先日、区内の中学校の大半が卒業式のようで、小さな花束をもっ
たこどもたちを多く見かけました。多くが進学するのでしょう、
昨年、亡姉の甥を高校にねじ込んだ経験からも、いま都内で高校生
にすることは難しいことではありません。
基礎学力と生活習慣、さらに人間性に難があった甥は大変でした
が、それでもねじ込んだ経験から間違いないと胸を張れます。
もっと言葉を究めれば、自分の名前が書ければ入れる都立高校が
増えている・・・とはあながち言い過ぎではないのです。
学習の機会を増やす。これは素晴らしいこと。あまり広言するのも
格好が悪いので小さな声でつぶやきますが、子供に恵まれなかった
わたしたち夫婦は愛犬に・・・もとい、もう何年も前から、
発展途上の国々のこどもたちへの教育プログラムに寄付をしており、
それは口にするの恥ずかしいほどの金額ですが、いまラオスと
モンゴルで「我が子」が勉強をしています。
学びは力になります。きれい事ではなく。
そして、学んださきに何があるかもまた大切です。
内閣府が19日に発表した統計によると、大学を卒業して3年以
内に離職したり、就職しなかったり、アルバイトだったり、中退し
たりを合算すると52%に登ります。
大学を卒業して就職し、3年後も正社員でいるのは半分以下の
48%です。
東大がぶちあげた秋入学に際して、企業側の協力を呼びかけ、
就職しやすい環境を求めましたが、ここで早くもギアを上げます。
「大学如きに協力してようやく採用したら3年持たずに辞める小僧、
小娘を送り込まれたら割に合わない」
とは企業の本音です。
わたしはリバタニアン的発想を好むもので、実力があればたとえ
15才でも上場企業で活躍できる社会が理想的だと考えますが、
理想論と割り切る現実性も兼ね備えています。
その現実から言えば、明確な目的意識を持ち大学に進学する
若者は少数派で、まわりに流され、あてがわれたノルマのように
大学を目指すものが大半です。
社会経験上、仕事への意識も持たず、平等が約束された学校と
いう特集空間から、生き馬の目を抜く社会の価値観を感覚から理解
できるようになるのにおおよそ3年かかります。実際には、会社を
辞めてフリーランスになると、会社員時代にはそれでも呪縛がある
ことに気がつくのですがレアケースなので触れません。
目の前の「作業」に関しては、数時間から数週間で覚えても
季節要因で変化する仕事もあり、社内イベントなどを追いかける
うちに過ぎるのが1年目です。
2年目は1年目のできごとが「やらされていた」ことに気づいて
終わります。また、その意味を確認する歳月でもあり、ボーナスや
昇給といったプライベートに密接するできごとへのリアリティが
増してきます。
そして3年目。確信を持って仕事ができるのがこのあたりで、
ようやく給料分に見合った仕事ができるようになってきます。
このころ社会が不平等だということを素直に受け入れるように
なっているでしょう。
つまり3年目からようやく会社の戦力となるのですが、その前に
辞められては企業は採用コストと育成コストで赤字となります。
それが半分以上の大学生が会社に貢献せずに辞めているとすれば、
それも企業競争力に悪影響を及ぼしている懸念は拭えません。
ちなみに入社一年目から大活躍できる職場もありますが、
それは営業主体の現場で、●●コンサルタントと名前がついて
いても、飛び込み営業のための兵隊で、この仕事に学歴は関係は
ありません。つまり、大学にいく必然性のない仕事です。
仏文科をでたからとフランス人にテレアポする職場など滅多に
ありません。
話を戻します。さきの就職継続率(造語)を高校生で見ると
同条件で68%がプータローとなります。
マニフェスト違反で攻撃されると、民主党議員が反論材料とし
てあげる
「高校無償化で中退率が下がった」
という数字ですが、これは
「ウチの馬鹿(子供)のために学費を払うのは損」
と、以前は馬鹿親なりに、馬鹿餓鬼の高校授業料を払うのは
無駄と合理的な計算をしていたことの裏返しで、
「タダなら、遊ばせておくよりマシ」
となったに過ぎません。高校無償化で学力が向上したのなら
胸を張ることを許しますが、企業で言えば来店客数だけが伸びて
売上が上がらない施策で、それは施設の老朽化を早め、掃除などの
メンテナンス費用を増加させる悪手です。
それでも学びに触れる機会のために高校無償化を100歩譲って
認めましょう。
さて、その先のキャリアデザインは・・・という答えに戦後教育、
端的に言えば日教組教育は答えていません。また、教育界にとどま
