生まれ落ちた家庭環境による経済格差という差別

 経済格差は悪者のように語られます。しかし、格差は悪ではありません。努力の結果もたらされた経済的成功なら、賞賛されるべきですし、怠惰の果ての貧困を称揚してはモラルが崩壊します。

 人種や身分により経済格差が生まれるなら、一定程度の是正は必要ですが、これをゼロにすることは自由主義経済においては不可能です。仮にアメリカ人と仕事をしたくない、という感情をもった民間企業の社長がいたとして、その気持ちを払底することは不可能だからです。

 もっとも現代日本において、人種や身分による差別はほぼなく、あっても米国の潜在的であり、現実にある黒人差別と比較すれば、その影響は皆無に近いと言えるでしょう。

 かつて学校の授業で習った言葉で記せば「エタ」「ヒニン」だとして、その地域での差別や区別は残っていることでしょう。人口の流動性の低い地域は、慣習や因習が残るからです。

 慣習や因習も「悪」ではありません。広島県の土砂災害でふたたび注目されたように、旧地名などには災害情報が込められていることがあるように、知恵の蓄積という側面があるからです。

 良い習慣だけ残せば良い、とは机上の空論に過ぎず、俗に村社会の特徴とされる「よそ者排斥」にしても、外部の力を必要としない、自己完結している村ならば合理性がある習慣だからです。

 エタやヒニンへの差別があったとして、それを良しとするものではありませんが、例えば都会にでてくればそれがハンデとなる場面は皆無に近づきます。

 都会の人間が高い人権意識をもっているわけではありません。人口流動性の高さが、出自よりも能力を評価する必要性に迫られるからです。

 余談ながら、都会に溶け込んだ地方出身者のほうが、地方出身者を馬鹿にする傾向があるのは、近親憎悪と言うより、かつての自分をそこに見つけるからでしょう。

 地方出身者同士で助け合うこともありますが、同郷、同地域などで、他地域出身者を「田舎者」を罵ります。新潟県民が秋田県民をバカにし、秋田県民が青森を小馬鹿にしている場面で、私がどちらも田舎だと仲裁に入ると、

「足立区民には言われたくない」

 と侮蔑されたものです。誰かを見下すことで、自分のアイデンティティを維持しようとする性行は、日本人に顕著な特徴です。

 人口流動性の高さも「悪」にしようという動きがあります。日本創成会議が発表した「消滅都市」という脅迫的なレポートで、このレポートの目的は

「移民の受け入れ」

 にあるのですが、東京が人口を飲み込むブラックホールとして、人口流動性が悪であるかのように位置づけられています。しかし、先に述べたように都市部に暮らし、差別を感じないのは人口流動性の賜です。

 人権意識の高まりだ! という反論もあり、人口流動性がすべてだというつもりもありません。しかし、土着といえるほど、古来より住み続けている住民の多く残る地域では、東京23区であっても地域感情(区別)は残っているということです。

 実例を挙げれば、私が住む東京都足立区舎人は、隣接する入谷町とは比較的友好関係にありますが、反対側で接する古千谷やその隣の伊興地区を悪し様に言う空気が残され、反対側から見ても同じです。

 互いに行き来する若い世代になれば、このわだかまりは殆どなく、私のような外様はまったく考えもしませんが、年長者のなかには、いまでも言葉を選ばない人たちがいます。

 だから足立区は田舎なのだといわれれば、はいそうですね。としか回答しようがないのですが、その分、隣人との心の距離が近い、田舎の良さも残っており、やはり「悪」だけではないでしょう。

 こうした感情は教育により改まることはありません。しかし、人口流動に代表されるよう、環境が変わっていくことが自然と導くものです。

 なぜ、地方でしつこく因習が残るのかといえば、それは口伝により、再生産され続けるからです。人の記憶は大して良くもなく、目の前のトラブルその他に上書きされます。地域の記憶を定着させ、しかも子孫に引き継いでいくためには、絶えず再生産をしなければなりません。因習の残る地域では、手をかえ品を替え再生産されています。

 先の舎人と古千谷の遺恨で言えば、地区を代表するお社の祭りの日時が重なります。経済合理性から見れば、日程をずらせば、どちらの祭りも楽しめますが、そんな発想はありません。

