ネットが社会を動かしたエンブレム騒動

 佐野研二郎氏デザインによる、東京五輪エンブレムが白紙撤回されました。遅きに失した感は否めませんが、妥当な選択といえるでしょう。

 白紙撤回に「ネット民」の果たした役割は大きく、一方で、その捜査能力を「個人攻撃」や、「匿名からの攻撃」と批判する声もあります。しかし、それは論理のすり替えに過ぎず、いわば「体制」へのアンチテーゼで、国会前で行われているデモよりも、確実に世間を動かした「勝利」なのです。

 新国立競技場の件もあったのだから、もっと早い決断でも良いとも考えますが、先の失敗を挽回するためと、意固地になり判断が遅くなったというのなら、気持ちは分からなくもありません。

 ただ、「広告代理店の判断待ち」だったとしたら、大会組織委員会は直ちに全員辞職し、新たな人選をすべきでしょう。

 これは推測に過ぎませんが、先週の頭から例のエンブレムが広告に踊るようになったことで、街角の不快指数が加速度的に高くなり、スポンサーへのクレームが殺到し、スポンサーの懸念により広告代理店が重い腰を上げ、水面下で組織委員会に撤回を申し出た、とするにはピッタリのタイミングだからです。

 いずれによせ本エンブレムについては終わったこと。
 だから、選考委員を丸ごと入れ替えて、新しく始めれば良いだけのことです。

 また、これを機会に「公募」になるとのこと。妥当でしょう。

 正しい意味での「エンブレム」とは、そこに描かれた図案だけで、主義主張、組織の目的などが分かるように作られますが、五輪のそれは「ロゴ」に過ぎません。

 まして、それを見て、五輪に胸を躍らせるのは、デザインの専門家ではない日本国民と、海外の圧倒的多数の一般人です。

 素人礼賛は趣味ではありませんが、誰もが納得する「ロゴ」ならば、公募がもっとも理解と納得を得やすく、さらに「プロアマ問わず」ならより公平性を強調でき、市民も参加することにより

「参加することに異議がある」

 というクーベルタン男爵の言葉を体現できます。

 ITを使えば手間暇もわずかです。

 「応募」の時点で、デジタル化を義務づけ、簡単な手続きで「自主掲載」ができるサイトを構築し、応募と同時に「審査」される仕組みなど、イラスト投稿サイト「ピクシブ」を挙げるまでもなく容易いことです。

 もちろん、最終的な仕上げにプロの手は必要ですが、アイデアのや素材、「原案」レベルならば、素人の作品にも、活用すべき素材があることは、いみじくも佐野研二郎氏も認めた一連の「パクリ」が雄弁に語ります。

 むしろ佐野研二郎氏のデザインを見るに、こうした「素案」をもとにブラッシュアップすることに長けている人物のようです。1から作り出すのではなく、すでにある1を漢字の一にするぐらいの。

 そこで迷惑料代わりに「無償」で、ブラッシュアップや関連グッズへの転用を手伝わせることで、彼の名誉回復の一助にさせるのが、武士の情けというものではないでしょうか。

 私は武士ではありませんが、日本人の情というか、不要な遺恨を残さないための生活の知恵として、とは余談。

 プロセスから公開することで、捜索大好きな「ネット民」らがチェック機能を果たしてくれ、そこにかかる人件費も時間も大幅に節約できます。

 高度な政治判断を必要とするもの、専門的知識を前提とする議論について、素人に任せろとは乱暴過ぎますが、東京五輪のロゴデザインはこれにあたりません。

 だから素人も含めた「公募」でも機能するのです。

 重要なことなので指摘しておきますが、素人礼賛と民主主義は似て非なるもの。誰でも参加できることから、民主主義における政治の舞台には、一定数の素人が紛れるもので、俗にその「市民感覚」が政治に新風を送り込むと称揚されますが間違い。

 政治経験が無いという意味での素人と、政治の勉強すらしたことがない素人、社会人としての基礎すら身についていない素人とが、区別されていないからです。

 政治経験の有無は問われるべきではありませんが、それ以外は己の責任であり資質に関するものです。バカをもって素直と喜ぶことが許されるのは、せいぜい本家の内孫にあつまる親戚の範囲までです。他人からみればバカは馬鹿で、政治家とて同じです。

