70年前の明日。広島に原爆が落とされました。その3日後には長崎でも民間人の大虐殺が行われます。原爆投下前にすでに日本は降伏する意向を米国に伝えていたことを、一般的な日本人は知りません。各種資料から明らかになっていることです。
はじめはGHQ、すなわち米国が、後に日教組や朝日新聞など反日、侮日勢力が、大日本帝国が少しでもまともなことをしたことを隠すどころか、歴史から抹消するための工作の成功で、言えなくなったのが
「昔は良かった論の否定」
のはじまり、と見ています。
結論から言えば「昔は良かった」のです。
盲目的な戦前礼賛や懐古趣味ではありません。
文化的に言えば「古典」がいまも読み継がれるのは、歴史を越えても読み継がれる価値があると現代人が認めたからで、古代人が現代人に首根っこを掴んで読ませているわけではありません。
彫刻や絵画も同じですし、音楽における「クラシック」など、その時代の流行歌ですが、いまも演奏され、聴衆を魅了しますし、もっと現代的な例を取れば、ビートルズ、ローリングストーンズ、クリームといったロック音楽の古典が、いまも定期的に若者を取り込み、命脈を繋ぐのも、すべての時代に通じる「普遍性」を見つけるからです。
ピンボールも珍しくなり、すでに自販機も百円玉だけでは買えなくなった世代の宇多田ヒカルが、尾崎豊へのリスペクトを公言していたのも同じ理由です。
ロックも尾崎も、歴史の審判に耐えたとするには早すぎますが、AKB系列や、ボーカルの音程がデビュー当時の「トシちゃん」レベルの「セカイノオワリ」らは、今後のジャッジメントに委ねるとしても、すっかり「懐メロ」になった「ビーイング系アーティスト」よりは「普遍性」があるといえます。
TUBE、B’z、ZARD、WANDS、大黒摩季、DEEN、T-BOLANなど(ウィキペディアの紹介順)と、文字通り「一世風靡」した、ビーイング系アーティストらの楽曲のなかにも、普遍性を感じさせるものもありますが、「時代性」の強い楽曲は、風俗として消費され、その時間を生きた人間の記憶には強く刻まれても、違う世代には理解が困難です。
ただし、これも「昔は良かった」の重要な理由のひとつ。それは普遍性ではなく、人の記憶のメカニズムです。
高校に進学したヤンキーですら「昔は良かった」と、中学時代を思い出して使うこともあります。たかだか15、16の小僧、小娘とは言え、13、14のそれに比べれば、語るだけの年月を生きているということです。
屁理屈のようになりますが、この年月の有無は重要で、オジサンと比較したときの若者は、語るべき年月を持たず、だから良かったと評価すべき材料が少ないのです。
昔は良かった論の否定する人種は3パターン。まず、歴史の事実に向き合って真摯に反省する人。ただし、この人らは、反省すべき材料と、それ以外を分別しており、各論において否定するだけで総論ではありません。
次が「若者」。それは指摘したように、良かったという評価を判断する材料をもたないから、知らないから。人は学習により、ある程度は追体験できますが、能動的に歴史と向き合う必要があり、例えばいまどきの40代、50代のオッさんの、話しを検証するために昭和を学ぶ面倒に、積極的に取り組む若者は希少種です。
若者は今と明日に生きるのですから当然です。だから、彼ら若者による「昔は良かった論の否定」は自然です。
問題はもうひとつのタイプ。これが今回のテーマです。
恋に破れたとき、数すくない処方箋は「時間」であり、すべての悲劇に効く万能薬です。
ご近所の半島や、その歴史・文化的な親分である中国などは、いつまでも過去をほじくり悲劇を嘆きます。悲劇の万能薬「時間」は中韓民族には効かないのでしょうか?