らず法曹界、メディアにも潜伏する活動家や、反権力(というか、
反自民党なのが可愛くて問題の本質ですが)気取りのインテリなど
すべての存在が答えることができないでしょう。
答えのヒントを岩波書店が提示しました。あの
「縁故採用します、宣言。」
です。
最後に「。」としたのは岩波書店を小馬鹿にしてのこと。読者の
読解力を馬鹿にしたのではありません。
岩波書店は次の採用から、著者や社員の身内の紹介状を応募条件に
すると発表し物議を醸しました。
民間企業が独自の基準を採用にもちいることはなんら違法性は
ありません。韓流マンセーのあのテレビ局など、著名人のご子息や
ご令嬢が佃煮にするほどいますが、それにより、有名タレントである
桃太郎侍が出演を快諾し、人気タレントの兄と、アナウンサーの弟の
兄弟共演でひとつのネタができるのですから、営利企業としてみれば
プラスの材料です。
ひとは生まれを選べない。
と批判する向きに私はいいたい。
「人を生まれで選ぶような会社に入るな」
社会は不平等です。生まれで選ばれることなどざらです。
それを取り立てて応募条件に掲げるような岩波・・・そんな会社に
はいっても不幸がまっているだけです。
コネのない人間は、コネのあるぼんくらの3倍努力して、ようやく
おなじ立ち位置で、それでもチャンスに恵まれるのいつもボンクラ
です。だから、コネのない人間はチャンスを待ってはならず、
チャンスは自分から作りださなければ、永遠にボンクラには勝てない
のですが、これは余談。
「世界にひとつだけの花」のなかの「誰もが特別なオンリーワン」
という寝言を持ち上げるのなら、人を生まれで選ぶような会社に
はいらずとも、大企業に潜り込まずとも、大学に進学しなくても
もっといえばプータローだって、フリーターだってアメンボだって
だれもが特別なオンリーワンでハッピーエンドでしょうが。
どうして人は比べたがる。正社員と就職浪人のどちらも人間、
大卒なら学士様です。おなじオンリーワンでしょうが(笑)。
すいません。本音が。
岩波書店側の言い分にも一理あります。中堅出版社とはいえ
事業規模が大きくないなか、知名度の高さから毎年応募数が多く、
選考の負担が思いので絞り込みたいと。また、著者の紹介もある
ので、裏返せば著者と知り合いになれば応募は可能と言うことです。
端くれの著者の意見ですが、多くの著者は一般人で、ファンレター
をもらえば喜びます。そしてその声が心をくすぐれば知己を得るのは
難しいことではなく、いまならツイッターやブログで知り合うこと
だってできますし、セミナーなどに参加し、名刺交換したのちに
お礼状を送り、年賀状のやり取りを続けることはそれほど難しい
ことではありません。経験則からも。
こうした「努力」をせずに、岩波書店を批判するならば、その
時点で、日教組教育の代表例である悪平等に脳髄が汚染されている
証左です。ついでに就職活動中の諸氏にアドバイスをするなら、
社会は不平等であると受け入れているものは、それを克服しよう
とするところに活力が生まれるのです。つまり、格差も理不尽も
成長のチャンスであり、儲けの種がそこに眠ります。
ひとつ余談を重ねるなら、わたしが岩波書店で書籍刊行してい
たのならこういうキャンペーンを張ることでしょう。
「いま著作を10冊購入しバーコードを送ると、抽選で毎月
10名様に『紹介状』進呈!」
日頃、大所高所から批判するのが大好きな左派がこうした
皮肉の効いた抗議活動をしないところが左派の身体性のなさで、
あるいは出版社と喧嘩したくないという日和見主義です。
余談に重なりますが、目を惹くのが岩波書店という点です。
かなり色が薄まったと言われていますが、左傾斜の出版社が
氏育ちという保守的な価値観を採用基準にいれるところに、
先の就職継続率や、高卒のプータロー化の源泉がある・・・と
いうのが今回の結論です。
昨年、甥の中学の教科書を見て、さすがにソ連を賛美する記述は
ありませんでしたが、やはり左よりの価値観が支配しています。
いまだ教育の底辺に以下の観念が流れているのです。
企業=資本家=搾取するもの
個人=労働者=搾取されるもの
お気づきでしょうか。つまり、一所懸命勉強して大学まででた
後にまっているものが「搾取されるもの」です。
教育システムというベルトコンベアに流されて、辿り着いた
正社員の座も、学校と違い期末試験もなく、夏休みも冬休みに
春休みなど夢のまた夢です。学生時代は良くも悪くも考えずに
済んだのはこうした「イベント」によります。
