ぼくは彼なんかを治療はしない

日本は政党政治であり、国政を目指すということなので、選挙公約や党の要綱などが出揃うのを待っていたのですが、いよいよ鼻についてきたので橋下徹大阪市長・・・というか国政政党「日本維新の会」党首 橋下徹さんについて。

もはや日本維新の会(以下、維新の会)が政党というよりも、橋下徹さんの個人的な野望実現機関であることは誰の目にも明らかでしょう。その実現のための舞台装置が国会であり、目論見において前東京都知事となった慎太郎ちゃんでさえ脇役に過ぎません。

週刊朝日のように遺伝子にまで遡ることはしませんし、あの記事に左翼の選民意識という本質が現れており、筆者の佐野眞一氏が2006年に月刊誌『文芸春秋』に寄稿した

「就学援助率42%ショック ルポ下層社会」

と通じる「キメうち」です。この記事について役所の中堅幹部と話す機会があったのですが、対策中のものでも現時点で存在しなければ「ない」と言下に否定し、それは確かにウソではないので、否定することもできないので困っているとこぼしていました。また、荒川土手の区界(要するに足立区の端っこ)に立ち、区役所を眺め悪意を込めるなど、事実ではあるが、パズルのワンピースから全体像を語るような書き方が目立った「ルポ」で、彼の過去の評価に疑いを持ったものです。

このネタのきっかけは「赤旗」で、それを「朝日新聞」が転載し、佐野眞一氏が膨らませてルポにした。そして背景にはこの記事が出た翌年の2007年には足立区長選挙があり、一度区長となるもリコールされた革新系立候補予定者が巻き返しを図っており、そのための「政治活動」という見立てがされたものでした。

赤旗=朝日新聞と。

橋下徹さんのバッシングも同じ系譜なのでしょう。ただ記事の中身があまりにも不備がありすぎ、なにより相手が悪かった。それは「同じ穴の住民」だということ。

左翼ということではありません。どちらも言葉を最大の武器とし、かつターゲットと見定めたものは骨を砕いてすり潰してから火をつけるような、存在そのものの否定すら躊躇なくできてしまう日本人離れしたタイプという意味です。

じつはこれが「維新の会」の人気が高まらない理由とみています。
そしてわたしは橋下徹さんに菅直人と同じ匂いを覚えるのです。

敵を作り、その敵を攻撃することで、自分を浮揚するという方法。
関西弁で言うところの「えげつなさ」が。

アホだ馬鹿だと侮蔑擁護どころか、標準語の世界では差別用語に分類されているキーワードも飛び交う関西弁の世界では、厳しい言葉すらコミュニケーションと受け入れる人たちは少なくありません。もちろん、上品な言葉を使う人もおり、というより、とりわけ言葉がきついとされる河内弁や、兵庫県の特定の地域などと一緒にされるのを嫌う人もいます。

ここら辺も面白いもので、一般的にアッパークラスとされる世田谷区民だからといって、下世話な足立区と一緒にされたくないと広言する人は少ない東京との違いが表れます。

ちなみに大阪で育ち「やんちゃ」だった亡父は、幼いわたしを

「言語障害」

と呼んでいました。父の前では緊張から希に吃音になったこと、幼児らしく考えをまとめて話せなかったこと、極度のハスキーボイスで小声になるとほぼ聞き取れなくなることがその理由かと思われます。この話しに妻は、それはさすがに酷いと、いまでも眉根を寄せます。

しかし、わたしは父に思いを伝えたくて、言葉をまとめ文章を組み立てる訓練に自主的に取り組んでいました。そう呼ばれまいと。そして小学校に上がる頃には、大人相手に論理的な話し方ができるようになっていました。

極端なケースでしょうが「愛情」という枠さえしっかりはまっていれば、多少の問題は解決されているのではないでしょうか。

話を戻します。橋下徹さんが、言葉を極めて罵るのも・・・と東京人の感覚では見えてきました。深く考えるのが苦手な人は、素直という表現を使うのでしょうが、素直で発言が許されるのは少年時代までと社会相場で決まっています。

一方で、関西人はそのきつい言葉の文化のなかにいます。先に触れたように関西人のすべてではなく、仲間同士ではきつい言葉を使う人でも、他地域の人向きに言葉を選ぶ人もいますが、橋下徹さんは「敵」をつくるためにその言葉をあえてチョイスします。「敵」こそが彼のレーゾンデートル(存在理由)であるかのように。

端的に表れたのが維新の会の旗揚げパーティ。

「どこの新聞もテレビも有識者も、コメンテーターもバカばっかり。たかだか2年半後、3年半後のことも予測できない連中が30年や40年後の日本なんか語る資格なし」

わざわざ敵を作ります。

有識者の言葉が当てにならない理由についてはこちらの本で詳しく紹介されていますので宜しければどうぞ。

専門家の予測はサルにも劣る
http://www.as-mode.com/check.cgi?Code=4864101663

専門家には立場におけるバイアスがかかり、またメディアに出続けるには中身がなくても歯切れの良い言葉が求められ、これはWeb業界にも通じるのですが、「○○で社会が変わる」というあれもそう。しかしそれは、それを消費する視聴者がいるということで、橋下氏の発言は間接的な有権者への皮肉でなければ、一部を最大化する極論でお言葉を返せば「馬鹿の論法」です。クレーマーと言っても良いでしょう。具体的根拠を示さずに罵るのですから。