 いまの安保法制を巡る反対原理主義者らに通じます。

 安保、外交についてあまりに不勉強であり、現実を見ない彼らの主張は首肯できるレベルに達していません。

 例えば、反安倍首相、脱原発、安保法制のスケープゴートとして、マスコミに重宝されている学生デモ組織「SEALDs」の抗議活動で、福岡の大学生がこんなことを叫んでいたとTwitter民を唖然とさせました。

「もし中国や韓国が攻めてくるなら、僕が九州の玄関口で、とことん話して、酒を飲んで、遊んで、食い止めます。それが本当の抑止力でしょう?」

 で、これ批判者ではなく、賛同者が紹介しており、発言を「真理だ」と締めくくっているのです。

 もちろん冷笑と嘲笑しかなく、「攻めてくる」の時点で抑止力が破綻しているわけですが、ジャーナリストの有本香氏のシニカルな発言を紹介しておきます。

“酒飲んで仲良くなるだけで抑止できるかどうか、工藤会をイメージしながら、よーく考えてみるといいよ。福岡なんだから”

 工藤界とは北九州最強の暴力団で、警察に対しても躊躇わずに銃をぶっ放すと言われています。

 大学生バカ論は昭和時代からあった議論ですが、政治の劣化がキワマレリとは、国会議員がこのバカ大学生レベルだというところにあります。だから「民主主義」すら理解していません。

 民主的な手続きに則った選挙を経た政権に対して「ファッショ」というレッテルがそれです。それは昨年12月の選挙結果を踏みにじる行為で、それこそが安保法制を「戦争法案」と誤読するバカ左翼が叫ぶ

「民主主義の敗北」

 に他なりません。

 民主的プロセスを経て選ばれた政権を、街角のデモでひっくり返せるなら、真面目に働く国民よりも、国会前で騒ぎ続ける活動家の意見が尊重されることになります。勤労意欲も削がれます。

 だから、主催者発表12万人(笑)。賛同者発表35万人(爆)。警察発表3万人ちょっと。英国BBC発表では数千人のデモによる意思表明を止めはしませんが、それが優先されることはあってはならず、そこに参加する政治家など論外、というより議員バッチを外すべきでしょう。

 なぜなら、その民主主義のプロセスにより、彼らは収入を得て一定程度(ではなく、それなりに優雅な)の生活を保障されているのですから。

 念のため記しておくなら、日本共産党、社民党、民主党、そして太郎と一郎です。その民主党に合流しようとしている「維新の等(誤字ですが、なぜかピッタリなので訂正せず)」も同じ穴のムジナでしょう。

 民主党の枝野幸男(敬称略)などは、BSフジテレビの「プライムニュース」で、警察発表の数字に疑問を呈し、日比谷公園などにいた人物も数えるべきで、つまりは警察発表と「権力の側による恣意的な印象操作」と主張するわけですが、同局社員 反町理(おさむ)氏に

「では12万人もいたとおっしゃる?」

 と問い返されるとゴニョゴニョ。安全保障についても、憲法違反だから対案もクソもないと、まるで学生デモのラップもどきレベルの持論を展開するも、

「憲法違反の判断は下されていませんよね?」

 とのツッコミには、議論をすれば論点がずらされると、議論をずらす体たらく。

 差別反対と叫ぶバカ左翼が、もっともネット上で差別発言を繰り返すように、論点のすり替えを叫ぶものが、一番論点をすり替えるという『日本むかし話』で不幸になる悪代官のようなキャラクターです。

 日本国内で憲法違反の判断をくだせるのは「最高裁」だけ。

 なお、違憲論の旗頭となった憲法学者の小林節氏は、弁護士資格を有しますが、司法試験合格者ではなく、法学部の大学教授を務めたなどの、一定の要件を満たし申請して認定されたに過ぎません。

 冷静になるまでもなく、そもそも「違憲」という判断は、学者がくだしたに過ぎないのですが、法治国家の危機だと騒ぐバカ左翼は、その法治の原則を無視して、学者の私見を崇め奉っています。

 なるほど、自らの発言が、いずれもせずに自らを傷つける「ブーメラン政党」と呼ばれるわけです。発言が自己矛盾しているのですから。

 それはさておきエンブレム。こちらに専門性は不要、というか絶対条件ではありません。むしろ専門性がマイナスにでた典型的事例といえます。

 昨夕の財務事務次官出身、五輪組織委員会の事務総長 武藤敏郎氏が記者会見で、佐野研二郎氏のデザインへの剽窃=パクリ疑惑について、選考委員の肩書きを持つ「デザインの専門家」は、問題ないとしたというのです。

