高校の英語教育に見る跳び箱を跳べない人の跳び箱指導

ゆとり教育への反省もないまま、文科省が二の矢、三の矢と放つ「日本愚民化計画」の新たなる矢が、本年度よりの英語の授業を英語で行うというトンチキです。

都立高校は学校によるとはいえ、週休二日から隔週休二日へと、中小企業なみに、やや改善されましたが、授業時間を延ばしても中身が薄ければ意味がないとはその通り。

むしろ授業時間の総量が減っても、密度を濃くすることで補うとしたのは「ゆとり教育」であり、さらにいえば、積み込み型ではなく、考える力を育むと掲げた壮大な社会実験の失敗が、今日の学力低下を引き起こした反省に立ちません。

ついでにいえば、同じようなお題目をもとに「生活科」や「総合学習」なる珍妙な科目を創設して、こちらも成功例はレアケース。大半は現場が迷走し混乱し、おざなりになっております。

結論を述べます。

「跳び箱を跳べない人の跳び箱指導」

跳び箱を跳べない人、苦手な人が子供に指導するとき「手の付き方」を口にします。でも、跳べない子供は「手」に意識が集中するので跳び箱の前で減速します。タダでさえ跳べない子に苦手意識が刷り込まれるのはこのときでしょう。

色んな指導法がありますが、跳び箱を怖がらなければ、そのうち跳べるようになるもので、わたしは父親からこう教わりました。

「手はおまけ」

筋肉番付におけるモンスターボックスのように、身長を超える跳び箱にでもなれば、手の果たす役割が重要となりますが、腰の高さの程度のものなら「飛び越える」こともでき、それだと頭から突っ込むので「トン」と上体を持ち上げるために跳び箱を突き放すと。

だから手を置く位置ではなく、手をつく、あるいは跳び箱を叩く位置はどこでもさほど変わりません。もちろん、難易度を上げる必要がなければ奥でつく方が楽ですがね。

文科省に話を戻します。

生活科も総合学習も、そしてゆとり教育の掲げた嘘・・・目標もすべて「考える力」なるものに帰結するのですが、文科省とその不愉快な仲間達は

「暗記詰め込み型前例踏襲主義」

の世界で育ち、いまも生きている人たちです。そこではなまじ考える力など不要です。大学受験もキャリア試験も暗記詰め込み型の果実で、無人島で一週間生き残るというものではありません。

いうなれば「考える力」とは、沖縄県の子供にとっての舞降る雪であり、モンゴル人にとっての大海原と同じく、空想の世界の宝物なのです。

沖縄県に雪が降らずとも雪の結晶は存在しています。モンゴル人のホーミーは届かなくとも、ムーンビーチの潮騒が途切れることはありません。

どこかにあるはずの「考える力」を僕たちは信じて!

と、安い冒険小説のような妄想の果てに失敗したゆとり教育の失敗を文科省は反省しません。

そして高校の英語教育です。
今年度から高校の英語の授業は、すべて英語で行う方針となっています。

新学習指導要領・生きる力。

これも「考える力」と大差はありません。レールに乗っかることが、唯一の生存選択である文科省の役人が唱える「生きる力」です。懐かしの梅田望夫の「けものみち」理論に通じます。日の当たる舗装された道路しか歩いてきたことのない人間ほど、後年悪ぶるもので、エスタブリッシュメントがちょっと成功すると、自分の苦難の人生を語りたがるのですが、安酒屋でくだを巻く土方の苦労の100分の1にも見たいないことを知らずに彼らは天寿をまっとうします。ま、幸せでしょうな。

ただ、そんな無責任な「生きる力」を押しつけられる子供にとっては迷惑千万です。

さて最大の眼目は「英語で授業」ですが、先の学習指導要領から「外国語(英語)」の資料には、英語科の目標をこう掲げます。

≪英語を通じて,言語や文化に対する理解を深め,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り,情報や考えなどを的確に理解したり適切に伝えたりするコミュニケーション能力を養う。≫

問題だらけです。

≪言語や文化に対する理解を深め≫

言語は「英語」でしょう。しかし「文化」はどこでしょうか? イギリス? アメリカ? オーストラリア? 英語圏だけならまだまだあります。すると植民地支配や奴隷制度まで含めなければ、文化の本質的理解に至りません。

レディーファーストを叫ぶ国は女性が粗末に扱われ、人種差別に敏感な国は根底に人種差別が横たわっているからです。もちろん、言語は文化で、影響されていないわけがありません。

「よさげ」なものをいれておけば、良いだろうという姿勢が透けて見えて吐き気がします。会議の席で、こういうきれい事を言う部下が居たら泣くまでいじめることでしょう。

つづけます。

≪積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成≫

体罰と同じです。英語教師にしつけを求めているのです。対人関係は家庭の仕事です。家庭内でその子供の資質に合った基本方針を決定し、学校という集団の場における実戦で磨き、ときに軌道修正していくものです。引っ込み思案のなにが悪いのでしょうか。それも個性です。世の中、みなが積極的でなければならないとするなら地獄です。

まして謙虚を美徳とする国柄の日本人が、英語を用いるときだけデーブ・スペクターになれというのでしょうか。一説によれば、彼は相当シャイだそうですが。

そしてとどめ

≪情報や考えなどを的確に理解したり適切に伝えたりするコミュニケーション能力≫

日本語でも、大人になっても、適切にできることは少ない、高度なリテラシーを、しかも英語で高校生に求めるすがたは、まるでお笑いコンビ「ずん」の飯尾和樹の妄想シリーズです。

