つまりは宣戦布告である

日経新聞がつくづくクソだなぁと再確認したのは東京都の
「尖閣購入」についてです。

後出しジャンケン・・・つうか、首相の風貌と相まってお笑い
トリオ「ダチョウ倶楽部」の順番を奪い合うギャグのように、
政府が購入の意思を示したことを持って、そちらに道を譲れと
いい、それが筋だといい垂れます。

もともと東京都の石原都知事の購入表明以来、社説でなんども
苦言を呈す体で批判してきたのですが、クズたる所以は中国を刺激
するなという理由での反対で、国の仕事にしゃしゃりでたとして、
都税を使うことに都民の理解を得られないと、上から目線で偉そう
にいい垂れていたものが、寄付が集まると金に関しては口をつぐみ、
しかし、中国様への配慮だけは忘れないところは、商社出身の
中国大使にそっくりで吐き気がします。

その政府が尖閣諸島に「20億円」の値段をつけたと報じられま
した。

今朝現在の寄付は1,394,960,269 円。約14億円です。ここには
わたしが振り込んだわずかな気持ちも含まれております。

当初いわれていた購入価額は10〜15億円。土地の価格は諸処の
条件で変わりますが、国が、いや野田佳彦・・・首相がやっているこ
とはこうです。

「札束で横っ面をはたく」

誠心誠意が聞いて呆れます。誠意のない人間ほど、誠意を口に
する典型でしょう。

そして他人のものを自分の土地と言い張る中国はもちろん、
有利な自分の力(国家と金)を使い横車を押すやり方は

「イジメ」

をする人間の精神構造と同じです。

かつて昭和の頃、戦争時代を知っている大人が生きていた頃なら
野田佳彦は「卑怯者」という当時において最大の侮辱を受けたこと
でしょう。

残念ながら平成日本において「卑怯者」は昭和ほどの意味を持たず、
先輩お笑い芸人が自身の有利な立場を利用して、後輩芸人に無理難題
をつきつけても、それを「卑怯」と呼ぶものは皆無です。しかたがあ
りません、政府がそれをし、それをする中国を刺激しないようにと
日経新聞が叫ぶのですから。

さて「イジメ」。自殺者がでるたびに繰り返される識者の指摘は
こうです。

「イジメはなくならない」

その通りです。中国が日本に対して行っているのはイジメという
よりは「嫌がらせ」ですが、南沙諸島や、ウイグル、チベットで
やっていることはイジメ以上のことで、中国の犯した悪行を許す
つもりはありませんが、ただし、弱肉強食という自然界の残酷な
真実がそこにあります。

もちろん、人は獣から脱するために倫理をもって、イジメを
克服しようとするのですが、本来は充分な倫理が身についたはずの
大人の世界でもイジメがなくならないのであれば、不十分な子供の
世界でイジメがなくなると信じるのは幻想を通り越した妄想です。

ところが「学校」という空間はイジメを認めたがりません。

ここ最近、明るみに出たイジメ問題で、学校側の対処に落ち度が
なかったかと指摘されており、なるほど酷いなぁと思うことも
少なくありませんが、社会全体の問題に言及する声にまで及ばない
限り、イジメで命を絶つ子供を減らすのは困難でしょう。

その問題とは「平和の毒」です。石原慎太郎都知事閣下がよく
使う言葉ですが、換言すればこうです。

「暴力の否定」

人を殴る蹴る、罵詈雑言を浴びせる、集団で無視をする。みな
広義においては暴力にカテゴライズされるものです。

ところが学校教育において暴力は否定されます。その行使につ
いて抑制させるのは当然としても、

「暴力の存在、そのものを否定している」

のです。だから説明がつかなくなります。もはや社会全体で
暴力がないものように語られるのもまた「平和の毒」です。

暴力が存在し、それは誰も行使できる力であることを教えない
から、その行使に伴うリスクを知らずに育ちます。

これでは自動車の危険性を教えない交通安全教室です。

まぁこれも重なるのですが、近頃の足立区のガキどもは自動車
が近づいてもよけることが減りました。特に生活道路などで
顕著で、自転車など道路一杯に横並びになって走る姿は珍しく
ありません。

彼らにとって自動車は避けてくれるものであり、大人は怒らない
存在だからです。道路交通法上では交通弱者に配慮するように
記されており、自動車は歩行者を避けて徐行して通過しなければ
ならないことになっています。しかし、誰もがそう運転している
訳ではなく、歩行者すれすれをスピードを出して疾走する自動車
だってあります。それが現実です。法律論と現実は異なります。

だから私は窓を開けて怒鳴ります。それはもうここでは書けない
ような、トラウマになりそうな台詞を投げかけるのは自動車も大人
も危険な存在・・・の場合もあると教えるためです。