そんなことはないでしょうが、彼らは教育と報道により、悲劇を再生産しているというより、チャンスを捉えては常に「新作」を上演しているので、万能薬の効果が追いつかないのです。つまりは、すでに歴史ではない証拠です。
慰安婦、徴用工、世界遺産、南京に関東大震災などが、その演目で、加担する日本人がいるので、それを論拠に創作します。
韓国に至っては、秀吉の朝鮮征伐まで現代に連なる恨み辛みの演題としており、こんなことをしているのは、世界広しといえど、中国、北朝鮮、そして韓国・・・に、最近ではここに台湾が加わろうとする気配があるのは残念ですが・・・だけです。
ちなみに、最近は「朝鮮出兵」などとしますが、それは現代的な言葉の印象からで、豊臣秀吉は九州や四国も「征伐」しています。
秀吉の領土欲の是非はともかく、九州も四国も、そして朝鮮半島も「海を渡る」ことから、天下人足る自分に恭順の意を示さないものらはすべて「征伐」としていたのではないかとは、今月の「WiLL」にあった豊田有恒氏の「私が愛する韓国人」からのインスパイア。
また『知っていますか、任那日本府(PHP)』にも影響を受けております。
話を戻せば、時が経てば多くの人は忘れてしまうものです。
特に辛く悲しい思い出は薄らぎ、都合の良い情報で上書きをするのが人間です。だから悲しみを乗り越えることができます。
時の為政者の意のままに書き換えられる中国の「正史」は論外としても、戦後日本以外のどこの国の歴史も、自国を賛美する内容に修正させるのは、「人間だもの」だからです。
そしてこの「忘れる」という機能が、辛かった昨日を遠くへと追いやり、わずかばかりの楽しみや幸福の記憶の居場所を作りだし、今日という足元から未来へと続く道を照らします。
人間の日々はこの繰り返しです。それが数十年と繰り返すことで結晶化されたひと言が、
「昔は良かった」
なのです。日々、生きてきた証であり、いまの若者が懸命に生きた未来の姿に過ぎません。
相田みつをを引っ張り出すまでもなく、人間の愚かさも賢さも愛したときに、昔は良かったと語る言葉を、頭ごなしに否定など、私にはできません。
また、先に触れた「普遍性」から考えても、昔のもの、今も伝わる古いものへのリスペクトは、年齢を重ねるほど強くなります。
ところがこの「昔は良かった論」を否定する人らを散見します。
繰り返しになりますが、否定論者が「若者」ならば、それは自然な姿です。若造はその昔を知らないのですから。むしろ、知らない事実を説明だけで、疑いもなく受け入れる若者はどうかしています。
また「俺も昔は悪くって」と、どうみても小市民が語る不良話は片腹痛く、会社員時代の社員旅行で「こうみえても腕っ節は強い」と豪語していた役員が、近所で飼い犬に振り回されている姿に悲しみをみつけますが、この手の「与太話」は脇に置き、功成り名を挙げた有識者と呼ばれる
「年寄りが昔を否定」
します。
口火を切ったのは
『「昔はよかった」と言うけれど』
プロフィールに依れば、著者の大倉幸宏氏は、私の2学年下で発刊時に40才。立派なおっさんです。ミヤワキ基準では30才過ぎはみなオッさん、年寄りの初級者です。まして投票権が18才になれば、そこから干支もひとまわりです。
著者自身が「新評論」に寄せた「内容」に
“ただし、一概に「昔の日本人は道徳心が欠如していた」ということを主張するものではありません。
http://www.shinhyoron.co.jp/978-4-7948-0954-4.html”
と寄せているように、新聞記事や資料に紹介された内容からの、当時を解読しつつ、筆者の見解を示すというもので、ひとつの労作ではあります。
しかし、これを池上彰氏は週刊文春の連載で、かなりの部分を拝借して文字通り我田引水します。
これについて2年前の「三つ子の左翼は百までも」として指摘しているのでここでは繰り返しません。
■三つ子の左翼は百までも(みやわきぶろぐ)
http://www.miyawakiatsushi.net/2013/12/leftwing-3oldyear.html