その有識者やコメンテーターには、維新の会のブレーンと称する連中・・・もとい方々が多数います。これをどう自己弁護するのか・・・は想像できますが、ここでは記しません。と、すこし中断しますが、重要なので適時投入。私見も含めた「結論」を出さないのが橋下流です。つまり、後からなんとでも言い訳ができる余白を常に用意しているところが狡い・・・もとい上手いといえるでしょう。

だからわたしは彼の発言をひとつたりとも信用していません。その場その場の言葉は上手いと唸ることもあるのですが、未来に関しての彼は言葉にいつも「余白」を残すからです。こういう人と論戦をして、揚げ足取りに逃げ込まれたぶん殴ってしまいそうになり、殴ったらこちらの負けです。躊躇なく警察に駆け込むことでしょうから。できれば関わり合いになりたくない人種とは私見。

先の発言の3年半後とは、維新の会の設立と国政進出を指すようですが、ならばそれは誰のどの発言かを明示しなければ、一方的な論拠を伴わない侮蔑であり名誉棄損に該当するのですが、個人名を挙げていないのでこれもグレーゾーンでセーフ。疑わしきは被告の利益にです。

仮にワイドショーのコメンテーターが連名で集団訴訟をしたとしても、必ず参加しない人・・・すなわち維新の会のブレーンが訴訟団から外れれば、名誉が棄損されたと感じないものもいるという反論ができます。また「表現の自由」を盾とすることもできるでしょう。彼は安全地帯を確保してから発言をするのが上手です。

そしてさらにもひとつお言葉を返せば、その3年半前やらそこらのころから「国政進出」は、コメンテーター連中が何度も「予言」していたことであり、橋下氏の行動時代は「予言通り」です。つまり橋下徹さんの批判は過去を無視した馬鹿な発言ということです。コメンテーターが3年半前に、いや2年半前の「ルーピー時代」でも予言できなかったことは「民主党政権の失敗」です。

「とにかく一度民主党に政権を」と、野球部で万年補欠で過ごした高校3年生の我が子を試合に出させてくれとせがむ馬鹿親のように懇願していた姿は「馬鹿」の称号に相応しいものではありましたが。

この点においてはわたしも反省しています。政権交代前から日本の崩壊を危惧していましたが、

「ここまで酷い」

と予測できずにすいません。

話しが蛇行していますが、橋下徹さんを取り上げなかった理由はここにもあります。言葉をよく言えば巧みに、あるいは弄ぶ彼の発言と行動には軸が見えてこないからです。そして言葉に余白を作ることで「後出しジャンケン」でいくらでも言いつくろうことができ、端的に言えば

「相手にしてられない」

と。どこを切り取るかで意味合いが代わり、それも臨機応変に軌道修正といえば聞こえは良くとも、熟慮を重ねない発言に振り回されるのが馬鹿馬鹿しいなぁと。

いま、振り回されているのが慎太郎ちゃん。前東京都知事です。橋下徹党首としては客寄せパンダとして慎太郎ちゃんが欲しいのでしょう。そして上から目線の「たちあがれ日本」のメンバーは敵として、離反・分断作戦にでられるのは、慎太郎ちゃんが都知事を辞めてただのじいさんになったからです。

都知事という権力を手放した石原慎太郎は客寄せパンダにしかならない。残念ながら事実です。

橋下徹さん自らが広言するように「ケンカ上手」というのは本当でしょう。それは負けるケンカはやらない奴が良く口にする台詞だからです。自分が有利なケンカにしか参加せずに無敗を誇る不良と同じです。生き方としては正しいかもしれませんが、義侠心についてどうかは疑問を持ち、真正保守を標榜する「たちあがれ」とソリが合わないのは当然です。対極にいるようなものですからね。

そして「たちあがれ」への批判に生理的嫌悪感を覚える日本人は少なくないでしょう。「たちあがれ日本」と石原慎太郎は一心同体で、代表の平沼赳夫さんが前都知事の国政復帰の決断に、芝居がかった台詞をはくならこうなります。

「おまえを待ってたぜ」

志をひとつにする盟友をひたすらに待ち続け、信念のために大組織を離れ、病を克服して最後のひと花を一緒に咲かせ、パッと散ろうぜと。

を、一蹴するでしょうな橋下さんなら。古くさい浪花節だと。

慎太郎ちゃんのキャラクターから批判的に報道されますが、ドラマ的に見るとなかなかグッとくる話しなんですが。

東京都知事選挙でも維新の会は東国原英夫を擁立するという動きがあるようですが、彼もまた菅直人の匂いをさせるひとりです。正直、彼にだけは都知事になって欲しくないのですが、狡い人間は狡い人間をかぎ分けます。そして利害に聡いので実力が拮抗しているか住み分けができると判断できれば共生します。だからタチが悪いのです。

