永遠にいまの価値観が続くという前提に立つ暴論

 来週末映画が公開される『永遠のゼロ』。朝日新聞から右翼作家のレッテルを貼られた本屋大賞受賞作家の百田尚樹さん原作です。

 主人公は祖母の死後、子連れの再婚で実の祖父は特攻隊員で散ったと知り、姉と共に、その祖父の足跡を訪ねる過程で、当時の日本人が何を思い、何のために生きたのかに気がつく物語で、後半の展開は多分にご都合主義のきらいもありますが、エンタメ仕立ての味付けとしては、伏線が見事にまとめられていく仕上がりには納得します。

 主人公の祖父が「臆病者」と詰られたのは命を惜しんだから。卓越した飛行技術を持ち、仲間を思い、生きて帰ることを広言しながらも祖父は散ります。そして戸籍はともかく、血縁上は義理にあたる祖父は・・・とは、野暮すぎるので語りませんが、伏線で寄せる期待がすべてつながる見事なエンタメ小説ですが、映画館で見た予告編は、原作を読んでいると

「ぜんぶ」

 が映像として流され、大丈夫なのかと首をかしげたものです。

 唐突に『永遠のゼロ』を取り上げたのは、小説の中で姉が憎からず思う人として「朝日新聞の記者」らしき人物が登場し、戦時下の日本をすべて悪辣に罵るシーンが登場するからです。読了後に、これもエンタメ的要素だと気がつくのは、いま放送中の朝の連続テレビ小説『ごちそうさん』における小姑のキムラ緑子の快演のようなもので、対比により主人公に感情移入させる手法です。

■永遠のゼロ
http://www.as-mode.com/check.cgi?Code=406276413X

 また余談に流れるのですが、その『ごちそうさん』の時代考証が不思議すぎ、それもドラマだからと流しながらも、主人公の杏演じる「め以子」が義妹にあてて書く短文の手紙が、左から右へと流れる横書き(つまりはこの文章同様)で、当時は「ルメラャキ」と右から左へと流れるのは、縦書きを継いだもので、というよりも縦書きが一般的で、さらに楷書より草書に近く、私の手元に残る主人公より十数才年下となる祖母からの手紙は、ときどき読めない(日本人として恥ずかしい限り。前後の文章から読み下してはおりますが)草書風であろう文字が登場します。

 この祖母は東京出身で大阪に嫁いでいるので、主人公と似たような境遇にあります。さらに余談を重ねれば、永遠のゼロに重ねたわけでもありませんが、奇しくもこの祖母は血縁上、わたしとは他人で、亡父が里子に出された先の養母で、後に養子縁組も解消していますが、内孫のように可愛がってくれた記憶しかありません。そして手紙は、わたし「優しさ」を「弱さ」と指弾するもので、

「男の子は優しいだけではダメ」

 と、記憶を辿れば小学5〜6年生ごろの子供に向けて叱責する祖母の深い愛情に涙します。

 なんだか余談ばかりで話しが進まないのですが、本日は亡姉の命日で4年前の未明、不帰の旅にでかけました。どうやら帰ってくる予定はないようです。

 その姉曰く

「おばあちゃんは大嫌い」

 だそうです。仮に先の祖母を「大阪のおばあちゃん」とし、血縁上の父方の祖母を「高知(県)のおばあちゃん」と呼ぶとし、そのどちらも姉は嫌っていました。

 理由は差別されたから。大阪のおばあちゃんは小学生のわたしに男子とはと手紙で諭すような人柄で、躾けに厳しく、同時に「男子」を大切する人でした。ひと言でいえば、女は一歩下がってという価値観で、わたしはとにかく大切にされましたが、姉は粗末にされたという記憶になっていました。一方、義理の祖父は優しい人で、男女の分け隔てをせず孫として接し、余計に姉の記憶が強化されたのでしょう。

 高知のおばあちゃんとなるとより複雑です。実子の父との折り合いもいまひとつだったこともあり、また女孫は父のすぐ上の兄の子が姉よりひとつ上と同学年にすでにおり、ずっと近くで育ったこともあり、その従姉妹ばかりを可愛がったとは姉の愚痴です。わたしはといえば、初めての男の子の孫で、やはりどこにいっても人気者。だからわたしはどちらの祖母も大好きです。

 男女同権を狂信する田嶋陽子先生が聞いたら怒りをあらわにするであろう男女差別ですが、どちらの祖母も大正女で当時の価値観としてはなんら不思議なことではありません。

 そういう時代であり価値観だったのです。『ごちそうさん』のなかで、長男である弟よりも、長女を大切にする原田泰造(父親役)への違和感もここにあります。

 先週、池上彰氏が「道徳教育」の否定のために「昔はひどかった」と断じた政治活動をとりあげました。

 特定秘密保護法の反対論にも通底するのですが、どちらも価値観の違いを無視した暴論であるというのが本日のテーマで、爆弾抱えて死にに行く特攻隊を「狂信者」となじり、女孫と男孫への態度の変化を「男女差別」とするのも同じです。