先日もマクドナルドにいると、中学生7〜8人ぐらいの集団が
はいってきて、周囲に気を使うことなく大声を張り上げ、一角を
占拠します。そのウチのひとりは周りに聞こえる声で

「タバコ忘れた! 誰か持っていない」

と悪びれた表情すらしません。しばらくして多少静かになった
ので見逃していると、集団のひとりがゴミを店内に向けて投げて、
ケラケラ笑っています。

しばらくしてゴミを拾ったのはわたしです。拾ったゴミを子供
たちのそばに持っていき投げつけひと言。

「ゴミをまき散らすな。ここは公共の場だ、はしゃぐならよそで
やれ」

すると鳩が豆鉄砲の例えのようにぽかんと。表情から想像できる
理由はふたつ。

「悪いコトという自覚がない、大人に叱られた経験がない」

で、ぷちん。

「ワカッタンカァゴルァ」

青ざめたのですが、返事がありません。すると端にいた子供が

「はぁ〜い」

と舐めた口調で返事。まぁこれが誘い水になればともう一度
ゴルァ。より舐めた口調でこの餓鬼が

「はぁ〜〜い」

ぶちん。なにかが切れます。で、この餓鬼ににじり寄り

「大人を舐めるなよ。ぶっ飛ばされないとおもっとるんか」

それでも最初は舐めた表情でした。ので、殺気充電完了です。
で、ぶっとばしはしませんが、もう少し、社会のルールを
きつめに教えようかとある種のボディタッチをしようと近づく
と、小僧からは匂ってきたのは

「乳臭さ」

子供特有の匂いです。殺気も放電しました。で、さすがに
やばいとおもったのでしょう、少ししおらしくなったのでこ
こが落としどころと手を引くことに。

「いいか、大人を舐めるなよ」

と言い残してその場を後に・・・するふりして、もう一度
立ち戻り「わかったな」。びくっとするのが分かり内心爆笑。

例えは少し脱線してますが「暴力」を否定する教育により
社会が怖いという感覚も欠落しているのでしょう。

これらを教える責任の半分以上は家庭にあります。しかし、
その親の世代も暴力はいけないと育てられた世代で、さらには
その親、つまり親子三代にわたり暴力の存在を否定して生きて
きたこともまたイジメ問題を深刻にしているように思えるのです。

また脱線ついでですが、「イジメ」ではなく犯罪だという
主張はその通りだと思いますが、あまり罪名を並べるのは得策で
はないと考えます。なぜなら

「モンスターペアレンツに知識を与える」

からです。そこで本稿では「イジメ」に留めております。

「平和の毒」に話を戻します。暴力は常に存在し、一定量を
越えると歯止めがきかなくなる性質を持ちます。当たり前のこと
ですが、平和の毒がこの感覚を麻痺させます。

「暴力」は否定され封印されますが、生まれ持った本能を倫理で
抑えることはできても、倫理が未成熟な子供に・・・限らず大人
もですが・・・それを期待するのは幻想です。

そして「遊び」と称して暴力がふるわれます。

プロレスごっこ、格闘技ごっこ、格闘ゲームごっこ。

プロレスファン同士による「ごっこ」を否定しているのでは
ありません。「遊び」と呼び替えた暴力においては、イジメを
合法化する方便となるということです。

そこにあるのは「力の差」です。正義のヒーローと悪の怪人に
わかれて戦うふりをする子供の「ごっこ」ではなく、一方的な
暴力行為です。

ここにもう一つの「平和の毒」が加味されます。それは

「みんな仲良く」

そう仲良くすることが至上命題で犯すべからず戒律のような
教育が被害者から逃げ場を奪います。

「ノリが悪いな、遊びだよ遊び」

この台詞で思考停止します。しかし、100人がいて100人と
仲良くなれることなどありません。Facebookで1000人の友達が
いてもそれは友達ではなく利用と打算と共生という大人の事情に
過ぎません。そしてFacebookの友達がリアルでプロレスごっこを
したいと願うことはないでしょう。プロレス同好会のOBは除いて。

この暴力的な遊びの一つに「肩パンチ(肩パン)」があります。
交互に互いに相手の肩を殴り合うというものです。

似たようなことは私の頃にもあり、当時は腹筋でした。ここは
鍛えられるので、みぞおちに当たらなければ、殴る練習をしたこ
とのない同級生のパンチはあまり効かないのです。一方、殴る
訓練をしていると相手の痛がる殴り方を知っているので、だいた
い一回ずつやれば優劣がはっきりつきました。もちろん、深追い
はしません。

