社会で育てるひとつの方法

 普天間問題について民主党は自爆への道を猛進しております。

「知事選の結果を見てから」

デジャブでしょうか。

<米軍普天間飛行場の代替施設の具体的位置や工法などの決定時期
について、「沖縄の一番の責任者である知事の選挙が11月にあ
ることを重要視しないわけにはいかない」と述べた。>

読売オンラインより転載

市長選に置き換えて、同じ様なことをいっていたのは鳩山前首相で
これらの結論からいえばこうなります。

「八ッ場ダムは継続しろ」

そうでなければダブルスタンダード。八ッ場の民意はダム建設です。
基地とイコールで語るのは多少強引でしょうが、国防と同盟、
そして外交まで絡むこの問題を、市長選や数合わせの連立で迷走させ
ている民主党よりはスマートです。

繰り返しになるので書くことも飽きているのですが、国政選挙で
民主党が掲げた

「国民生活が一番。」

というのが根本的な間違いなのです。

それでは「国民生活はどうでもいいのか」という声には嘆息で
答えましょう。

国民生活が大事と言うには「平和が一番」と同様に、当たり前す
ぎるスローガンで、否定できない正論です。そして、思考停止という
毒を持ちます。

国民の生活はもちろん大事だが「国政」の場での視点は、日本全体
を見通せる高見からでなければならず、近視眼的な、あるいはご近所
感覚ではないのです。

普天間問題に話を戻せば、知事選の結果が普天間市長選と反対の
答えとなればどうなるでしょうか? あるいは日米同盟に反する
理想を掲げる知事が生まれれば?

自縄自縛の緊縛ショーのはじまりとニタニタして状況を見守って
おります。

さて、本ネタも民主党がらみですが、参院選敗北後も反省する
様子のない民主党政権を見ていると、自民党同様に現衆議院議員の
刑期満了まで選挙はないとみています。

もう少し「恥」を知っている政党と買いかぶっていたことを
反省しているのですが、野党時代に吐いた言葉をすべて無視できる
面の皮の厚さは昭和の自民党政治みたいでノスタルジーを覚えます。

それはともかく、あと3年、民主党政権が続くと覚悟したなら
見直さなければならないのが「子ども手当」です。本題に入る前に
「子ども」という表記が「野郎ども」を想像し、あらくれな「子」
の大群を私は連想してしまうことから「子供」で表記します。

見直すと言っても支給額や現物支給についてではありません。

「社会で子供を育てる」

という概念についてです。理念と呼んでもよいでしょう。

近頃の子供は、若者はという議論は古代ローマ帝国からあった
もので、特段珍しいモノではありません。しかし、最近、自動車を
運転していて

「よけない子供」

が増えているように感じます。車道の真ん中をふらふら遊びなが
ら歩いており、自動車が近づいてもよけないのです。子供が徒歩でも
自転車でも公道走行は禁止されている「キックボード」でも同じ
です。

そして子供だけではなく若者もよけません。友人と併走し、
あきらかに邪魔な状態でもよけようとしない中高生は珍しくなく
目が合うと睨みつける学生も多いのです。

さらに大人もよけません。その目の奥にこんな主張があるようです。

「交通弱者である人間様のほうが公道では偉そうにできるんだ」

渡っている最中に赤に変わった横断歩道でもノンビリと渡る大人
の増加からの推測です。

つづけて老人もよけません。身体能力が鈍っているからかと、
クラクションも鳴らさずに静かに気がつくのを待って徐行している
のに、じじいやばばあは、ようやく気がついた刹那

「メンチを切ってくる」

ことはほぼ日常です。

つまり、「よけない」のは子供から老人まで、全ての世代で
増加しており、

「大人を見て子供は育つ」

という視点からみれば、社会で育てるというのであれば、まず
大人の再教育から行わなければならないということです。

例えば電車。

「降りる人が降りてから乗車する」

を守らないのは東武伊勢崎線だけかと思っていました。
かつて「山手線」を通勤に利用していたころは、殆どの乗客が
こうしたマナーを守っていましたが、東武伊勢崎線を利用するよ
うになって

「我先に」

という浅ましい精神に電車を乗り逃がし、遅刻しそうになった
ことを思い出します。

これがいま、山手線でも普通に見かけるようになりました。

子供がやるのならわかります。でも大人です。

同様のケースでは「エレベーター」でもみる光景です。
ここで多いのは「老人」です。

誰よりも先に乗り込み、誰よりも先に降りようとします。

金を与えれば子供が立派に育つのであれば、某女優の息子は
なんどもラリることはなかったことでしょうし、金持ちの
どら息子などといった慣用句は存在しません。

つまり、子供手当だけで「子供を社会全体で育てる」ということ
にはならないのです。

だからこそ見直さなければならないのが「大人の在り方」です。
これはそのまま「日本の形」といっても過言ではありません。

先日は橋の上から、ペットボトルを捨てる70才ぐらいの
老人を見かけました。はたして、これを注意すべきか否か。

今年、不惑を迎えるわたしでも「30コ」ぐらいは年上であろう
人生の先輩に

「ペットボトルは捨ててはいけませんよ」

と注意すべきなのか。
唖然として言葉を失い、いまも答えを出せずにいます。

子供よりも大人。老人も含めた。どうせあと3年間、国政選挙が
ないのであれば左も右も揃っている民主党党内できっちりとした
議論を期待しております。

そして「よけない子供」について。

私はクラクションを鳴らしよけさせ、脇を通る際に減速し

「気をつけろゴルァ」

と怒鳴りつけます。高校生ぐらいまでは。
交通事故で死ぬよりはマシかと思うので。

先日もキックボードで競争をしている小学生の一団をみつけました。
公道を蛇行しながら疾走しています。

気がついてよければ見逃すのですが、男子小学生に周囲を見やる
機能などついていないことは実体験から知っています。

そして怒鳴ります。すると「すいません」と頭を下げます。

アクセルを踏みいち早くその場を走り去るのは私の口元がにやけて
いたから。

偉いぞ少年。暴走はときに仕方がないとしても注意を受けて謝る
のはとてもいいこと。

・・・あ、厳密にはクラクションは鳴らしてはならないという
突っ込みはパスします。枝葉末節の枝の議論が増えたこともまた
大人の堕落のひとつだという立場ですので。

今日から公立学校の夏休み。

子供が死なないために、軽微な危険に怒鳴る大人の姿も
「社会で育てる」ひとつの方法ではないでしょうか。
 

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