SNS時代の保守の弱点、沈黙は愚なり

 2014年9月11日の朝日新聞の謝罪会見以降、相も変わらず左翼は元気です。それでこそ左翼です。

 あらかじめ断っておきますが、枯れ木も山の賑わいというように、多様な言論の彩りとして左翼の必要性は認めています。問題は日本では、枯れ木が多すぎるところにあります。

 それは日本の「保守」の致命的弱点につながります、我が国の特殊性が産む欠陥です。

 朝日新聞を擁護する左翼&リベラルはこう言います。

「強制連行はなかったからと従軍慰安婦までなかったわけではない」

 根本で間違っているのが、従軍=軍属で、官営の娼館はなく、公務員的立場の売春婦などいませんでした。つまり言葉の定義が間違っていますが、彼らは事実を眼前に示され、その場での回答を求められない限り、誤用を改めはしません。この点、朝日新聞にそっくりです。

 慰安婦への強制性について、狭義や広義と条件変更することにより、問題を継続させるための「事例」を確保したいのでしょうが、一般社会において「論理のすり替え」や「屁理屈」というものですが、その批判はリベラルや左翼に通用はしません。

 慰安婦は売春婦で、古来より「苦界に沈む」とする表現があるように、自発的に春をひさぐ女性(及び男性)は多数派ではありません。

 その視点から見たときの「強制性」はありますが、それはそれぞれの事情によるもので、親に売られた慰安婦もいれば、ホストクラブに入れあげたあげく泡姫にジョブチェンジしたとして、それを国家や軍隊の責任に帰すことはできないのは常識でしょう。もっとも、コレを

「女性の貧困率」「格差社会」

 と社会の理由にしたがるリベラルと左翼は吐き捨てるほどいますが。連中の常識は、我々のそれと異なります。

 援交において「買う大人が悪い」という指摘を援用し、性処理のための慰安所があったから慰安婦がうまれたと主張するにしても、それは強制の有無とは別の議論。端的な言葉で言えば「クソミソ」です。

 さらに左翼&リベラルは朝日新聞 木村伊量(ただかず)社長にご臨席賜った謝罪会見以降、反撃の狼煙を上げ、その色彩は鮮明です。多分、「謝った」ことを立派な態度と過剰に評価しているからでしょう。そして

「朝日新聞バッシングはいかがなものか」

 と、したり顔で苦言を呈します。

 ・・・犯行や悪事が露見しても、謝罪もなければ反省の色をみせない加害者や詐欺師への批判をバッシングとは笑止千万。朝日新聞は自発的に謝ったのではなく、追い詰められた上での苦渋の選択であることは誰の目にも明らかです。

 謝罪の直接の理由は、福島第一原子力発電所の事故の現場を指揮した吉田所長から当時の話しを訊きとりまとめた、いわゆる「吉田調書」を、捏造といっても過言ではない事実誤認を記事として報じ続けたことで、それも最後の引き金を引いたのは、原本である「吉田調書」を政府が公表したからです。

 朝日新聞による謝罪会見は、公表から3時間後です。公表は事前に予告されていたので、ならば公表前の謝罪という全面降伏もありましたが、公表後の世論を見極め、謝罪の度合いや方向性、あるいは「謝罪しない」という可能性を追い求めたがゆえの3時間後だったのでしょう。

 ちなみにここで「謝罪会見をしない」という選択をしたなら、翌朝の新聞各紙は、吉田調書の内容と、朝日の捏造を比較するほど

「紙面を割けた」

 のです。ところが盗人の心情まで記載する日本の新聞において、容疑者たる朝日新聞の社長が会見をすれば、その主張を掲載しないわけにはいかず、

「紙面を占拠」

 することにより、朝日新聞は一定の「防御」に成功したということです。

 繰り返しになりますが、追い詰められた上での苦渋の選択であり、そこに真摯な反省を見つけることは困難で、罪を悔い改めないのなら、どんな牧師も匙を投げることでしょうし、一般市民が加害者に匙を投げつけるのは自然な感情で、バッシングには当たりません。

 同じく報道機関にもバッシングはしていません。テレビの追究は総じて温く、週刊新潮や週刊文春は、徹底的に糾弾していますが、それは朝日新聞が過ちを認めないどころか、捏造との指摘に対して抗議文を送付するなど、徹底抗戦を選択したのですから、いわば「戦争」です。

 無理な戦争に挑み返り討ちにあったことをバッシングとは、盗人猛々しいというか、贔屓の引き倒しというか、率直な慣用句で表現するなら目が腐っています。吉永みち子とかね。