ところが気がつけば退屈な日常が繰り返されているだけで、
3年後も4年後も、6年経っても自動的に卒業式はやってきません。
そこに心の底に刷り込まれた「搾取される」という意識が、ある日
鎌首をもたげ、己の心に囁きます。
「本当のおまえはここにはいない」
大学まででて、何をやっているのか。社会の歯車になるために
生きてきたのか? いや、違う、僕は僕だけの花を咲かせるために
自分が本当にやりたいことのために、または見つけるために・・と。
自己啓発じゃないので真実を。己の心と向き合った経験のない
ものに本当のおまえなどありません。さらにいえば本当の自分と
は、社会との相対的な位置関係から確認していくもので、多くの
大衆にとっての本当の自分とはそれで充分です。すこし難しい
表現になりますが、
「社会との関係性のない自分など存在しない」
ということ。
絶対的な本当の自分の価値観など、宗教家や芸術家の領域で、
逆に言えば人間関係の齟齬をきたす社会不適合の可能性もあり、
「自分らしさ」を過剰に求めれば、社会に馴染めないのは当然の
話なのです。
しかし、学校も社会もそうした幻想を否定しません。
詰め込み教育の反動から「個性」をなにより尊んだゆとりの
もとでは、「自分探し」が肯定されました。
それはマルクス・レーニン主義の敗北が鮮明となった時代の
左利きの逃げ場になったと推察してます。それは「公(おおやけ)」
より「個」を優先せよという、国会解体を目指す活動家がみつけた
逃げ場です。
個性を大切にと言われ育ち、大学までははいり、就職を目の前に
社会への適合を強要されます。
そして矛盾が鮮明となります。
「養豚所の豚に食べられるなと教える」
日教組が取り組んできた教育です。もちろん、現実に目覚める
学生が多いことでしょうが、社会の歯車よりも個人の生き方を
優先する価値観を刷り込まれた学生が、就職活動では没個性的と
いう現実に直面します。
就職活動中は一種の躁状態となり、無事就職できた祭りのあと
我に返り、自分探しを再び始める・・・と。
先の調査でも、求職者と雇用のミスマッチとして、
「本当にやりたい仕事」
を挙げますが、ちゃんちゃらおかしな話しです。学生にも苦言
を呈しておきます。
問います。6+3+3+(?)+4(+?)の学生生活で
最短でも16年間もあったなかで、
「本当にやりたい仕事のために努力してきたのか?」
ということ。16年間の準備期間があって、実らなかった努力
ならば結論は「向いていない」のです。誰もがプロ野球選手や
小説家になれるわけではありません。
また本当にやりたい仕事を、仕事もしていない学生に何が
わかるのかとも付言しておきます。逆に向かないと思っていた
仕事を天職にした例など枚挙に暇がありませんし、野球が好きなら
草野球は一生続けることができますし、ブログやケータイ小説
なら誰でも創作活動は可能です。
岩波書店は「左翼的建前」ともいえる悪平等を捨てました。
そこに見るのは出版業界の危機だけではありません。それは
戦後教育・・・日教組的思想の限界です。
もちろん、会社員は養豚場の豚ではありません。
公務員だって国家の犬ではありません。
搾取する社長もいますが、弊社では社長の私が社員の誰よりも
働き者で、祝日あけの今朝は3時に起きて原稿を書いています。
(これはこれで経営者として失格なのですが)
結論をまとめます。
いま議論すべきは大学の秋入学や、高校無償化ではなく、
「労働(についての)教育」
ということ。
働くとは何か、金を稼ぐとはどういうことか。
同時に生きるためにはなにが必要か。
現代社会において端的に述べればお金がなければ生きてはい
けません。やりたいこともお金を手にして、食べるものがあり
雨露をしのげる家があってはじめてできるものです。
親はたぶん、自分より先に死にます。多少の遺産がはいっても
自分が老人になり死に果てるまで食いつなげるほど遺産を残せる
環境があるものは希です。
また手に職をつけるといいますが、それはブルーカラーや
職人だけではなく、ホワイトカラーにも技能は必要で、
身につけるためには若いに越したことはない・・・というか
かじれる親のスネがあるウチなら、スネがセーフティネットに
なります。
こうした、以前なら「常識」に属した部分が、中流より
したに属する世帯では欠けています。そう、これもまた
「格差社会」
を拡大させる要因です。
もういい加減たばかるのをやめましょう。
学問は神聖なる領域ではなく、大半の民衆にとっては
金を稼ぐための方向性を見定める場所に過ぎないと言うことを。