 それ故に「一般の方には分かりにくい」と武藤氏は繰り返します。

 デザインの専門家(と、自称する選考委員)からみれば、パクリではないことは明白だが、国民の理解が得られないので、取り下げる方向に傾いたということです。

 しかし、三角と丸と四角の組み合わせたデザインの「違い」の妥当性は、ある意味、業界において慣習的に見逃されているに過ぎません。

 それを言い出せば、仕事に支障をきたすので、互いに目をつぶりあう「暗黙の了解」がそこにはあり、発注者との力関係や、パクリ元、参照元の有名度、影響力などの係数があり、この解読には確かに高度な専門性が求められますが、ひと言でこれを言い表せば

「内輪の議論」

 です。

 それがまったく通じず、世論の反発を買ったのは、

「当初予算より高くなるのは当然」

 とタカを括っていた、新国立競技場の建設費用とまったく同じ構造です。

 国際政治や安全保障を置き去りにした、憲法学者による憲法解釈も同じです。限定的な空間でしか通じない理屈だということです。

 漏れ伝わる報道から、専門家の選考委員が気にしていたのは「訴えられない」ということのようです。

 疑惑発覚時に組織委員会は「商標権」を盾に正当性を主張し、疑惑が色濃くなってから「オリジナル(第1次案)は違うデザイン」と発表していたからです。

 ということは、このリスクを充分に認識しており、つまりは「商業デザイン」についての充分な知識があったということ。当然ですが。

 選考委員の多くは、広告代理店の息のかかった、いわば広告業界の身内で、つまりは「国民ウケ」を気にしながら商売をしているその道のプロです。己の「美」を究める舞踊グループ「山海塾」のような前衛芸術家ではありません。

 ならば、「一般の方に」なる表現が、本当に選考委員の口から漏れたのなら、勘違いも甚だしい選民意識であり、血税を用いる要職に立つべき人らではありません。日頃はその「一般の方」に向けたデザインをしているのですから。オリンピックのロゴマークになった途端、素人風情には理解できないデザイン論が展開されて許されるというのでしょうか。

 ならばそもそも広告業界の人間が、選考委員に選ばれる理由があありません。

 彼らにとっては薄謝によるボランティアのつもりだったとしても、そこで連中は「名誉」と「権威」を手に入れるのです。「名前」ではったりがきく、デザインなる恣意的な世界で、名誉と権威は金銭を呼び込む価値を生み出します。

 一般の方が素直に喜び、受け入れ、東京五輪の成功を願い協力を申し出るぐらいのエンブレム・・・ロゴデザインを選ぶのが連中の仕事だったのです。業界にしか通じない屁理屈など職務放棄であり、それを鵜呑みにする元財務次官らも一蓮托生です。

 確かにシンプルで抽象的なデザインが似てしまうことはよくあることですが、国民が、特にネット民がここまで熱く捜索と発掘した理由は

「デザインの説得力」

 がないからです。

 佐野研二郎氏の一時デザインでは足元に転がり、まるで蹴っ飛ばすために置かれたかのような「赤玉」が、デザインの中央に置かれていたのなら、仮に同様の疑惑が海外から発せられても

「日の丸だ」

 と悠然と反論できたことでしょうし、ネット民のなかにも擁護する声があったことでしょう。

 あるいは白紙撤回が決定した「L」にしか見えない、佐野原案+監修 組織委員会によるデザインが、左右反転していたのなら、

「日本列島をイメージした」

 と強弁も可能だったことでしょう。

 この全てがなく、後付けにしか思えない理由付けは、結局、第3次案であることからも明らかになったように、デザインのコンセプトが

「T」

 しかなく、それは所沢でも田町でも田端でも、我が町「舎人(とねり)」もそうなりますし、トルコやテネシー州でも同じ頭文字で、納得性は低いのです。

 これについては、「T」を用いる以上、デザインが似ることは致し方がない、という擁護論がありますが「論外」。応募要項に「T」を用いろとあったのなら話は別ですが、漢字の「東」の図案化ならば、少なくともそれだけでオリエント感を演出できますし、西欧のデザイナーの競合作品は減り、自動的にオリジナリティが生まれたことでしょう。

 しゃれっ気をだすなら「と」だってあります。東京都の「と」ですが、将棋の「と金」と重ねれば、無名の選手が努力により金メダルをつかみ取ることのできる東京五輪、というコンセプトにすることもできるからです。もっとも「止」が元の字というのはマイナスではありますが。