 誤報報道に関して永年追究し続けた産経新聞はむしろ抑制的であるようにすら感じますが、路線の近い読売新聞が攻撃的であるのはバッシングというより営利目的です。

 2014年上半期の集計では読売956万部、朝日743万部と、200万部以上も差をつけているとはいえ、朝日の読者の1割でも奪えれば、1000万部の大台へ復帰できますし、なにより部数3位の毎日新聞は332万部と、トリプルスコアで突き放しており、商売上のライバルに値するのは朝日ぐらいで、このチャンスをネガティブキャンペーンで活用するのは、思想信条ではなくお金の話しです。

 ならば「弱みにつけ込む読売新聞は卑怯だ」と言えば良いものを、マスコミ遊泳術を飯の種とする、左翼&リベラルのコメンテーターや有識者達は、報道機関を名指しでの批判は極力避けます。産経新聞(同161万部、いずれも日本ABC協会調べ、但し公称なので実部数はこの3割減とも半分とも諸説あり)のような弱小媒体は批判しますがね。

 また、カルト宗教よろしく、精神的支柱になっていた朝日新聞への批判は、教祖への攻撃と同義で、イデオロギー闘争と錯覚してしまいます。

 大切なことなので繰り返しておきますが、バッシングではなく正当な批判です。

 さて、「ネトウヨ」をオピニオンリーダーかのように捉え、日本が右傾化していると騒ぐ、高千穂大の五野井郁夫准教授(国際政治学)のようなトンチキもいますが、その批判は正しくは「極右」を対象としたモノで的外れ。そもそも、今の日本はせいぜい、リベラルからニュートラルへの移行だと指摘したのは、五野井郁夫が大好きな「海外の声」のひとつである2年前の「ワシントン・ポスト」です。

 そして実際「右傾化」は遙か彼方にあるのは、特定秘密保護法や集団的自衛権への世論調査からも明らかです。朝日新聞を筆頭としたリベラル派のミスリードにもよりますが、いずれにせよ、日本国民の世論(せろん)は、いまだにリベラル寄りであるがゆえに、リベラル&左翼に扇動されます。

 左翼やリベラルは両者を絡めて伝えることはありません。なぜなら「右傾化していない」ことがバレるからです。

 これもそもそも論になりますが、リベラルのカウンターパートは「保守」になります。つまり、リベラルと対を成すのは保守で、右傾化、ネトウヨと「右翼」を連想する用語を持ち出すのは、市民を扇動するための詐欺的話法です。

 ちなみに左翼&リベラル、リベラル&左翼と茶化しているのは、日本のリベラルは類例を見ないほど「左寄り」だからです。これについては後ほど触れます。

 保守もまた、悪いイメージを刷り込まれていますが、進歩主義的発想からのレッテルで、大東亜戦争に敗北し、乗り込んできたGHQと社会主義革命を目指す左翼の阿吽の呼吸というか、不幸な偶然の重なりにより刷り込まれた

「過去の全否定」

 が起点となります。

 「保守」の厳密な定義には踏み込みませんが、いわば明治維新よりも昔から続く、「日本的価値観」に立脚した思想信条と定義しても語弊はないでしょう。懐古主義でなければ、迷信を盲信するモノではありません。

 それが証拠に「保守」なる信条は、西側諸国のどこにでもあり、米国においての保守は共和党であり、リベラルの民主党に対峙します。そのまま、ずばりの名を冠する英国の「保守党」、ドイツは「ドイツキリスト教民主同盟」が保守の立場となっていますが、それぞれの党の主張は、日本の保守派と異なります。

 民族や伝統文化を基礎とする「保守」は、国柄により異なるからです。

 保守とは国柄を反映するものであり、日本において重要な価値観である

「潔さ」

 を保有するのは保守です。

 一方の「リベラル」は、多少の温度差や主張の違いはあっても、世界はひとつ=グローバルを志向します。米国IT業界が、リベラである米国民主党を支持するのは利害が一致しているからです。

 常識として記しておきますが、希に「リベラル保守」を名乗るトンチキもいますが、リベラルに対して保守があり、「右利きの左手」が存在しないようにあり得ない自己紹介をするのは、さきに触れた高千穂大の五野井郁夫准教授(国際政治学)です。

 論争が不利になると、そこから逃げだし、逃げ出し先で小声で相手を侮蔑する「五野井郁夫」に「潔さ」がないように、リベラルに「潔さ」はありません。思想から人種を差別するものではなく、連中の思想構造が「潔さを否定する」からです。