 それは「人権」も同じです。先日無くなった南アのネルソンマンデラ氏の功績を称えますが、それはかつて「人権」とは、極一部の白人にだけ与えられるものだったからです。

 人種隔離政策(アパルトヘイト)といえば有色人種差別政策で、これは1948年、昭和23年に制定されたもので、英国連邦下で行われています。

 本旨からはずれるので深掘りしませんが、敗戦後の日本で開かれた勝者による敗者のリンチ「東京裁判」で問われたのは「人道に対する罪」とやらで、同時進行で戦勝国のひとつ英国は、有色人種を隔離(差別)していたのです。かように「人道」とやらも危ういもので、勝者の都合で左右されることがあるものに過ぎないのです。

 また、キング牧師が「I Have A Dream」と演説したのは1963年、昭和38年で東京五輪の前年。つまり米国には厳しい人種差別があったということで、いまも人種差別に厳しい態度で挑むのは、人々の生活の中に人種差別が残る証拠です。

 だからこそオバマ大統領に米国国民は熱狂したのです。そして肌の色で差別するなど論外と素直に思える価値観は、ごく最近のものでありながら、いまだに定着していない事実も散見します。

 価値観の違いについて、近い歴史の話しをします。インターネットの話しです。

 かつてブラウザやメーラーは有料でした。メールアドレスも有料でした。無料メールが登場し勢力図が塗り替えられ、HotmailやYahoo!メールはいまやGmailやLINEのアカウントになりました。

 無線接続の無料化が叫ばれるなか、かつてはテレホーダイの深夜接続で、従量課金でネット使用料が数十万円になり、ちょっとした社会問題となったのは20世紀の話しです。

 芸能人が離婚や結婚を発表するのはかつては記者会見で、しばらくしてFAXになり、いまはブログ、あるいはツイッターです。

 わずか20年に満たない業界の中で価値観は毎日のように塗り替えられています。「インターネットは無料が当たり前」という主張に現時点では一定の説得力はありますが、米国を筆頭にニュースの有料化はちゃくちゃくと進行しています。

 価値観とは現時点での、特定の立場からの評価に過ぎず、過去と未来を拘束するツールにはなりません。

 先週、池上彰氏をあげたのは彼の左翼的解釈が、もっともこれを知るのに分かりやすいからで、共産革命という解脱に到達するまでの全てを否定する思考回路がいまの日本を蝕んでいます。

 左翼=リベラルとすればこれを否定する人もいますが、解脱=ゴールが共産革命でなくとも思考回路は似たようなものです。

 現状を元に過去と未来を評価するのがそれです。

『なぜリベラルは嫌われるのか』
http://goo.gl/urGHWa

 と題した城繁幸氏のコラムで筆者は、元勤務先の内部事情の暴露という内ゲバで名を挙げた人物で、いまは人事コンサルティングを名乗りながら、格差社会を嘆く人物です。

 コラムのタイトルは精神科医の香山リカ氏のツイートが元ネタで「リベラルは弱者保護を叫びながら、高齢者や正社員の特権を放置している」と指摘し、原因を格差社会に求めます。

 格差もまたリベラルの主張で、これまた近親憎悪の内ゲバにも見えるのですが、これらへの「処方箋」とする提示を引用すれば


・社会保障制度の抜本的な見直しと、その中での高齢者優遇の見直し

・終身雇用制度の廃止と、企業規模によらない(解雇に伴う金銭補償、失業給付の拡充等の)セーフティネットの整備

”(前述コラムより引用)

 そしてスウェーデンを持ち出した時点でガッカリ。歴史文化、そして宗教の視点が欠落した社会システムなど存在せず、これを無視した提案など画餅というより、無い物ねだりの妄想です。

 社会保障制度の抜本的な・・・この「抜本的」とは便利な言葉で、「維新」に通じる響きの良い言葉ですが、その実態が明示されていなければ本当は評価すらできない希望や妄想に過ぎません。

 さらに終身雇用制度って、法律で義務づけているものではなく、戦後の特殊な期間に生まれた共同幻想で、そもそも制度ではありません。

 正社員は有利、特権階級だ

 などとは富士通のような大企業を基準に考えての上から目線で、会社の存在すら日々怪しい中小企業においては、あした出社して会社があるかも定かではないのです。

 格差を嘆く人の多くが、一流大学を出て一流企業や、そのまま大学での専攻を職業にしているような気がします。つまり社会の枠組みを信じているから、格差というプロパガンダに盲従し、それを議論のたたき台として自縄自縛に陥ります。