 そして対抗意識は燃え上がり、度を過ぎれば別の感情になることは珍しくなく、あっちより、ウチの御輿のほうが立派だ、歴史が古い、担ぎ手がイケメンだ、などなど。

 現代的な因習や慣習も同じです。絶えず再生産されることで引き継がれ続けています。その代表例が「学歴社会」です。

 いつかのとき、学歴社会は批難の対象でした。実力よりも学歴、学歴の中でも学閥、社会に出てからの努力の及ばない、学歴は新たな差別として批判されたものです。

 ところがいつのまにか、学歴社会を批判する声は静まりました。

 学歴を声高に批判してきたジャーナリストなども、時を重ね、我が子が学歴を得た今となっては、学歴を否定することは我が子の既得権を阻害することになります。

 あるいは学歴をゲットした学生時代という青春を振り返り、時には同窓生やOB、後輩に助けられた我が人生そのものが「学歴」に支えられてきたことに気がついたからでしょうか。

 どちらも的を射ていると自負しているのは、親の学歴と子の進学率は正の相関関係があるからです。そして学歴社会は批判対象から外されつつあります。

 高卒フリーター経由、学歴不用の商売をしている私には関係のないこと。だからこそ、余計にクッキリとみえるのが、学歴社会を温存する動きを批判する声の少なさです。むかしはもっとあったはずなのですが。

 特に言論の世界に片足を突っ込んでいると、一方で「多様な言論」を叫びながら、「学歴の多様性」について語るものは皆無です。希に中卒の小説家が脚光を浴びると、その「珍奇性」にばかり着目する姿は、

「中卒に文字が書けるのか」

 という侮蔑をどこかに含んでいるように感じて仕方がありません。あ、文字ではなく小説ですが。

 学歴とは即ち大卒を意味します。日本ではそこに大学中退も含める見方もあります。それは入学してしまえば、卒業が容易な日本の大学の制度の問題点・・・といわれて数十年(綾小路きみまろ風)、なんら変わったとは寡聞にして知りません。

 まず、議論すべきはそこでしょうが、議論がなくなったのなら、大学は入学することに意味がある、というコンセンサスが醸成されたということです。そして大学は全入時代に突入しました。

 選択しなければ、どこかの大学には入学できるということで、入学したことに一定の価値を与えるのなら、それではそれは何を意味するでしょうか。

 「大卒」と「それ以外」を分離する「差別」の誕生ではないでしょうか。それはすなわち大学の入学金を支払える「経済力」により、しかもその大半は、支払える親の力によるもので、つまりは

「生まれ落ちた家庭環境による差別」

 だということです。これが「現代における学歴の正体」です。本人の努力を問わないのですから、差別といってよいでしょう。もっとも本人も

「名前を間違えない程度の努力」

 はしたことでしょうが。

 経済格差が学歴による差別を生み出しています。しかし一方では「経済格差」を「悪」としながら、学歴だけは見逃せというのでは論理的整合に欠けます。親の収入と大学進学率もまた、正の相関関係にあるからです。

 さらにおかしな記事を見つけました。

“大学中退、2割が「経済的理由」 文科省が8万人調査”
http://t.asahi.com/fx81

 いま話題の朝日新聞の記事です。

 2012年度の調査で、

“今年2~3月、国公私立大学、短大、高専の計1191校を対象に、12年度の中退者数や理由などについて尋ねた。97・6%にあたる1163校(学生数約299万人)から回答があった。調査は07年度(09年公表)以来、2回目。
(同記事)”

 の結果ですが、入学すれば目的を達するのなら、中退者がどれだけいても、大騒ぎする必要など、そもそも論でありません。

 一方で転学と学業不振が15%前後あります。この統計について文科省に問い合わせると「報道資料」としては提供したが、ホームページなどへの公開は準備中とのこと。

 正確な数字と統計方法はわかりませんが、2割を数える経済的理由のうち、どれだけが「奨学金」などを利用した上での困窮なのでしょうか。入学金の工面に借金をし、その返済に追われるがために、授業料の支払いが追いつかずに、退学を余儀なくされたのなら「経済的理由」の看板に偽りはありません。

 しかし、

「勉学に追いつけないのに金を払い続けることをバカバカしく思った」

 というなら、それもまた問題に取り上げることではありません。むしろ賢明な選択といえます。これらの詳細なデータが示されていない以上、本当に経済的理由だけなのかという疑問が残されます。しかし、実態が透けて見える説明を記事に見つけます。


 国立大の中退者のうち、「経済的理由」を選んだ割合は11・6%。国立大に比べて入学金や授業料が高額な私立大では22・6%と倍近かった。授業料滞納者は約1万人で、私立大が約9千人と大半を占めた。

 文科省の担当者は「家庭の収入が依然厳しく、格差が広がっていることが背景にある」と説明する。

 休学者は6万7654人で、前回よりも約2万人増えた。こちらも「経済的理由」(15・5%)が最多だった(その他を除く)。ただ、「留学」(15・0%)も多かった。

(同記事)

 授業料が高額な私学は、経済的理由での中退者が多い、すなわち格差だと・・・いうのなら論理的に破綻します。そもそも入学時に必要な費用も、私学は高額だからです。少なくとも入学時の費用負担が許される経済状況の過程の子らが入学しているのです。

 この結果を、語弊を怖れずにいうならば

「バカ私学の学生が退学している」

 可能性が高いのではないでしょうか。

 大学とは「学問の府」で、先のデータも国立大学と同程度の学力レベルの私学と比較しなければ、正しい統計とは言えません。

 現実的には入学すれば大卒的に扱われることもあります。これもまた中退の心理的ハードルを下げています。

「大学を中退するぐらいが偉くなる」

 という俗説すらあります。これが高校中退なら、純然たる中卒扱いとなり、職業選択の自由が大きく狭められるのと対照的です。ここにも「身分」の影を見つけます。

 経済格差による教育格差が生まれるのは、小学校や中学校と行った義務教育期間です。先の相関関係の逆を考えれば簡単なことです。

 親の学歴が低く、年収も低い家庭に生まれ落ちた子供の進学率が低くなるのは、子供の能力というより環境の仕業です。恥を晒すようですが、私が国立大学に付属の小中学校があることを知ったのは成人してからです。

 日教組が支配し、勉強熱心な小学校とは言えませんでしたが、それでも名門塾に通い、私立の附属中学校を目指す同級生をさしおいて、小学校6年生の時など、塾になど通うこともなく、文字通り学年成績で1・2位(生活態度は除く)を争っていた私にとって、進学と言えばヤンキーを量産する地元の中学校しか選択肢がありませんでした。

 両親共に中卒です。亡父は近大附属高校卒と吹聴していましたが、祖母の話では素行の悪さ故に放校になったとのことです。母はといえば中学卒業してから「レナウンガール」になったといっていますが、これも信憑性のない話しですが。

 貧困と低学歴は相続されます。姪の話です。

 彼女もまた成績は優秀でしたが、私の時との違いは、情報に溢れていることと、姪を溺愛する私という存在です。

 可能性の追求という意味からも、中学受験を奨めました。国立付属はもちろん、私学でも入学金や授業料、その他について協力する用意もしていました。また、実力を試す意味、なにより人生においてこの機会しかないのだから、チャレンジすべきとアドバイスするも

「ウチはお金がないし、勉強は(地元の)学校で充分。後は本人次第」

 とはねのけたのは姉ですが、その姉はどれだけ勉強しても平均点をとることも困難な学力のまま学生時代を過ごしました。姉をすべてに当てはめることは強引ですが、学力の低い学生時代を過ごしたものにとって、学力が人生に与える力を信じていません。なぜなら、学力が高かった経験がないことから、そのメリットが分からないからです。

 姪にとっては母の言葉に、寂しそうな表情を見逃さなかったのは妻も同じです。「もったいない」と帰宅後、繰り返していました。

 文科省が取り組むべきは、経済的理由とされる大学生の退学を食い止めることでしょうか。しかし、大学中退者は、少なくとも「入学金」どころか、「受験費用」を支払えるだけの経済的余裕がある環境にいる子供達です。

 仮に小学生の頃から新聞配達をはじめ、勉学の隙間にアルバイトをして受験をした子供達ばかりなら、私のこの主張は的外れと誹りを受けることでしょうが、どちらが正しいかは一般常識に照らせば自明です。

 つまり、大学に進学できる時点で、経済格差の上層部にいると考えるのが妥当であり、すなわちその層への経済援助とは、

「経済格差を拡大する取り組み」

 ということです。

 繰り返しになりますが、経済格差を悪とはしません。しかし、国を挙げて格差を生み出すとは、国策による「差別」の生産です。これは「ヘイトスピーチ」どころの騒ぎではありませんが、ヘイトスピーチに厳しい有田芳生(ミンス・参議院議員)ですら、この人権問題に無頓着です。人権派弁護士からも反対する声が聞こえてきません。

 格差社会とは、自称人権派も含めたインテリ(高学歴層)が、目をつぶり、文科省が再生産を試みて拡がり続けているということです。格差社会を「悪」と叫ぶなら、その同じ口で「学歴社会撲滅」と叫ばなければバランスがとれないと言うことです。

 たびたび指摘していますが、官僚=悪人ではありません。大抵は日本のために身を粉にして働いています。しかし、粉にしたウチの何割かを、自分のために使いたいというのは感情論としては理解できなくもありません。

 文科省が「経済格差」にフォーカスする理由は、別の角度から見るとくっきりと浮かび上がってきます。

 先の中退者の発表から遡る1ヶ月前に、文科省は

“学生への経済的支援の在り方について”

 と題するレポートを発表しております。表紙の日付は平成二六年八月二九日となっています。

 ざっくりといえば、奨学金の拡充、拡大を目的とするレポートです。

 レポートには「独立行政法人 日本学生支援機構」の名前が何度も登場します。日本育英会その他が合併して生まれた巨大組織で、5人の理事の内、2人が文科省からの「役員出向」です。

 すわっ天下りだ! 利権だ! と騒ぐほど短絡的ではありません。それもあるでしょうが、いまどきそこまで分かりやすい利益誘導をするほど、官僚はバカではありません。もっと強かです。

 生活が困窮している学生を支援することに反対はしません。しかし、そもそも、一定の経済的余裕があるから大学に進学できた学生との線引きは、具体的な数値を持って議論されていません。

 進学した世帯への質問は「負担は重いですか? 重いです」ぐらいの記述しかありません。よほどの金持ちでなければ、重いと答えるでしょう。

 このレポートを読み進めると

「給付型奨学金の拡充」

 が繰り返し述べられています。私の読解力が正しければ、目的はこれです。つまり、返金のいらない学費の支給、つまり税金で大学生を養うということです。

 しかし、先の朝日新聞の記事に再び注目します。休学者の15%は「留学」と、これまたお金のかかる理由がはいっています。経済的に余裕のある世帯も少なくないということです。にもかかわらず果たして十把一絡げの議論が、社会の公平性へと繋がるのでしょうか。

 そこで給付型奨学金が拡充され、直接利益を得る人を考えます。それは大学生です。繰り返しますが、学歴と年収と大学進学率には正の相関関係があります。

 霞ヶ関の皆さんは高学歴。つまり

“官僚の子どもを「援助」するための政策推進”

 と訝ることができます。いや、

“官僚のための子育て手当(民間にもおこぼれあるけどね)”

 というのが訝るということでしょう。さらなる福利厚生の拡大です。

 公務員の子を逆差別しろというのではありません。仮に返金不要の給付型奨学金を拡充するとして、そこに

「世帯年収による精査」

 がなければ、裕福な家庭は、より豊かになり、経済格差はますます拡大するということです。

 そうではない。大学教育は将来の日本を作る人材育成だから、出身家庭は関係がない、という主張に一定の理はありますが、ならば、

「成績による精査」「進級による査定」「卒業による考査」

 が抜けている現状から、官僚の官僚による既得権益の拡大と訝られても仕方がないということです。また、それは学歴社会を否定しない、マスコミを筆頭とした大企業も絡めて、日本の社会構造であり、私はコレを「悪」とは断じませんが、

「格差社会を拡大させているのは自分たちだ」

 という自覚のないことに社会正義を見つけ出せないだけです。

 自覚していれば良いのか? と問うでしょうか。自覚していれば、その分だけマシです。正義の名の下の暴走は、十字軍を振り返るまでもなく、大東亜戦争とて、我が国には我が国の正義があったのですから。

 経済格差を悪、としながらさらに格差を作りだそうとしています。そして誰も批判しない。

 差別は再生産されるから、いまも残るのです。そして経済格差からくる学歴差別は、現在進行中で、さらに拡大しており、事実上の「身分」を生み出しているのは、文科省であり全マスコミでありすべての政治屋でジャーナリストなどなど挙げれば切りがありません。

 繰り返しになりますが、それを「是」とするならそれも良し。

 ならば「人は生まれながらに経済的身分」が決まっていると、義務教育で教えなければなりません。それが事実なのですから。

 「身分」もまた単純に否定するものではありません。日教組の闘士が蛇蝎の如く嫌った「士農工商」の身分制度でも、実際には身分の移動は行われていましたからね。それは日本に「奴隷制」がなかったからですが・・・長くなるので今回はコレまで。充分すぎるほど長くなりましたが。

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