 また、招致エンブレムにあった「サクラ」は、日本のイメージでもありますが、いまサクラの花見といえば「ソメイヨシノ」で、これは今の豊島区あたりで生まれた物で、立派に東京由来のデザインでした。

 このどれも佐野デザインにはありません。
 いわば「デザインとしての根っこ」がなかったのです。

 私は佐野研二郎氏のデザインをダサいと思いましたが、これは趣味嗜好に過ぎず、最大の問題は選考委員と、選考委員を選んだ組織委員会にあると考えます。

 ただ、一方で佐野研二郎氏への「個人攻撃」がネット上で過激になったには、マスコミでは報じていない幾つかの理由があります。

 その代表例が、いわゆる「在日疑惑」です。これについては、その認定に呆れるばかりですが、バカ左翼における「ネトウヨ認定」と同じく、少し気に入らないや疑念を抱かせる人物、あるいは反日的なものをこれと認定することです。

 在日の後には韓国や朝鮮が付くわけですが、それは「反日」のニュアンスで、ただ私の知っている在日はノンポリで、こうした喧噪を迷惑と感じており、帰化しない理由をそれとなく訊ねると

「一族の問題」

 と、つまり一存で左右できない、文化的背景があるという説明に溜息が混じっていたような気もします。

 ともかく、佐野研二郎氏へも同様の攻撃があり、真偽については論評する気もありません。彼はデザインをしたものであり、選んだのは選考委員と組織委員会だからです。

 それでもあえて取りあげたのは、日の丸とおぼしき赤玉のぞんざいな扱いに、縦の黒線が「弔旗」に見える、さらに彼のデザインしたオリンピックとパラリンピックのロゴを並べてみると、葬式に用いられることの多い黒白の鯨幕(くじらまく)に見えるなど、東京五輪を言祝いでいないのではないかという疑惑があったからです。

 また、オリンピックとパラリンピックのロゴを重ねると

「真っ黒に赤玉」

 となり、まるで暗黒に沈む日本のようだという指摘もありました。

 ただし、これについては私の見解はノー。佐野研二郎氏の一連のデザインを見る限り、単純に白黒反転した手抜きデザインと見るべきでしょう。

 その他の暗喩とされるものについては、確かめる手段を持ちませんが、その中央に位置する黒の縦線とは「中黒」と呼ばれ、これは徳川の旗印。

 「中黒」の存在は国旗を少しでも勉強した人なら、みんな知っている話し8人の専門家がいて、誰も気がつかないとは不勉強。

 とは、吹浦忠正氏の週刊新潮での指摘。吹浦忠正氏とは先の東京五輪で国旗を担当し、パラリンピックも手がけるなど、本当の専門家。

 在日、反日、パクリの前に、日本を代表する意匠として相応しい物ではないというのです。

 さらに、彼の会社のホームページを公開するためのサーバが

「ns.zyappu.com」

 となっていたからこりゃ大変。

 頭の「ns」はネームサーバの略で、最後の「.com」は米国のドメインということですが、国内で使っている個人も企業も多くは、弊社もそれに利用しております。

 問題は真ん中が「ジャップ」と読めることです。いわずと知れた日本人の蔑称です。指摘を受けて公開情報を、GMOインターネット株式会社に差し替えます。

 かつて、日韓共催とされたワールドカップのチケット販売で、ドイツの業者が日本専用サイトのアドレス(フォルダ)を

「/jap/」

 にして物議を醸しました。国際的な略称は「jpn」だからです。

 ただ、程度の低い外国人にとって、日本のプレゼンスは低く、ハリウッド映画か、そもそも持っているアジア人蔑視から「ジャップ」が刷り込まれている可能性があり、これを見逃せとはいいませんが、佐野研二郎氏が日本人として「ジャップ」と呼べるサーバを利用していた理由を求めたいと思うのが愛国ネット民です。

 これは不運な流れ弾ではないでしょうか。

 この「zyappu.com」は、世界で初めてのドメイン登録業者として名を馳せる、ネットワーク・ソリューションズの名前で20世紀にはすでに登録されています。

 登録日は1999年6月21日となっており、「business.com」が高値で売買された時代、将来売れそうなドメインは、なんでも登録したものです。そこで「zyappu」とは頭の悪いピー(放送禁止用語)らしい発想で、むしろ欧米人の発想に思えてならないからです。