 わたしのように高卒で中小企業、フリーター経由の独立組みからみれば、社会は格差があるからチャンスがアリ、不安定ゆえに自由もあるのですが。

 一方、元ネタの香山氏は、みずからをリベラルと定義し、秘密保護法に反対の声を上げることで、リベラルが反対するなら正しいとする声が、ネットにあることにリベラル側も気がつくべきだというものです。

 彼女の日頃の主張に首をひねり過ぎて寝違えることもあるのですが、自省する姿は素直に好感します。

 しかし、リベラルが嫌われる理由は格差社会でも老人の優遇にもありません。素直な国民感情です。

 リベラルが擁護していた中韓への嫌悪感、戦争ハンターイの声や「憲法9条バリア」がまったく無力であったことに、国民が気づき始めたからです。

 ましてやネットにはウヨクがウロチョロしています。そこで多く発言を繰り返すのは特定の思想信条を持っているからで、国会周辺で秘密保護法に反対する声とは、ステレオのLとRの違いのようなものです。

 これもリベラル的といえますが、大声を出している連中だけを切り取り「これが国民の声だ」とする手法を、ネット上にあてはめたのが香山リカ氏の人間的素直さの発露かも知れません。同じネット上でも吉田照美をフォローしていれば、

「リベラルこそ日本人」

 と安堵するでしょうに。

 リベラル同士の内ゲバは脇に置き、城氏のコラムを取り上げた理由は「世代間格差」を煽る論には、価値観の変化という視点が抜けているからです。男女差別が当たり前だった時代を、男女平等の価値観の時代から裁くようなものです。法治国家において「事後法」が許されるのは中国と韓国ぐらいですが、世代間格差論はこれと同じです。

 少しでも歴史に敬意を払うものなら、過去をいまの価値観で断罪することが愚かであることを知っています。

 ところが池上彰氏がそうであったように、左翼や、左翼の洗礼を受けた人々は、過去をいまの、あるいは共産革命成就を前提とした価値観で評価し、結論的には卑下します。

 とくに世代間格差を叫ぶことで、若者の代弁者になろうとするのはインチキな尾崎豊です。

 またまた脇道の逸れますが、尾崎豊の作品には、漂うハングリーさというか、貧しさのテーゼがあり、ウィキペディアによれば「決して裕福ではないが」とあります。こうした空気感もまた、彼をカリスマへと押し上げたのですが、尾崎豊の御尊父は陸上自衛隊で、つまりは公務員です。各戸の事情はそれぞれあるにしても、青山学院高等部へ進学しています。

 彼の生い立ちをまとめた小説に、青学時代に同級生と食事に出掛け、お金がないのでコーヒーだけを頼んだところ、同級生がおごってくれることになり

「カツカレーを頼んでおけば良かった」

 という心理描写がありました。しかし、貧困ではありません。お坊ちゃま学校に通うクラスメイトとの生活レベルを比較して裕福さの欠如であり、喰うことに困るレベルの貧しさではありません。

 そもそも、彼がブレイクした時代、バブル前夜で、日本全体もすみずみまで豊かになったと胸を張れずに、だからこそ同世代の共感を得たといえます。

 そう、池上彰風に言うのなら

「昔は貧しかった」

 のです。

 世代間格差を叫び、若者を犠牲者被害者とします。高齢者の過剰優遇の是正はぼちぼちやらなければならないとはいえ、年寄りばかりが得をすると煽るのならば、正しく過去に触れなければなりません。

「スマホもねぇ、ガラケーもねぇ、LINEなんかはもっとねぇ」

 いまの高齢者が若者だった時代です。高齢者を団塊の世代と限定すれば、マクドナルドもカラオケもなければ、ディズニーランドもありません。ネットなんかはなく、家庭に一台の電話もほとんどなく、テレビがようやく普及したかどうかの青春です。髪の毛を伸ばし、ギターを持てば不良です。

 中学を卒業して就職するのは珍しくありません。住み込みとして転がり込む寮があればマシなほうで、三畳一間のトイレ、炊事場共同で、お風呂なんてなく、街にでれば未舗装路では砂埃が舞います。

 コンビニとは雑貨屋でしょうか。本屋で立ち読みはタブーです。トイレはくみ取り式が多く、洗濯機は普及前夜、あっても二層式どころか脱水機は、脇に付いた「ローラー」でした。

 牛肉など高級品で、ピーマンはいまより苦く、キュウリは臭く、茄子のアクは強烈でした。先の『ごちそうさん』で気になるのは、あまりにも飽食過ぎることで、わたしの子供の頃は庶民にまで豊かさが届き始めた頃でしたが、家庭により浸透圧の差が激しく、クラス内で貧富の差が出はじめた頃です。

