保守についてラーメンから考えてみる

ラーメン

 安保関連法が施行されました。これに反対する勢力は大騒ぎしていますが、可決された法律が自動的に施行されたに過ぎません。

 実にパヨクらしいと頷くのは2点。

 まず、SEALDsの奥田愛基氏は、テレビ朝日の取材に「施行された後の方がむしろ(デモの)重要性は高まっていると思う」と述べていましたが、これに反対するなら施行前後だけではなく、ずっと反対し続けるべきでしょう。

 施行日という「イベント」に乗じるところに、その反対というより「政治活動(反政府活動)」の匂いが漏れています。

 もうひとつが、デモで政治は変えられないということを、いつまで経っても学習していないこと。自分たちは正しい、だから自分たちのやり方は正しい。で思考停止しています。まだお若いのに。

 で、奥田愛基氏は大学4年生(4回生じゃないんだ?)って紹介されていましたが、卒業できたのでしょうか。

 そして面白いというか珍妙というか、日本のパヨク、リベラルや左翼は、思考が硬直し停止し、対する保守は融通無碍の自由(リベラル)さをもっているところです。反権威・権力的な主張を掲げる左翼よりも、権威そのものを上書きするのが日本の保守の特徴です。

 保守とは何か。を、たびたび取りあげるのは、イデオロギー的な分類や、学問的アプローチからの理解というより、日本という国を考える上で避けて通れないテーマだからです。

 そのくせ、マスコミでは言えないこと。いや、言わないこと。

 今回は保守を「ラーメン」から考えてみます。

 独自に進化したとはいえ、ラーメンが中国から渡ってきたことを疑う日本人はいないでしょう。台湾や中国に、逆輸入されたと聞いて、誇らしく思っても、日本のラーメンが中国に勝ったとの対立構造では、まともな大人なら考えもしません。

 「天ぷら」だって同じです。和食として世界で紹介されていることに疑問を呈する声もあるように、元はポルトガル料理であり、すでに数百年を経ても、出自を大切に思うのが日本人であり日本文化です。

 なんでも自分たちが起源だと主張する韓国や、オリジナルへの敬意が品薄な中国との違いですが、それは彼らの国では正しい振る舞いなのであり、我々がとやかく言うことではありません。国際舞台の場で間違った主張をしたときだけ、淡々と否定すれば良いだけのことです。繰り返す内に信用を無くすのは、イソップ童話を引くまでもないでしょうが、それも余計なお世話。

 極度に排斥的な言説を好む「ネトウヨ」の中には、嫌韓を煽る目的で「キムチは食べない」なる主張を見つけることもありますが、それはそもそも日本人的な態度ではありません。

 特定の商品や、製造したメーカーならともかく、調理法に目くじらたてても虚しいだけで、食の安全からの不安なら、国産材料を用い国内で作ったキムチだってあります。優れている(美味しい)調理法を知ったのなら、それを取り入れるのは、薩英戦争や下関戦争後の、薩摩や長州の軍の西洋化を挙げるまでもなく、日本人の特質でもあります。

 こうした特徴を「猿まね」と最初に揶揄したのは、清や朝鮮です。中華思想においてもっとも優れていると自負する中華の、引いては東アジアのすぐれた文明を捨て、華夷秩序から遠く離れた西欧文明の真似をする日本人を嘲笑したのです。

 他人を侮蔑することで、心の優位を見つけている間に、歴史が動いての結論は、語るまでもないでしょう。

 なお、焼肉の起源について「韓国(在日)起源説」は諸説ありますとの、注釈をつけるべきと考えるので、ここでは取りあげません。

 面白いのは嫌中が叫ばれても「ラーメン食べない」という主張を見かけないことです。つまり、排斥主義的な発言も、都合良く使い分けられているということで、ネトウヨとパヨクの思考回路を同じだとする理由のひとつです。

 起源はともかく、ラーメンがすっかり日本の食文化の一翼を担っていることに異論は無いでしょう。

 しかし、それではラーメンとはなんでしょうか。

 サンドイッチは、パンに具を挟んだもの、その具がハンバーグならハンバーガー。餃子は小麦粉で作った皮で、ひき肉などの具を包んだもの。それぞれ具や、大小の違いはあっても、ある種の共通認識は存在します。

 それでは、なにを満たせばラーメンと呼ぶのか。スープの中に麺があればラーメンだとするなら、ソバとの違いはなんでしょうか。

 麺においては、そば粉の有無と説明できても、小麦粉をこねた「うどん」との区分は、かんすいや玉子の違いでしょうか。しかし、無かんすいや玉子不使用の麺もあります。それどころかそば粉を使用したラーメンも確認しています。スープにおいて鰹出汁は珍しくなく、昆布や炒り粉もあります。