「ゴロゴロ〜ゴロゴロ。学習指導要領に明記しただけで、高校生が英語ペラパラで、ポジティブにコミュニケーションがとれ、高いリテラシーを身につけねーかなぁ」

学習指導要領をすべて読みましたが、あまりにもいい加減すぎてあげつらうのも馬鹿馬鹿しくなります。

そもそも英語で授業をするとして、英会話の怪しい英語教師は少なくありません。また、できたとしても、クィーンズイングリッシュとオージーイングリッシュは異なります。アメリカ英語だとしても、テキサス訛りだとか、ブルックリン訛りだとかがあるといいます。

なにをもって「英語」とするかの定義がありません。コミュニケーションが目的なので、英語の種類は問わない・・・とするなら、点数をつけることは不可能でしょう。英語を使わなくてもコミュニケーションは可能だからです。

もちろん、これは屁理屈。しかし、英語を持ってのコミュニケーションだとしても、書き言葉の英語に訛りはありませんが、英会話において訛りはおろか、英語教員の英会話能力について、四半世紀以上前の話で恐縮ですが、

「英会話ができる教員は少ない」

と高校時代の英語科の恩師が教えてくれました。彼は商社に勤め海外勤務経験を経て、教員を志望しており、発音はネイティブではないが会話はできると胸を張ります。そして多少海外留学したぐらいでは、立て板に水とはいかないものだそうです。

たしか「アグネスチャン」をあげて、反対を考えれば分かりやすいといっていました。そして本当に覚えたいなら、英語だけの生活に身を置くしかないとも。

四半世紀も過ぎて21世紀になったのですから、英語教師の英会話能力も飛躍的に高まったとでもいうのでしょうか。

教科書にある英語を読み聞くだけでなく、その解説まで英語でする能力を求められ、生徒もそれの理解に努めなければなりません。

指導要領には、英語での質問に英語で考えて返答できるようにするとあります。高校生と言えば15才以上で、思春期まっただ中で、論理的思考が発達する季節です。

ようやく身につけた日本語での論理的思考を、英語の授業の度に捨てなければなりません。そしてまだまだ豊かな我が国で社会人と成り、その後の人生で英会話を必要とされるのは、観光地で外国人に道案内を求められたときぐらいでしょう。

なるほど「ビジットジャパン」戦略の一環として、高校生を英語圏の接待要員とするための大いなる陰謀ということ・・・ではないでしょう。

英語教育の必要性を否定しているものではありません。どうせ、習うのなら身につくものにしろというのも頷きます。しかし、やり方が粗雑過ぎて、跳び箱を跳べない子供を量産するかのような文科省の、それもゆとり教育の反省をもたないやり方に憤りを感じるのは、姪が昨日、都立高校の入学式だったからかもしれません。

なら、おまえならどうする?

簡単です。「IT」があります。

文科省は電子黒板や、タブレット端末を用いた教育のIT化という愚策に邁進しています。こちらはダメで、英語は良いというのではなく、味噌もクソもITに置き換えれば上手くいくという発想に反吐がでるだけです。

電子教科書で少し述べておけば、教科書に動画を盛り込むことで子ども達が直感的に理解できると主張する声もありますが、小学生なら、生活科や総合学習の時間に、野原にでてお日様の方向から方角を理解したり、捕まえたバッタから昆虫の構造を、野に咲くタンポポから花弁や葉脈をみるほうが大切で、もっといえば、干した雑巾がどの条件が乾きが早いかの研究は、理科における水分飽和度の生きた学習教材です。また、動画が必要な授業にしても、プロジェクターなどをもちいた大スクリーンで、ひとつの方向を集団で見る教育効果と比較すれば、タブレット端末で「独習」するより良いと考えます。

iPhoneなら「シリ」、ドコモなら「しゃべってコンシェル」のように音声認識技術はこの数年飛躍的に伸びており、こられの技術を応用すれば

「ネイティブな発音の学習教材」

を作ることなど造作もありません。さらに、そこに採点機能をつけることも簡単です。

パソコン版で提供すれば、いまどきの高校にはだいたい生徒学習用に一人一台提供(コンピュータルームやLL教室などで)されているので追加負担は不用です。

パソコンが古いケースもあるでしょうが、ウィンドウズXPは来年サポートが終了するので、買い換えのタイミングとしては丁度よいでしょう。

パソコンですべてを習わせるのなら教師はいりません。しかし、パソコンを用いた授業により、教師による個体差のない英会話教育の機会を生徒は得るコトができます。

そして基本的な応答を採点機能により確認できた生徒が次のステップである、コミュニケーションに進むようにすればよいのです。ここからは教師の仕事ですし、ここでもITを駆使して、例えばフィリピンの高校生とスカイプで会話するなど国際交流を提唱すれば、日比の友好にもなりますし、同様に英語圏の国々との交流により、次世代の親日家を育てるきっかけにもなります。

ところが、教科書や黒板ではIT(正しくはICT)を推奨しながら、もっともITが即戦力になる分野では手付かず。それは文科省と不愉快な仲間達にとって、ITもまた跳び箱だからです。

進まぬ定数削減の議論に国会議員への批判が高まります。自分たちのことだから決められない。その通りです。そしてそれは文科省・・・だけではなく、すべてのお役所仕事にも言えることです。

彼らは継続性という名の下に、前例踏襲を自己目的化するのは、彼らが生きてきた轍に「考える力」がないというより、不用であり、ときに害悪にもなったからです。

尾崎豊ではありませんが

「学校っていったいなんだい、社会に正義あるのかい。大人は本当に正しいことを口にしているのだろうか」

なんて考えていたら、受験勉強などできやしません。

前例踏襲というレールにのる限り、過去を反省することはありません。過去の反省とは未来の自己否定と同義です。近い将来、後進により、現在の自分の決定を否定される恐れが生まれるからで、自分が前例を踏襲することで、未来の後輩も自分を否定しないと保身に走ります。

そしていつの時代も子供達が犠牲になります。

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