ところが肩パンの場合、腹筋の鍛錬を誇るものでも、攻撃力
を自慢するものでもなく「遊び」とされています。だから、本当
に痛くされても泣き叫べばこういわれます。

「だせぇ、空気読めよ。遊びだろ」

痛みに耐える空気が醸成され、力量の差が明らかであっても
遊びなので、強者が飽きるまで継続されます。

暴力は思考を停止させます。痛みを回避したいという本能が
服従の引き金を引きます。そして深刻なイジメへと発展します。

ここからは本当に「言えないこと」。自己責任で。

肩パンで痛いと思ったらそう申告し「遊び」を拒否しなさい。
理由は宗教でも虚弱体質でも結構。痛いからイヤとはっきり
いうのが大切です。

そして、空気が読めないや遊びだと無理に誘うなら参加して
こうします。

「肩を殴るふりして渾身の力で相手の鼻を殴りつけろ」

殴った相手がまだ動けるようなら、正面から相手の首にぶら
下がるように両手を回し、一心不乱に相手の鼻めがけて頭突き
を繰り返します。ポイントは相手が動けなくなるまでやること
です。

我が師 宮脇護(亡父)直伝の必殺技「パッチ(頭突きの
ことらしいです)」です。

暴力はいけない? 寝言を言ってはいけません。先に喧嘩を仕掛
けてきたのは向こうです。それはこう証明できます。

「痛いと告げていた。にも関わらず肩パンを強要した。
すなわち私に痛い思いをさせる目的で参加を呼びかけた。
あいてに不利益がある取引を強要した。つまりは宣戦布告である」

損をすると分かっている取引に応じるのは世界広といえど
我が国の政府ぐらいでしょう。なにより相手が痛がることを知って
その上で強要するのですから喧嘩を売っているのと同義です。

これを喧嘩でないと言い張るなら、それはすなわち「イジメ」
となります。

仮にこの通りにして、教師や警察に咎められた逆に質問してく
ださい。

「痛いからイヤだといってそれでも強要する行為は喧嘩でなければ
イジメではありませんか。仮にそれでも遊びと仰るなら、先生、
あなたにも肩パンやらせてください」

実はこのくだり、わたしが高校2年生の時、母校の校長室での
やり取りがベースになっています。ちょっとしたことから3年生に
袋だたきにあったのですが、このとき、粋がっていた小僧・・先輩
を顔面のわたしの正拳が直撃し、全治2週間のケガをしたと騒動に
なったのです。

喧嘩両成敗で双方停学になるという話しだったので、当時の校長
にこういいました。

「先生、ヘッドロックされて身動きできない状態を暴力と呼ばない
のなら、今この場で先生にヘッドロックをかけさせてください。
わたしかかる暴力を振り払うために手を出したのです。
座して死を待つことはできません」

そしてわたしは無罪放免。怪我した先輩は停学になりました。

話を戻します。現実社会に暴力は日常的に存在します。だから
暴力はある前提で対策を立てなければなりません。その対策のひと
つが

「暴力を持って暴力を制す」

です。ただし、これは初期の段階においてのみ有効です。例えば
実効支配される前に尖閣諸島に軍事力を置くことは効果的です。

しかし、すでに実効支配されている竹島や北方領土に武力を
差し向けることは爽快ですが高い代償を払うことになります。

どちらを選ぶかの結論はここでは避けますが、大切なことなので
繰り返します。暴力による解決はその初期においてのみ有効です。
いわば小火を爆風で消すようなもので、大火となってからは、火に
油を注ぐの例えとなります。

それでは大火事となっているイジメはどうすれば良いか。

方法はひとつです。弁護士に相談し、警察に被害届を出して
転校してください。

イジメへの対応は弁護士と警察というプロに任せ、学生の時に
しか過ごせない時間を楽しむためのいわば戦略的撤退です。

子供同士の暴力=喧嘩で解決できないほど浸透していたら修復は
不可能です。そこに暴力の本質があります。暴力を自分の快楽=
イジメのために使う人間は、一度知った快楽を手放すことが困難
だからです。カウンセリングや矯正施設により、改善することも
期待できますが、それは虐められた側のする心配ではありません。

暴力はいつでも存在します。そして、すべての人と仲良くする
ことなど不可能です。

暴力には暴力で立ち向かうのもひとつの方法です。

誉められたやり方ではないと眉根を寄せる人もいるでしょうが、
もっとも簡単で、かなりの効果が見込めます。冗長になるので
今回は避けますが、わたしも何度か軽いイジメに遭いましたが、
すべて暴力で解決できました。まぁその為にはイジメに匹敵する
ほど、自分を自分でイジメる訓練も必要なのですが。

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