以来、乱視の目に映る宵の明星のように、この手の記事をあちらこちらで見かけます。その薄弱な論拠、人間の真実を見ず、普遍性も捉えない論に違和感を見ていたのですが、ひとつの結論が到達したのが、先週発行の「週刊新潮(2015年8月6日号)」。中川淳一郎氏の連載「この連載はミスリードです」。
中川淳一郎氏とは「ネットはバカと暇人のもの」で脚光を浴び、一躍、ネット言論界の中心に躍り出たのでしょうか? いずれによせネットニュースの編集者という「中の人」なので、注目を集めるポジションにあり、いまでは「論客」のひとりに数えられているようです。
先の書籍はするどい批評で、各所で引用しましたが、「週刊SPA!」だったと記憶しているのですが、私のフォロワーが金髪ブタ野郎と呼ぶので、それは泰葉が離婚騒動で春風亭小朝につけたあだ名だよとたしなめた津田大介氏との、対談企画で酔いつぶれた風を演じ
「やっぱりWebが好きだぁ〜」
と、キャプション入りの写真を見つけたときの、苦笑いは、その週刊誌を手にしたラーメン屋の、甥曰く「足の裏の臭い」の豚骨の匂いとともに記憶しています。
中川淳一郎氏はこう提案します。
“常に「昔=良かった」っていう論調、もうやめませんか?”
「常に」と条件付しているところは批判回避。具体論で反論への予防線、実に「ネット的」ですが、ずるい論陣です。
冒頭で「一般論」を用意し、「あの日に返りたい」とつなげ、しかしそれは実体を美化した「思い出補正」だと結論づけます。
文脈から「思い出補正」を解説すれば、田舎と言えば小川のせせらぎや、風に揺れる草花が笑い、のどかで純朴でといった、ステレオタイプのイメージに、自分の記憶を揃えてしまうことのようです。
中川氏は「昔は良かった論」を「思い出補正」による産物として否定します。
彼は自らの「ヒドい記憶」として
“エアコンなんてないからどの部屋も暑くて、姉やいとこと扇風機の取り合いをしたり、部屋の中は蚊だらけで、蚊取り線香が各部屋にあって煙い。夜になるとウシガエルの大合唱でうるさく、玄関を開けると青大将がとぐろを巻いている。せっかく捕まえたクワガタを近所のガキが頭と胴体を離して殺し、泣く私。”
これらを再び「どうしようもない記憶」とラベリングして、先の提案へと繋げます。
中川氏はたしか、私の3学年ほど下だったと記憶していますが、こうした経験は昭和時代までは、さして珍しいものでも、ヒドいと騒ぐこともなく、ウシガエルの大合唱など慣れるもので、言われて思い出す程度のものではないか、とは、毛長川のウシガエルの合唱を今も聴きながら寝ている私のリアルタイムの感想です。
また、各部屋に蚊取り線香がありながら、「蚊だらけ」とはおかしな話しで、これは中川淳一郎氏がいうところの「思い出補正」でしょう。
そして、これは普通のこと。人の記憶は、思い出す度毎に単語などの情報をもとに「再生産(合成)」され、また発した言葉は新しい記憶の戸棚に格納され、次にどちらが呼び出されるかは、そのときのバイアス次第です。
不幸な身の上話や自慢話が次第に「ストーリー」として完成していくのもこれが理由で、「思い出補正」なるものは、人が人である証拠でもあります。
あるいは、彼は「都会の子」なのかもしれません。記事には福岡県で育ったとありますが、地図で見る限り福岡にも都会と田舎があり、都会の子のなかには動植物問わず生き物に溢れる田舎暮らしを嫌悪するものがいて、嫌悪感が特定の記憶を強化するのですが、それも「思い出補正」に過ぎません。
細かなことを言えば、ヘビは臆病な生き物で、玄関のように人通りがあり、常識的に考えれば、日当たりが良いであろう場所を苦手とします。そこを、通る度にとぐろを巻いているとは考えにくいものです。つまり、これも「思い出補正」の可能性が高いと言えるでしょう。
なお、竹林、栗の木、裏山と建物の境界のじめじめした場所、私の記憶に残る田舎、これは高知県中村市(現四万十市)の「ヘビ生息地」で、東京でも田舎的な毛長川周辺の草むらには、小ぶりなヘビならうようよいます。
つまり、思い出補正なる、記憶の捏造は、どちらに対してもかかるものです。ならば中川淳一郎氏の提案とはこういうことです。
“常に「昔=悪かった」にしませんか?”