 これこそが朝日新聞が32年間も誤報を繰り返し、捏造レベルの報道を訂正してこなかった理由です。また、謝罪会見においてもその後の報道でも、吉田調書に対しては「勘違い」で、吉田証言においては「取り消し」で、さらに「慰安婦報道の本質ではない」と強弁を繰り返す「潔さの欠如」がその証拠です。

 リベラルの思考回路を理解しない限り、彼らの手口に何度でも騙されることでしょう。理解の手引きとなるのが、「潔さ」を持っているのは「保守」であるという事実です。

 先にリベラルは世界的に共通項があるとしましたが、日本のリベラルは世界において特殊な存在、実に左翼的です。それは「反日思想」であり、「反政府思想」です。

 米国の民主党に顕著ですが、世界中のリベラルには「国益」という概念があります。オバマやケネディのお嬢さんが、安倍首相の靖国参拝に失望するのは、米国は中韓の、とりわけ中国を刺激したくないという台所事情があり、河野談話の遵守を日に影に迫るのは、慰安婦の真実が明らかになることにより、米軍が海外で行っている「下半身の異文化交流」が白日の下に晒されることを怖れるからです。なにより、それは「現在進行形」です。

 ところが日本のリベラルには「国益」とは、侮日や反日で、日本が右傾化していると感じるのは感性の問題としても、それをナチスやアウシュビッツと並べて語れば、世界の中の日本として国益を損ねることを知りながらも、平然と言ってのけます。

 戦時下の売春婦を「性奴隷」とし、それを手柄と誇る戸塚悦郎のように、また、その片棒を担ぐ福島瑞穂の事実婚の旦那や、本人はもちろん、援護射撃的に報じ続けてきた朝日新聞、毎日新聞、東京新聞もみなリベラル&左翼です。

 そしてリベラル(左翼は言わずもがな)に潔さはありません。

 その結果、敗北は認めません。過ちは正しません。潔さが欠乏していれば、悪あがきを恥と思わず、むしろ「筋を通す」と自画自賛します。また否定されても同じ主張をしつこく繰り返すのは、刹那の後はすべて過去になるからです。

 過去は否定されなければならないのであり、リベラルの目指す未来においては、敗北も過ちも存在しません。その輝ける未来のためには、未来において「正論」となると信じる主張を、音飛びして繰り返すCDのようにリピートするのは連中にとっては自然な行為です。

 これが日本の「保守」の弱点と背中合わせになります。

「潔さ」を大切な価値観をもつ保守=一般的日本人の価値観からして、一度でた結論を蒸し返す、決着がついたあとに争うことを良しとしません。だから論破し終われば、それを区切りとします。

 対するリベラルは、嘘を量産することを恥としません。頼るべき証拠や論拠がなくても、事実の一部を切り取り、自説を誇ります。「潔さ」がないのですから当然です。

 潔さを行動で表すには、自制心と客観性が不可欠ですが、リベラルの思想源泉を辿れば、マルクス主義に到達し、その亜流である「主体思想」と姉妹兄弟の関係にあるリベラルにとって、「自分」こそが世界の中心である以上、客観性などサルの会話の如く意味のないものです。

 自分と自分の思想こそが、世界の中心にあり、それ以外の価値観を認めないのです。朝日新聞の一連の捏造報道、そしてそれを改めない姿勢もこの思想構造によります。

 だから自分の主張を改める潔さを持たず、ゆえに永遠に繰り返し続けることができます。手をかえ、品を替えながら、時を待ち、時を利用し社会革命を目指しているのがリベラル&左翼です。

 その手法を朝日の捏造が明らかとなった、池上彰氏の寄稿にみつけます。

 朝日新聞が謝罪の追い込まれたのは「吉田調書」を曲解し、福島第一原子力発電所で事故収束に命がけで取り組んだ職員を侮蔑した記事がバレるのを怖れてのことです。

 政府が吉田調書を「公表」するとした直前というタイミングが物語ります。

 一方、謝罪に追い込まれた直接的な理由のひとつが、

「池上彰コラム 掲載拒否騒動」

 です。ジャーナリストの池上彰氏が、朝日新聞紙上での連載において、朝日新聞に苦言を呈する原稿をいれたところ、掲載を見合わせました。掲載見送りを知った朝日新聞の現役記者は、Twitterにて実名で怒りを表明しました。

 この顛末を池上彰氏は、先週号の週刊文春の連載で、

“「掲載拒否」で考えたこと”

