたれます。論理的を装いながら非論理的なのは左翼に特徴的で、朝日新聞の芸風です。
平成25年11月13日(水) 春秋
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO62502710T11C13A1MM8000/
ブロック毎に要約しながら、突っ込みをいれます。
“19歳のザッカーバーグ青年はいたずら者だった。”
っていうレベルじゃなく、つぎにあるのは犯罪の告白です。
“あるとき、大学のコンピューターに侵入して女子学生の写真データを手に入れ、人気投票のサイトをつくってしまう。”
人気投票ではなく美人投票。大きな違いには触れず、これが人気を呼び、フェイスブックが生まれたと切り出します。
“この手の逸脱は、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に考えたら×が3つくらいつくだろう。とりわけ道徳の授業で子どもの判定をしなければならない、となれば悪い面ばかりが指摘されそうだ。”
道徳ではなくハッキングは犯罪です。論陣のためなら違法行為も黙認するのが朝日新聞の得意技ですが、日経もその程度に堕したようです。繰り返しますが、道徳ではなく法律の話しで、杓子定規とは厳密にはとか厳正にとはいうニュアンスですが、アバウトに見ても、サーバへの無断侵入は「不正アクセス行為の禁止等に関する法律」に抵触します。
糞も味噌も一緒にした時点で議論が破綻していますが、これは短いコラムの中でまだ半分。この段の結びは、先の「悪い面」をひきつつ、道徳を「特別の教科」にすることを心配します。
次は原文を参照して欲しいのですが、安倍首相の宿題として、まるで首相の個人的願望の産物であるかのような印象操作を試みます。数値評価は難しいから記述式でと、慎重論や反対派へ配慮した取り組みへは減給せず、
“そもそも教科化に無理があるのだろう。”
と結論づけます。しかし、本当に競馬エイト・・・もとい経済誌でしょうか。経済において、さらに投資においては「数値化」は公平性を担保する前提条件で、
「今期の利益から記述式」
としたら、投資家は誰もが逃げていくことでしょう。企業価値とは唯一無二の技術など絶対評価もありますが、同業他社や異業種との相対評価により決定されるもので、数値化は公平な投資環境を担保するツールです。そして道徳ほど「点数化」がしやすい強化もありません。
なぜか? 道徳は現在の常識に合わせて理想とする振る舞いの「形式」を定めるものだからです。例えば100年前なら、目上の者を尊重すること、父母に絶対の敬意を払うこと、そのなかでも父の立場が強いのが当たり前でしたが、いまはこれを「道徳」と呼ぶことに多少の無理があります。
しかし、こんな問題ならどうでしょうか。
Q:荷物を持ったおばあさんが横断補導を渡っていました。さて、あなたはどうすべきでしょうか。
A:下記からひとつ選び数字に丸をつけよ
1:ばばぁ邪魔だと怒鳴りつける
2:素通り
3:大丈夫ですかと声を掛ける
4:時間があれば荷物を持って一緒に渡る
5:その他( )
「道徳」としてみれば、3から4が正解です。あるいは中国なら記述欄に
「荷物を持ってあげると騙して持ち逃げ」
と書くのが正解かも知れませんが、日本では違います。こうした「当たり前」や「理想」の強弱により配点すれば良いだけのことです。ましてこうした数字化は経済においては当たり前のことで、例えば「日銀短観」などはポイントで発表されますが、実態は「景気よいと思う」という漠然としたアンケート結果を数値化したものです。それに比べれば道徳は点数化しやすいといえるでしょう。
日経新聞に戻ります。
“道徳教育が大切なのは論をまたない。しかし国の検定を通った教科書でそれを説き、心に優劣をつけるならかえって徳育を矮小(わいしょう)化しよう”
どうして「しよう」と結論が出せるのでしょうか。バカでしょうか。いやイデオロギーでしょう。国=悪。日教組でなければ極左、あるいは革命家です。心に優劣ではありません「道徳=価値観」に点数をつけ評価するだけのことです。
“人間のさまざまな面を、さまざまな目でみてこそ「おもしろいヤツ」が育つのだ”
だから、これは授業以外でできること。そして現代日本人の大半が勘違いしているのは、自由にさせてそれを自由と感じることができるのは、義務と責任を知っているものだけです。放任と放し飼いは違います。「放任」とは教育と躾に責任を持つからできるのであって、責任の中には他人に迷惑を掛けない常識と態度が含まれます。それのない「放任」とは「子供の放し飼い」です。
また、文章としても三流未満です。「さまざま」とは便利な言葉ですが、実例のひとつも示さず、しかも結論として「おもしろいヤツ」が育つとは妄想です。わたしなら恥ずかしく発表できない文章。
で、結論がこれ。
“ザック青年の不道徳のなかにキラリ光ったものを受け入れた度量が、「特別の教科・道徳」にあるか。”
いいかい。春秋の筆者。「校正」をするときは「他人の目」でするもの。そのとき、数字は再度事実確認をします。この文章にある数字は二箇所。バツが3つと、冒頭の19才。
ザック青年と筆者も書いているように19才の青年です。道徳の授業が必要なのは、それより遙かに幼い児童のはなし。19才にもなれば、「悪いこと」と自覚して、それでもそれを越えて挑むチャレンジを否定はしません。しかし、善悪の分別もつかない児童にまで「不道徳」を奨める日経新聞の見識は、日本の内部破壊を目指すテロと断定します。