結びに
“過去を振り返り感傷に浸って美化するのも良いですが、その過去って案外汚れたものじゃないかと疑う必要ありますよ”
と、とってつけたように添えています。やはり「常に」ということで、特殊事例に逃げ込む余白を用意しているのは以下同文。
中川氏の提案を忖度するなら、過去を賛美し、自慢するようなオッさんらを批判し、さらにTwitterの発言から推測するなら、安保法案を推進する安倍政権や自民党へのイヤミも含めてとみることもできます。
そして点と点がつながり線となります。中川淳一郎氏を補助線として、池上彰氏らの穿った点を繋いだ先に見つかったのは、否定論者の自己利益の保護です。
ここ10年ほどの日本で、いわゆる保守化、左翼的にはネトウヨなり愛国主義者、極右などとなるのでしょうが、歴史の見直しは確実に進んでいます。それは極左的史観から、ようやく普通の欧米諸国における左翼に戻った程度に過ぎないとはいえ、歴史を直視できるようになったということです。
冷静に考えれば分かることで、仮に戦前の軍部が狂信者の集まりで、当時の日本国民を死地に追いやったとするなら、その前後の歴史に整合性がなくなります。
昭和時代の日本史の教科書の記憶ですが、幕末から明治にかけての富国強兵があり、日清日露の戦争を経て、一気に第2次世界大戦になだれ込んだわけではなく、戦史歴史は割愛しても「大正ロマン」に代表される文化の輝きも記載されていました。
それが突然、狂気(ファナティック)を帯びた「侵略戦争」に突き進み、東南アジアにいた欧米諸国を蹴散らし、地元住民を蹂躙するに変わる理由の開示がないなど、ライトノベルでも許されない筋書きで「ファナティック関数」的なブラックボックスが生まれます。
さらに、広島に原爆が落とされても、まだ降伏せず、長崎に落とされてから慌てて降伏するのも、やはり関数がなければ説明できません。
しかし、その狂気の関数の中心にいて、A級戦犯に指名された重光葵は、後に外務大臣に復職し、国連加盟が認められたことに対する加盟受諾演説を務めます。
大東亜戦争、戦後教育(GHQ史観)による太平洋戦争において発揮した「ファナティック関数」とは、ウィルス性で、米国によるワクチンにより寛解したとしなければ、これらの流れを説明できません。しかし、それこそ荒唐無稽な話しです。
潮目の変化は、2つの事件により訪れます。
ひとつはサッカーワールドカップ。要点に絞れば、米国ではサッカーは盛り上がらず野球が人気、しかし、本当の意味での「世界」では、サッカーの方が圧倒的な人気を誇る。この事実が日本人の「米国=世界」という図式を崩したのです。
野球、サッカーの競技性、人気による甲乙の話しではなく、日本人が見ていた世界とは、米国だけだったのではないかと気がついた人が増えていったと言うことです。そして米国への帰依を強要された洗脳が少し解けます。
2つめが「ゆとり教育の失敗」。明らかとなるにつれ「教育行政」への不信感は確信となり「戦後教育」そのものへの疑念が浮かべば、先の「ファナティック関数」的な歴史の矛盾に到達するのは容易いことです。
そして極左に傾いたイデオロギーの針が、左翼(リベラル)へと傾きを変えます。
すると困るのは、いわゆる「戦後体制的思想」で商売をしていた人々です。もっと端的に言えば
「日本=悪い」
といっていれば、飯が食えた連中の言うことに頷く人が減った、観客がいなくなったのです。
