推薦と震災、不条理と人生。そして甥と犬。

 学校の杜撰さを批判するのは構わないけど、推薦が貰えなかったことは死ぬほどのことかね? と悲しみを煽る震災報道に重ねて首をひねります。

 子供の近視眼はいつの時代も変わらない。片思いの相手に彼氏が出来ただけで、この世の終わりと錯覚するぐらいに。でも、やっぱり酷ながら学校だけの責任とする違和感が拭えない。学校とか大企業とか安倍晋三とか、誰か一方の責任になすりつける思考停止では、改善されないんだから。

 震災で思い出すのが犬と甥。

 順序が逆だが震災時、甥は職業訓練校の受験で、同級生は卒業遠足でディズニーランドへ。当時、事実上、母親は死に、養父に育児放棄され、祖母にも捨てられ、実父も養育拒否。親のすべてに捨てられていた彼は、進路を決めることが我が家、残留の条件。もちろん、本音は異なりますが、少しでも本気にさせるため、心を鬼にして。

 で、この甥は素行と成績に難があり、不良は不良でも不良品のニュアンスながら、保護者の私と妻が期待したのが「推薦枠」。我々の頃はなかった制度ですが、都立高校でも推薦枠があり、不人気校なら貰いやすいとはネット情報。

 これに賭け、足繁く学校に通い、それとなくねだって見せました。人生であれほど卑屈になったことはありませんが、子供のためなら泥水だってすする親心を体験できたのは人生の収穫です。

 あっけなく玉砕。で、そのとき、ねじ込みはしませんが、それとなく理由を尋ねてみたものです。理由は生活態度と成績のダブルパンチ。諦めるしかありませんが、訊ねなければ納得は出来ず、本人へも説明できません。そして駄目な理由は、可能な限り知っておけば、次への対処が出来ると本人も伝えます。

 学校や教師、地域によっても力関係が変わってくるといいます。私の体験が一般論とは言いません。しかし、よい子だったと伝える報道から「もったいない」という言葉しか浮かびませんし、悲劇に対して学校を責めるのは「筋」が違います。

 そもそも人生に不条理はつきもので、5年前の今を思い出すまでもないでしょう。父親を18才で、姉を39才で亡くし、それぞれの享年は46と40。生の無情を知るものとして、苦しくても生きるという教育が疎かにされていはいまいか。

 誰かのせいにすれば、短絡的な答えに出会うことができ、安物の満足や正義とたわむれることができます。昭和の時代、いや20世紀の頃までは、この手のニュースにこう問いかける大人が必ずいたものです。「それでも死んじゃいけない」。

 いつの頃から耳にしなくなり、一方で「追悼」のときだけ命の尊さを煽ります。

 そして、犬。先の甥が後期日程、昔の2次募集で、同じく昔で言う定時制ながら都立高校に滑り込みます。制服一式、その他諸々、すべて揃えて入学式も、仕事を休んで参加する叔父バカぶりを発揮してみせても、コンビニで立ち読みしてバイトに遅刻するという醜態を甥がさらします。

 いつものように激怒の演技で、実父に連絡させると、実父は引き取ると回答。そして二日後には荷物をまとめてでていきました。実父は一銭も払わず。以来、音信不通。

 いわゆる「ペットロス」になっていた4月末。被災地でもある取手市のペットショップで、格安の柴犬を妻が発見。国道6号線を北上し、取手市に入ると警戒を呼びかける看板が多く、確かに被災地。生後半年を経過し、買い手がつきにくくなっていた柴犬。出会った瞬間から家族でした。

 震災がなければ愛犬と出会うことはありません。不条理にも意味があると思いこみ、人は生きていくものではないでしょうか。

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