 と題し寄稿します。そこにこんな一説を見つけます。

“今回のことについて、ジャーナリストの津田大介氏は毎日新聞に「ネットの炎上や内部からの批判で掲載が決まったのなら、経営陣や幹部が社内外の空気を無視できなかったということ。現場記者がソーシャルメディアを使って声をあげることで組織ジャーナリズムのあり方が変わる可能性を示唆したという意味で重要な教訓を残した」と語っています(週刊文春 2014年9月18日号)”

 いかにもリベラル的な主張です。

 まず津田大介氏の発言とされる箇所ですが、ネットの炎上その他は「決まったのなら」と仮定の条件で、「無視できなかった」とは、そこからの結論で、いわば「仮説」です。

 また、「可能性を示唆」は可能性に過ぎず、小保方博士の証言のみを証拠としたSTAP細胞の実在主張と同レベルのこれまた「仮説」を「教訓」とは論理の飛躍以前の、論理性の欠如です。

 リベラルの得意技は我田引水で、ネット選挙が解禁されても自民党は圧勝し、むしろネットを活用していたのは党内多数決でかろうじて「保守」となる自民党でしたし、津田大介氏がご執心の脱原発もSNSを活用しても芳しくなく、むしろカルト化している事実については目もくれず、SNSは世界を動かすと自説の布教活動に余念がありません。これもすでにカルト宗教です。

 たしかにSNSは世界を動かしていますが、その絶大なる「成功例」は「イスラム国」の広報活動です。リベラルがこれを口にすることはありません。

 津田大介氏のお得意の我田引水を利用する、池上彰氏もまた、地上の楽園を、ソーシャルメディアという「個人の力」により実現するというのは主体思想をベースに持つからです。

 国家や団体、家族や地域のコミュニティではなく、あくまで「個人」による革命を希求するのがリベラルの発想で、そのためには平然と事実誤認を垂れ流します。

 うろ覚えですが、池上彰氏はテレビ番組で、アラブの春はもちろん、それ以降の混乱にSNSの普及を挙げており、組織ジャーナリズム云々よりも、世界を混乱させるツールになっていることを認識しているはずですが、それについてこのコラムで指摘しません。

 なぜなら「津田大介の発言」と紹介することで、自己の見識ではないと責任を切り離すのもリベラルに特徴的な論法です。批判を加えない時点で、同意していると見られるのですが、「自分は言っていない」と強弁できる余地を残し、津田大介氏にしても「可能性を論じただけだ」と「教訓」とまで断言しておきながら逃げ口上を常に用意する、両者に通じるこれらの特徴も「潔さの欠如」によります。

 謝罪会見に至った真相は、木村伊量社長以下、役員しか分かりませんが、同じ号の週刊文春は、池上彰氏のコラムの掲載を決めた理由について、「朝日記者」の声として紹介しています。

“「池上さんの問題が発覚して以降、読者からの電話の抗議がすごかったんです。ネット上も朝日批判の書き込みであふれ、八月までとは朝日を批判する声の『質』と『量』が明らかに変わった。上層部は不買運動につながることを最も怖れ、判断を覆したのです。(同24ページ)”

 津田氏のご高説を受け入れるにしても、批判の声はソーシャルメディアだけではなく「電話」も含まれ、ネット上の批判の書き込みに「2ちゃんねる」があるなら、国内的には「ソーシャルメディアの手柄」とは言い切れなくなります。

 なぜならソーシャルメディア信奉者(あるいはWeb2.0)は、そこに「2ちゃん」を加えないからです。8年前の拙著『Web2.0が殺すもの』以降、繰り返し指摘していますが、いまだ明確な回答をする信者にであったことがありません。

 朝日批判の声を「世論」という大きな括りにすれば、津田大介氏の主張を否定できなくなるのですが、これは「狭義」と「広義」のすり替えです。お笑いタレント「スギちゃん」のギャグのイントネーションでどうぞ。

「リベラルだろう?」

 先に引用した池上彰氏のコラムによれば、朝日新聞の内部からリークを受けた週刊新潮が、まっ先に池上彰氏に電話取材し、次に「プレジデント」で、三番目が「文春」だったとあります。

 しかし事態が動いたのは、

「週刊文春デジタル」

 に速報記事が掲載されてからです。会社に反旗を翻し現場記者がソーシャルメディアを使って声を上げたのは、池上彰という著名人の騒動を、既存メディアの週刊文春(デジタル)が報じた後です。