 ただし、当時は豊かであることを見せびらかすことは「はしたない」とされていたので、生活レベルの違いを知るのは、その子の家に遊びに行った時に・・・打ちのめされるのですが。

 さらに団塊の世代は同級生が多く、生まれたときから苛烈な競争に晒されています。彼らがいまの「世代間格差論」のように主張するならこうでしょうか。

「なぜ、子供を多く作ったのか」

 ・・・それはねぇ、人の営みというかとニタニタとしてしまいますが、同時に生まれた「格差論」の萌芽をここに見つけます。

「なぜ、戦争をしたのか」

 占領下の日本は言論統制がなされ、解除後もGHQの方針に従った言説がまかり通りました。そして「戦前、戦後」と線引きをして正邪を分けたのです。

 年寄りは優遇されすぎていると前時代の悪と定義し、搾取される若い世代を善とする二分法ですが、論点をすり替える詐欺師の手法でリベラルの得意技です。

 優遇されているなら是正すれば良いのです。特定秘密保護法にもつうじますが、おかしな法律なら変えれば良いのです。憲法ですら神から与えられたものではなくGHQによる作文に過ぎません。その正当性の議論を求めるものではなく、現代の価値観にそぐわないなら現代の価値観に沿うように変えればよいだけのことです。

 これこそが「価値観」の真実です。

 ここで結論。価値観とはその時代にしか存在しないものです。そして「世代間格差論」とは、「いま現在」の価値観をもとに優劣をつける近視眼的な、いまの価値観では許されないことを踏まえて言うならめくらの論法です。

 いま現在とは、将来において「特異点」と呼ばれる異常事態のただ中の可能性もあり、それをもとに過去も未来に同列に並べて語ることに無理があるのです。

 いや、いま格差はある! と主張することでしょう。国の借金は1000兆円を超え、若者世代はもちろん、生まれてくる子供にまで多額の借金を背負わせている!

 国の借金が増えているのは事実ですが、暴論を述べれば国の借金は徳政令を出せばチャラにでき、現実的な話しならば、インフレ軌道にのれば目減りするもので、昭和時代では常識です。

「借金も資産」

 というのはこの頃の価値観から生まれた言葉といってよいでしょう。仮に10年間で大卒初任給が2万円から20万円になるとするなら、10年前に100万円の借金をしていても、10年経てば返済額以上に負債が目減りしていると言うことです。

 日銀目標として2%のインフレを狙っていますが、複利で運用して元本を倍にする「72の法則」を単純にあてはめるならば、36年間で国の借金は実質半分になるということです。

 それでも500兆円ですが、孫の代まで借金漬けとは、いまをいきる我々はもちろん、若者までが、未来への責任を放棄した、いま現在の近視眼でみた無責任な嘆きです。

 これまた暴論を覚悟で、いまの若者にひとつ問うならば

「スマホない生活できますか?」

 借金だらけで老人天国、世代間格差論者が嘆くこのどうしようもない国は、それでも世界第3位の経済大国。ネルソンマンデラが戦った南アフリカで「名誉白人」と呼ばれ、有色人種ながら特別扱いを受けたのは「経済力」で、これらはその天国に行く・・・天国にいる老人達が創りあげたもの。

 翻り若者は何をしたのか。スマホでさえ世界と繋がることができる環境を与えられている平成日本の若者はなにをしているのか。

 と、説教をたれるのは趣味ではありませんが、世代間格差とは常にどの時代にもあるもので、年金も含めた高齢者の福祉にだけスポット当てれば、そう見えるだけのことに過ぎません。

 世代間の「デジタルデバイド」は深く、若者は圧倒的に有利なポジションにいるのです。そしてなにより、年寄りは若者より高確率に先に死にます。そのときの主役は若者であり、また若者もいずれ老人になる運命から逃れることはできません。これは価値観の違いではなく普遍の真実です。

「年寄りはずるい」

 的な格差論とは天に向かって唾をするようなもの。

「子ども叱るないつか来た道。年寄り笑うないつか行く道」

 いまの格差は、インフレ社会と超競争社会を生き抜いてきた団塊世代へのボーナスとして優しく見逃しながら、早急に改善していけば良いだけのことではないでしょうか。

 年寄りを優遇し続ける? いやいやあくまで「ボーナス(一時金)」ですが。

 格差論とは、永遠にいまの価値観が続くという前提に立つ暴論です。

ブログ村に参加してみました。宜しければ右バナーをクリックしてください→ にほんブログ村 政治ブログ メディア・ジャーナリズムへ
にほんブログ村

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください