読解力が落ちていると嘆くのは、AI(人工知能)による東京大学合格を目指した「東ロボくんプロジェクト」を指揮した新井紀子博士。
このプロジェクトが中止された理由を、私がざっくりと翻訳するならこんな感じです。
いまのAIで東大合格は不可能というか、仮にできても偶然の枠内で、偶然に頼るのは科学者のとるべき態度ではない。それどころか、研究の過程で、日本人全体の日本語の読解力低下が判明し、それこそ喫緊の課題ではないか。といったところ。
新井紀子博士は数学者とのことで、実にロジカル(論理的)な理由です。
浅学な私にとって、文系と理系の区分がわかりません。文系と記すならば、文章を正しく理解することは当然と考えるのですが、日本社会の一般論で論理性を求めるのはむしろ理系とか。
もっともこれは「日本」だけの特殊な分け方で、海外ではその区分などないという指摘もあり、確かにIT系の研究者が、哲学系の博士号を持っている例など珍しくありません。
むしろ「感性」に比重を置かせることで、読解力や論理力の不足への言い訳に「文系」という言葉を使っているように見える、とはやはり私の無学ゆえでしょうか。
新井紀子博士の近著《AI VS 教科書が読めない子どもたち》にはこうあります。
《教科書がちゃんと読める子供はそれだけで東大に合格できる(要旨)》
■AI VS 教科書が読めない子どもたち
http://www.as-mode.com/check.cgi?Code=4492762396
国公立大学は「学習指導要領」の枠内からしか出題しないので、教科書をすべて正しく理解すれば、特別な勉強は不要だという指摘で、社会に出てからも、新しい技術や知識を吸収できる人物とは、必要なマニュアルや、先輩の指導を、論理的に理解できるからだともいいます。
手前味噌ながら、私は自動車運転免許と、家庭犬トレーナー2級の資格以外はもっておりませんが、様々な「生きる術」を独学と実学で身につけており、これはすべて「普通の読解力」を持っていたからだと気づかされます。
ちなみに「生きる術」の一例は以下の通り。
・一般的な料理なら、完成品を見れば再現できる術
・一人では運べないタンスを一人で移動させる方法
・贈答用の化粧箱を素早く折る方法
・パチンコ台の詰まりを直す方法
・HTMLをパンチしてホームページを作る方法
などなど。
なかでももっとも苦労したのは、プログラマーの修業時代「英語」のマニュアルを読み解いたとき。中学一年生の2学期に、英語を自主的に卒業した私に取って、英語とは「暗号」ですが、アメリカ人が「英語」でコミュニケーションをとるのなら、そこに「論理(文章)」があるはずだと、単語を組み合わせて答えを探し、そして知ったのが「関係代名詞」でした。
学生時代に勉強しておけって話しですが、ともかく「読解力」があれば、不格好で余計な苦労を背負いながらも、なんとかやっていけるものながら、その反対はとても大変。
そしていま、その状態になっているといいます。
新井紀子博士の著書にはこんな件も紹介されています。
《「学級」「学年」「学業」といった、「学」ではじまる二文字の漢字をみな「がっこう」と読む生徒に、なぜそう答えるのかと訊ねると「その方が良く当たるから」と答えた》
またまた要約ながら、つまりは「テストで正解するための回答」を覚えているだけで、文章を読めていない学生がいて、それは鉛筆転がして当たるレベル、つまりは三択なら三割、四択なら二割五分前後の正解率しかないことが明らかになったというのです。
AIどころの騒ぎではありません。
そしてこれはいまどきの学生に限った話しではなく、マスコミと野党にも確認できます。
野党というか、政治家にはペーパー試験がないので、極論すればどんなバカでも阿呆でも、何かの心か頭の病を隠せもしないほどの立ち居振る舞いだとしても、選挙に当選すればそれが「民意」なので致し方ありません。
振り返ったとき、間違った選択だったと有権者が後悔することがあっても、それは「民主主義のコスト」です。
しかし、その成否をチェックするためにあるのが報道機関であり、権力の監視のその対象は、与野党を区別するものではありません。
とりわけ大手メディアは、いまでも四大卒業を応募要件にいれており、一般論ながら有名、有力大学を卒業した社員が詰まっているはずながら、ロジカルな発想が失われています。
端的にいえば「どうしてこうバカばっか」とつぶやく日々のなかで、新井紀子博士の著書から読解力の低下の疑念が浮かび、確信に変わりつつあります。
論拠は昨今の「公文書」の在り方について。2018年4月2日に防衛省は、自衛隊イラク派遣時の「日報」が見つかったと発表しました。昨年、当時民進党の辻元清美議員が口火を切った追及に、これまた当時の稲田朋美防衛大臣は「ないよ」と、防衛省のレク通りに答えていましたが、実は「あるよ」だったということ。
これでいま、大騒ぎ。
防衛省の日報や、文書についての不手際は、不祥事レベルで多いとはいえ、ロジカルに考えれば、もはや「防衛省」という単位で考えるべき問題ではないという仮説が浮かぶものです。
仮説にはいる前に議論を整理しておくと、日報が公文書かどうかについて、議論の余地は残ります。
先の財務省による決裁文書の書き換え疑惑で、元財務官僚で、いまテレビで大活躍中の山口真由氏はこう指摘していました。
《公文書とは関係者全ての判子が押された公開を前提とする役所の正式な文書を指し、省内局内で流通する文書のすべてを意味しない(要旨)》
すると現場の状況を上長に伝える「日報」はこれに当たらないという認識も、防衛省の現場レベルにはあるかもしれません。
だから、「報告」という目的を果たせば、廃棄することにためらいはないというのならば、そこに一定の合理的な理由は認められるでしょう。
一方で自衛隊海外派遣時の「日報」は、現場の状況を記した一級資料ともいえ、この保存は、後の組織運営、対応、改善に役立つことは疑いようがありません。
また、
「いまごろ日報がでてくるのはおかしい」
という意見も散見しますが、後出しになった非は責められても、袋だたきの果ての吊し上げをすれば、今後、同様に事態が起きたときに、現場の職員はすぐに紙の書類は焼却処分して、保存してあったハードディスクドライブを電動ドリルで破壊することでしょう。
つまり、いますべきは「公文書」の範囲の「再定義」と、再発防止策、そこには同様のミスがおきた際、自主申告、積極的な協力により罪一等を減じるなど、迅速な真相解明のための仕掛けを用意しておくことではないかということが、論理的に求める最適解ではないかということ。
ところがいま、やっていることは「防衛省は隠した。いかん、やっぱり安倍政権になって隠蔽体質が進んでいる」との、明確な論拠のない誹謗中傷。
繰り返しになりますが、アホが政治家になるのは民主主義のコストですが、そのアホを監視するのはマスコミの大事な仕事のひとつながら、足並みを揃えて大騒ぎ。
論理的に状況を見渡せば、11ある「省」の内、今回の防衛省、裁量労働制の説明に用いたトンデモデータの元になった資料を、当初ないと答えていた厚労省、「官邸のご意向」とかの「謎文書」が流出した文科省、そして決裁文書の書き換え疑惑の財務省と、わずかな期間に4つの省で、公文書や、それに準ずる文書や資料での不適際が確認されているのです。
4÷11=0.3636
3割6分と、ハイアベレージバッターレベルの高打率で、文書管理における不手際が発覚したのですから、それは
「霞ヶ関文化に致命的欠陥がある」
とみるべきでしょう。
さらに、野党はというか、昨年来、この手の騒動で怪気炎を上げ続けている、いまは立憲民主党の辻元清美氏が、昨日の読売新聞にこう答えています。
《防衛省にヒアリングしなければいけない》
はい、お馴染みの机を対面式にならべての糾弾か、役所の部屋の前にいって「鍵掛けられて、中にいれてもらわらへんねん」ってパフォーマンスでしょうか。
この一年、ずっと見せ続けられてきた「政治ショー」です。いや、「選挙活動」とみても良いでしょう。「ぼくちん、わたしたちは、こうやって仕事をしていますよ」と有権者にアピールするための。
しかし、これらの役人の吊し上げで、解明された真相はありません。
ならば、マスコミが天下国家、日本国の国益のために「報道」をしているのであれば、いますべきは
「霞ヶ関と野党批判」
です。官僚に責任を押しつけるのではありません。霞ヶ関批判とはすなわち、内閣批判、与党批判へとつながります。そして返す刀で、パフォーマンスにより官僚の、真相解明のためのリソース浪費させている野党をぶった切るのです。
その為には、この手の野党のパフォーマンスに対しては「報道しない自由」を行使すべきです。そもそも特定の候補者、政党の「選挙活動」だけを報じるテレビメディアは、放送法第4条に抵触します。
「あれは政治活動」だと野党政治家が強弁したのなら、その政治活動の「成果」を訊ね、誇る成果があるのならそれを報じ、明確な成果がなく、答えたのは「そう思う、疑惑は深まった」といった「思いこみ」なら「推定無罪」を大原則とする法治国家の政治家として失格だと批判するのが、論理的に考えることができる報道機関のとるべき態度でしょう。
また、野党のパフォーマンスが真相解明に繋がらず、それを囃し立てるマスコミの報道姿勢が、むしろ官僚、役所のリソースを浪費していることが、佐川宣寿氏や、現在の太田充理財局長の国会証言、答弁からも明らかになっています。
ネットにはマスコミや野党を「反日」と批判する声が少なくありません。ここまで見てきた野党やマスコミの態度は、いわゆる国益を損ねるからというのも理由です。
そしてその陰を幾つも確認しますが、一方で、やはりこんな懸念も否定しきれません。
「マスコミとは日本語を理解しない人々」
すなわち「○○人」というのではありません。公の場で発言する大人として十分な「読解力」が不足している人々が、政治家となり、マスコミの最前線にいるということです。
野党とマスコミに、新井紀子博士が学生の読解力を測るために実施したテストを課すことができれば、この仮説を検証できます。
また、読解力ではありませんが「基礎学力」の低下への懸念も確認されています。
テレビ朝日「報道ステーション」などでもお馴染みの、憲法学者を名乗る木村草太・首都大学東京大学(院社会科学研究科法学政治学専攻・都市教養学部法学系)教授が、掛け算九九ができないという動画が、昨夜からTwitter上で拡散されているのです。
6×7
を問われて「32くらい」と答え
8×6
では「46ですか」と回答しています。
BS朝日「ザ・インタビュー トップランナーの肖像」の番組内の映像と思われますが、掛け算九九ができない人物が、神奈川県立横浜緑ケ丘高等学校卒業し、東京大学法学部卒業し、いま「憲法」を論じています。
■掛け算九九を言えない木村草太氏(動画)
https://twitter.com/i/videos/981141626796961797
例えば書や絵画、声楽や演奏、演劇に掛け算九九に代表される計算力は不要でしょう。
しかし、「かつて800万の購読世帯を誇った朝日新聞が3割近く読者を減らしている」といった文章を、実数として把握するときに掛け算九九レベルの暗算は不可欠です。
また、憲法が今後書き換えられることのあり得ない「古文書」ではなく、現実の権力を縛り、国民生活と共に歩むものなら、世論調査における改憲支持率と向き合うのが、学問と共にいきる身分の最低条件ではないでしょうか。
ただし、やはりここでも立ち止まってしまうのが、先の番組のアーカイブを辿ると2016年11月26日とあり、つまり、その後の1年半近くを、こうした人物をニュースや憲法の解説者としてテレビ朝日は使い続けている。
この事実を前に論理的に考えたとき、やはり
「日本語を理解できない人々」
がマスコミの多数派なのではないかと呆れて溜息がもれる春の日です。
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■マスコミはいまこそ 「報道しない自由」を行使せよ|#81