 つまり内部告発ではなく、既存メディアへの「リアクション」です。

 津田大介氏や池上彰氏のリベラル陣営が、組織人が公然と組織を批判した! と、讃えたいのは主体思想(自分が、個人が、という我欲の拡散という意味でね)の勝利と思い込みたいからですが、自由な言論への弾圧に声を上げるのは、記者としては当然であり、欠陥住宅やマンションを告発した名もなき職人と同じです。職業倫理といってよいでしょう。

 しかし、後出しジャンケンといより、尻馬に乗ってというのが実相です。

 仮に掲載拒否という内部情報を、いち早く、朝日新聞の記者や社員が、文春が報じる前にツイートし、その直後に木村伊量社長が謝罪会見を開いたというのなら、私も「津田説」を指示しますが、現実は可能性を示したという指摘すら大袈裟に過ぎるというより、時系列で追えば捏造レベルの事実誤認です。

 組織をはみ出した人間として、ひとつ考えるのは、ツイートにより不満を表明した、朝日新聞の記者や関係者は、社内で上司や役員を捕まえて、同じ言葉を発したのかということです。

 外圧を頼るのではなく、自らの馘首を賭けてまで、意見具申をした記者の話しは漏れ伝わってはきません。すでに定年退職し、フリージャーナリストの身分で『AERA』に関わってきた名物記者 長谷川熙(ひろし)氏が、『AERA』を離れて慰安婦記事を検証する姿勢に「記者魂」を見つけますが、後出しの実名ツイートは礼賛できるものではありません。

 そもそも論に帰るなら、朝日新聞の一連の誤報や捏造は

「組織ジャーナリズム」

 というより

「組織犯罪」

 というべき構造です。犯罪の仲間が、事件が公になってから批判したことを讃えるのは論理のすり替えです。

 これもそもそもですが、結果的に文春の速報となりましたが、週刊新潮やプレジデントが報じなければ、池上彰氏は「告発」していたのでしょうか。先のコラムではそこへの逡巡が垣間見えます。

 仮にそうであったなら、ソーシャルメディアも役立たずだったという可能性を恣意的に見るなら教訓と言えなくもありません。(リベラルを真似てみたら、文章が迷子になったことを反省します)

 もっとざっくりとまとめるならこうです。

「池上彰と週刊文春という権威に乗った朝日新聞社員」

 公開されていなかった吉田調書はともかく、「慰安婦」についての事実はあきらかで、初報から32年、秦郁彦氏に否定されてからでも20年を経ているのですから、常識的に問題意識がある記者(むしろそれが強いのが本来の記者ですが)ならば、もっと早くソーシャルメディアで声を上げても良かったはず。

 それをせずに、銀行強盗に例えるなら実行犯ではなく、運転手でもなく、そういう噂を耳にしていながら放置した、未必の共犯者の立場から、臆面もなく批判ができるのもリベラルの特徴で、それは「潔さ欠乏症」という体質のなせる技で、Twitterで批判した朝日の記者も同じです。

 だから、敗北を認めず、嘘に嘘を重ねることを恥と思わず、否定されれば論理をすり替え、反撃を受ければ攻撃されたと泣いてみせます。

 自説が破綻していても、かろうじて見つけた偶然を「教訓」として恥じず、主張を量産し、リベラル仲間は連携し、津田大介と池上彰のように互いを助けます。それは共謀関係ではなく利害の一致の帰結です。

 で、これが保守の致命的弱点です。

 質はともかく「量」で圧倒的に敗北しているのです。ネット上では、いま左翼・リベラル陣営が、各種サイトを立ち上げ、捏造偽造誤報を織り交ぜながら自説を量産しています。

 日本の右傾化はもちろん、脱原発、特定秘密保護法反対、集団的自衛権反対、辺野古移設反対、オスプレイ反対、消費増税反対は賛成しますが、とにかく主張は極左のレベルであっても、リベラルまでがそれを量産します。

 そして朝日新聞の「慰安婦記事の取り消し」以降、これに

「それでも従軍慰安婦はいた」

 も加わり、ここに南京大虐殺と関東大震災時の朝鮮人虐殺を加え、史実の検証ではなく、主張の拡散、再生産が行われています。

 ある意味、懐かしくはあります。かつてネットは左翼の独擅場だったからです。

 しかし、すでにネットは便所の落書きという実態は脇に置かれ、ネットの記載を真実と鵜呑みするバカが社会に溢れているのは事実です。

 そのとき保守の潔さは、日本にとって致命的です。

 沈黙は金。ではありません。誰でも珍説を拡散できる、いわゆるソーシャルメディア時代において

「沈黙は愚」

 です。が、保守の美学がこれを妨げ、結果的に日本を貶めることに加担しているのが、日本の構造的問題のひとつです。

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