石原慎太郎が後継者のように橋下さんを持ち上げるのは、彼の目が曇ったというより「息子」をみれば明らかでしょう。創業者が後継を見誤ることはよくあることで、それは自分を基準に考えるから。だから慎太郎ちゃんが橋下徹さんを持ち上げることに何の意味はないというか、逆の意味すら見えてくるということです。

都民として都政の継続性からすれば猪瀬直樹副知事の繰り上がりか、松沢成文さんを長として副知事その他は当面現職を起用と打ち出してくれるのがありがたいのですが。

わたしが橋下徹さんを信用できないと断じた理由はもうひとつ。

「自分しか信じていない」

と受け取れる言動が多いこと。維新の国会議員団が提出した政策提案は論外なものが多かったとは言え一蹴する一方、唐突にだした自身の消費税11%は採用します。橋下商店といえばそれまでですが、自分しか信じていない人を信じても報われることはありません。

柔軟に意見を取り入れる。という評価も彼にはありますが、相手の意見を受け入れたというより、サジェスチョンに触れて

「自分の意見が進化した」

とあくまで自分の手柄としておきながら、現実の前に妥協した原発再稼働などの案件については

「仕方がなかった」

と、そもそも見ていなかった現実に対しての反省の言葉はないままに、責任を外部に求めます。

その傲慢さを愛する人には快感なのでしょう。

ただ、彼のやり方が透ける点を指摘しておきます。

こちらもすでに軌道修正が始まっていますが、当初、維新の会は次回衆院選にて過半数の議席を確保するだけの立候補者を立てるとしていました。すると定数480に対して最低でも241人、実際には300人規模を立てると見られていました。これも後に馬鹿コメンテーターと罵倒するかも知れませんが、彼らの言葉を真面目に受け止めてあげての発言については

「言っていない(具体的な数字に言及していない)」

としれっと答えるのでしょうね。

300人の立候補者が困難となり、いまは各都道府県の1区を中心に最低でも47人を擁立すると今朝の報道にありました。するとISN47(維新)かHSM47(橋下)と揶揄されるのでしょうが、当初目標を実現したとします。つまり241人の議席を確保するのです。

その暁に憲法解散しどうたらこうたらはともかく、船中八策に掲げた「衆議院の定数半減」を実行することでしょう。

つまり維新の仲間のうちから1人は議員でいられなくなるということです。実際には残りの239議席の他党も死にものぐるいで議席を取りに行くので、維新の会から衆院議員になったものの大多数は「捨て石」になるということです。

大義のために捨て石になる。その覚悟の上で、一説には数千万円から億に達するといわれる国政選挙費用を自己負担する人が立候補・・・するのでしょうか。IT長者でもなければ現実的ではありません。

そして憲法改正についても改正しやすいルール作りは良いとしても、衆院の定数を減らしてしまえば、より一方向に傾きやすくなることは自明で、例えば憲法改正基準を変更した直後には総選挙をして直近の民意を問うぐらいの「安全装置」が欲しいものです。

そうでなければ、維新の会が単独過半数を獲得した状態のまま、少なくとも国会の決議としては憲法を気楽に変えられるようになってしまい「独裁」が暴走するリスクが高まるからです。

仲間すら切り捨てる。これが橋下さんのやり方。ドラスティックでクールです。世襲や利得のために政治屋を続ける人より立派という見方もできますが、彼は発言を翻すことを躊躇いはしません。

切り捨てがすべて悪いとは言いませんし、むしろ外科的処置が必要なことのほうが多いでしょうが。患者が医者に身体を切り刻ませるのは医者を「信用」しているからです。その点、わたしは彼に外科手術を依頼する気にはなれません。すると彼はいうでしょう。

「ぼくは医者じゃないし、比喩表現としての患者だとするなら、
ぼくは彼なんかを治療はしない」

さりげなく「なんか」と罵倒するのも彼の持ち味です。

最後になりましたが彼を「保守」で分類するのは大間違いとだけ指摘しておきます。

日本の政治においての保守とは日本の伝統を守り、受け継ぐことです。

その中心に「天皇陛下」がおわすことは疑いようもありません。敬意は思想信条の自由から問いませんが、少なくともぞんざいに扱うなど論外です。

橋下氏はなぜだか「小沢一郎」さんが大好きなご様子。

小沢一郎と言えば、政権与党の幹事長時代、支那の副総理の来日に際して

「天皇陛下をアゴで使った男」

です。「保守」の視点に立てば、この一点において充分で、それを侮蔑もしないで手を組もうとまでしているところに、彼のイデオロギーが透けて見えます。

でもきっと言うでしょうね。

「イデオロギー? そんな時代じゃないよ」

わたしはずっと彼を保守の反対側の人だと思っていました。いまの第三極報道でカテゴライズされるまで。

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