 仮に愛国ネット民の邪推が正しいとして、日本侮蔑のために半島由来の人物が、サブドメインを選ぶなら「チョッパリ」でしょう。チョッパリとは朝鮮半島における日本人の蔑称で「豚の足」を意味します。

 足袋をはき、草履や下駄を履く姿が、彼らにはそう見えるようです。

 つまり、在日疑惑に根拠はなく、誹謗抽象というボヤに風評が煽り大火事になったと見るべきですが、これを消せるのは本人だけながら、まったくスルーしたことが自体を悪化させたのは、近年の企業不祥事とまったく同じ構図です。

 擁護派の中には、佐野研二郎氏への「個人攻撃」と論点をすり替える輩もいますが、いまどきのネット民なら、背景に電通を筆頭とした広告代理店がいることは大前提で知っており、むしろ標的はそこにありました。

 スケープゴートとされたことへの同情が起こらなかったのは、佐野研二郎氏自身が博報堂という大手広告代理店の出身で、また大手広告代理店の仕事で名を売った人物で、いわば「仲間」と見られたからです。客観的に見た事実関係はそうでしょう。

 ちなみに日本単独開催でほぼ決まりだった、2002年ワールドカップを、日韓共催に仕向けたのは電通であると言われ、これもことある後に「在日認定」の材料にされているという下敷きは、マスコミでは絶対に言えないことでしょうね。

 だからか、マスコミの追究が手ぬるかったことも、ネット民の過剰でお節介な正義感に火をつけました。放置していればマスコミや大企業を野放しにしてしまうことを知っているからです。

 佐野研二郎氏の名前によるデザインで、数々の疑惑が上がりながら、それを報じるのはいつもワンクッション遅く、ならばと次々と「新ネタ」を発掘するという悪循環というか好循環と呼ぶべきかに陥ります。

 そして加速度的に微に入り細を穿ちます。

 結局、とどめを刺したのは「オリジナル」とされる佐野研二郎氏のデザインの「第1案」です。

 これもすぐに「発掘」され進退窮まります。盗作の事実の有無の前に「オリジナリティ」の欠如が明らかになったからです。

 騒動の発端となったリエージュ劇場のロゴについては、ベルギーということもあり「見たことがない」という説明に、一定の説得力がありましたが、「オリジナル案」とは、銀座で開催された「ヤン・チヒョルト展」のロゴマークと「同じ」といって良いレベルで、これはマスコミ報道は控えられていますが、

“いまのgggのヤンチヒョルトもやばい。”

 とは2年前の佐野研二郎氏のTwitterと発掘された物で、gggとは「ギンザ・グラフィック・ギャラリー」の略称のようです。

 つまりオリジナルを公開したら、そのオリジナルに疑義が灯ったということです。それでも首を切れなかったのですから、みなグルと見るべきで、佐野研二郎氏への個人攻撃というより、オリンピック組織委員会だけではなく、広告代理店の支配下にあるマスコミに対するネット民の「総力戦」だったと見るべきが、今回のエンブレム騒動なのです。

 そしてこの戦いに「勝利」しました。そう「ネットで社会は動く」ことを証明したのです。

 はてさて、日頃、ことある毎に「民意を問え」と大騒ぎする左翼陣営はこの事実をどう捉え、総括するのでしょうか。

 安保法制を「戦争法案」と叫ぶ学生によるデモ団体は、SNSの活用を喧伝しており、年齢的にみれば「デジタルネイティブ」であり、社会人と比較して圧倒的に時間を持て余しています。

 彼らが本当に「戦争法案」と信じ、それを説明に足りる、充分なファクト=事実があるのなら、それを調べ、発掘し、ネットで拡散すべきでしょう。

「安倍は戦争をしたがっている」

 とする客観的事実を示すべきです。それが出来たなら、彼らが望む通り「世間を動かす」ことも可能になるでしょう。

 なぜ、彼らはそれをしないのでしょうか。それを応援する坂本龍一や山口二郎らは、こうした論理的なアプローチを教えてあげないのでしょうか、教えることができないのでしょうか。

 むしろ「デマ」に振り回されているのは、学生だけだという現状は健全な社会だという見方もできますが、いずれにせよ、事実を積み重ねることで、既得権をも乗り越えて社会が動く。そんな時代がやってきたのです。これこそ、左翼陣営がデモの現場で叫ぶ「民意」の時代です。

 ならば「民意」を信じるものにとって、右でも左でも「慶事」とよろこぶべきことでしょう。そこに本当の「民意」、そして「事実」があるのならばですが。

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