リベラル(事実上はド左翼)系の知識人の発言機会が減ったのは、その中身の薄さからに過ぎません。「日本=悪い」だけで商売になった方が異常なのであって、リベラルを自認する宮崎哲弥氏などは、むしろ日本型左翼の衰退を埋めるかのように地歩を固め、香山リカ氏などがテレビから姿を消したのが象徴的です。
しかし、全滅はしていません。大正ロマンから戦後文学が復興するまでにも流れがあるように、電子信号のオンとオフのように明滅するわけではなく、時代の趨勢は確実ながらも、生き残っており、そんな彼らの最後の砦は、安保法制を戦争法案と呼ぶことであったり、若者のデモ参加を賛美したりで、そのひとつの手口が
「昔は良かった論の否定」
なのです。
昔は良かったと気づかれると困るのです。これまで否定してきた戦中、戦後の、さらにはできるだけ避けてきた、戦前の輝かしい日本について、国民が目を向けてしまえば、自分たちの空理空論が白日の下に晒されてしまうからです。
つまりは「自己利益」のためです。
また、本人に政治的なスタンスはなくても、朱に交われば頬を染め、思想は拒否しつつも影響を受けることはよくあることで、さらに新進気鋭として売り出した身ならば特に、過去の否定は自分の売り込みと同義と錯覚します。
しかも多くが政治的な背景も、思想的な積み重ねがなく世に出てきた物らが、政治を語り歴史を語り、左翼に引きずられて昔は良かった論の否定を始めます。それは語る未来すら持たない手詰まりの裏返しです。
盲目的に昔を賛美する人がいたなら、事実と論理を持って反論すればよいだけのこと。昔とは、すでに起きたことであり、不確定な未来予測ではなく、事実と異なるなら簡単に反論できます。
それをせずに総論で否定するのは、つまりは具体的に否定する論拠も論証も持っていないからです。にも関わらず、否定してしまうのは自己利益を確保するための、悲しいまでの営業活動です。
否定のための否定ともいえます。
それが「昔は良かった論」をわざわざ否定する人々の正体です。
哀れとは言いません。元営業マンとして、どんな形の営業活動であっても、頭ごなしに否定などしません。切なさは感じても。
そもそも論で、一般社会において
「昔は良かった、昔はすごかった」
と繰り返す、オッさん(オバサンでも)は相手にされません。これは昭和時代から変わらぬこと。
また、若者のなかにも一度ぐらいは耳をかたむけてくれるものもいますが、オッさんに比べて記憶力の良い若者は、二度三度と繰り返されれば、「また同じ話か」と、小馬鹿にして聞くようになりますが、これも大切なこと。それが若者に「大人の正体」を気づかせ、彼らもまた大人の階段をのぼるのです。
だから、昔は良かったすごかったなど「放置」するのが最適解なのです。声高に否定する背景には、目論見や企みがあるということです。
ちなみに中川氏は「感傷」としますが、彼のまわりには寂しい中高年が多いのでしょう。私の周囲においての昔話は「酒の肴」か「季節の挨拶」ぐらいの意味しか持ちません。
そして繰り返します。
「昔は良かった」
のです。戦争を無条件に肯定はしませんが、フィリピンを始めとした東南アジア諸国のように、欧米により一方的に蹂躙され、植民地化されることなく、戦えたのは、昔の日本人が偉かったからです。
戦後復興も、昔の人々の偉さの結晶です。
だから、その良かった昔に恥じない生き方、さらには胸を張れる明日を切り開かなければならない・・・とは、いささか説教じみて気恥ずかしいですね。
最後になりましたが、過去を否定する人のタイプはもうひとつありました。心を病んでいる人です。これは心療内科の仕事なので割愛。