(書評)日本国紀 百田尚樹著

 初版25万部、同時に5万部の2刷りで、その正式な発売日は11月12日ながら、その翌日には40万部に達した百田尚樹最新作「日本国紀」。

 私はフラゲ(フライングゲット・発売日前に購入するスラング)して土曜日の、11月10日入手し、さきほど読了しました。

 日本史を「通史」としてまとめたもので、歴史好きならほぼ「既読」の内容。考えてみれば当たり前で、いくらでも読み飛ばしができます。

 ただし、百田尚樹に捕まります。

 いわゆる歴史作家や、学者には書けない「私見」が織り交ぜられており、そこでは「にーちゃん、これな、おかしいやろ。どないおもう?」的に百田尚樹に呼び止められ、立ち止まる=考えてしまうのです。

 だから、百田尚樹を振り払うことに神経を払いページをめくり続けました。ところが、百田尚樹が仁王立ちしていたのが「戦後」です。

 彼は「戦後史」をこそ、書きたかったのかもしれません。

 しかし、戦後史を描くために小説家・百田尚樹は、「はじまり」から書く必要があったのではないか。私にはそう思えてなりませんでした。

 なぜなら、学者はそこで起きたできごとに注目しますが、小説家は登場させる人物の心模様まで意識しなければ、物語ではなく、ただの日報に成り下がってしまいます。

 この人物はどんな人生を歩み、その時、何を思い、どう考えたのか。人物にも生い立ちという歴史があります。

 最重要な生い立ちは「生まれ」です。親の顔を知らぬ子にも親はいます。そして子に顔を見せることができなかったのか、見せないことを選んだのか。いずれにせよ、それもまた人間の歴史であり、そのまた親は、なぜそういう子を生み、育てたのか。

 こうして辿ると、私の世代、すなわち「昭和育ち」ならば、すぐに明治に辿り着き、江戸の昔だってそう遠くなく、曾祖父やその親ともなれば、幕末の志士と同時代を生きていたのです。

 明治維新を迎え、文明開化となりますが、元禄文化の花が開いていなければ、その素養すらなく、後の富国強兵だって同じくです。

 また、人類史に残る奇跡である戦後復興にしても、それを支えたのは戦争を戦い抜いた、生き延びた日本人が、祖国の復興に身を捧げたから成し遂げたことです。

 原因があって結果がある。

 当たり前のことながら、現在の社会問題を考えるとき、そして「歴史」を考えるとき、さらには本の帯に記された、編集を手伝ったジャーナリストの有本香氏の言葉である「私たちは何者なのか」と自らに問いかけたとき、百田尚樹はその始まりに立ち返る必要がある、そう考えたに違いない・・・あ、通史ということから「ローマ人の物語」の塩野七生風になってしまいました。

 アンチ百田尚樹、または左派から、猛烈な攻撃を受けること請け合いの本書。残念ながら現時点ながら、「読まずに批判」が多いようです。そして、すでに右派からも攻撃を受けています。

「百田尚樹」による歴史の腑分けですから批判があるのは当然です。

 読了後、こんな言葉がリフレインし続けています。

「なぁなぁ、おかしない? おかしおもわん? 一緒に考えよーや」

 百田尚樹さんの語り口で。なんか、住み着いたみたい。
 そして、私は義弟に一冊送りました。

■日本国紀 百田尚樹著
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