 その自由さこそラーメンだ。とは詭弁ながらも、それしか説明がつかないのが、日本で発達したラーメンです。そしてそこに「日本人」を見つけます。よく言えば大らか、正しくはいい加減、旨ければOK。

 ラーメンの出自を理解し、進化の変遷、系統は理解しながらも、まったく違う調理法でも「ラーメン」と言い切ってしまう。

 換言すればこうです。

『伝統を大切と理解しながらも、絶えず伝統を更新していく料理がラーメン』

 はい、これが「日本の保守」です。と、わたしは考えます。

『伝統を大切と理解しながらも、絶えず伝統を更新していく保守』

 とうこと。

 昔ながらのやり方、価値観に固執し、現状維持を良しとしません。保守というと古式然とした守旧派で権威主義、既得権の保持者というのは、パヨクや左翼がなすりつけた冤罪です。

 むしろパヨクは「反体制(過去の否定)」というひとつの価値観に固執しており、体質としては保守とリベラルは逆転しており、その代表例が「憲法」であり、「安保関連法」ですが、今回はこれに踏み込みません。

 保守とは、どちらかと言えば、その国の伝統文化を受け継ぐことに重きを置くものですが、我が国の伝統文化は太古の昔よりアバンギャルド。

 徳川の治世により、平和が訪れ武器の進化が止まるという、人類史上の奇跡がおきましたが、文化の花は咲き乱れ、浮世絵や歌舞伎、落語の開花もここに含まれます。

 格安ラーメンチェーンの「幸楽苑」は、昨春、メニューを刷新し軌道修正しましたが、コンセプトそのものは

「昔ながらの中華そば」

 です。しかし、素材もレシピも変化していますし、日本各地で改良が重ねられたラーメンには、それぞれの地域の「昔ながら」が存在するはず。

 改良の言葉は正しくないかもしれません。なぜなら、本当の意味で、昔ながらのラーメンが好きな客にとっては、次々と生まれるラーメンは改悪になるからです。

 ここからしばし、ラーメン談義。

 私はラーメンマニアがオススメするような店で、一杯千円近くもするラーメンで、一度たりとも旨いと思ったことはありません。正確に言うなら、味と値段、サービスが釣り合っていないと感じるのです。

 広東麺やモヤシソバのように、その場で調理してくれる手間賃になら、千円も惜しみませんが、麺を茹でてトッピングを載せただけの商品は、どうしても「給食」を思い出してしまいます。

 安くて栄養バランスまで考えてくれた給食には感謝していますが、選択の自由を満喫できるのが大人の醍醐味。だから、給食のようなラーメンに千円は払いたくありません。

 味も同じです。

 端的に言えば、油っぽくってしょっぱい。足立区にあるとある行列が出来ると評判のラーメン店の店主は語ります。

「●●さん、ここだけの話しスープは必ず残しなよ。死ぬから」

 最後は私の創作。●●さんとは知人で、彼から聞いた言葉は「身体に悪いから」。ラーメンスープは油と塩でできており、美味しくても飲み干すのは、身体に絶対に良くないとのアドバイス。

 私の研究とも合致します。趣味でラーメン作りを研究していたとき、いわゆるお吸い物やソバ、うどんの感覚で味付けしたスープに、麺をいれると、食べ出してすぐにぼやけた味になってしまいます。

 麺に含まれる水分が浸透圧の関係で溶け出るのか、麺の分だけ味が薄まると感じるのかと推測しましたが、すると美味しい感じるには塩分過多は避けられず、コクをだすには油分が欠かせません。つまり、うどんやソバ、いわゆる従来の和食系の汁ものと比較したとき、尋常ではない油と塩をぶちこまなければラーメン風にならないことを知り、

「知らない幸せもある」

 と気づき、ラーメン研究から手を引いたものです。

 こだわりの叉焼(チャーシュー)とやらも、大半は「煮豚」であることは見逃すとしても、豚肉の塊を味合うなら東坡肉や、スペアリブの方が良いとは好みの問題ですが。

 半熟玉子は美味しいとしても、魚介系のあっさりとしたご自慢のスープに、黄身が溶け出せば、スープの味を濁らせることを、自称ラーメン通のタレントが、その手の店の食レポをして、誰一人指摘しないのは、いつみても不思議です。それとも、玉子を「飲みもの」とでもいうのでしょうか。

 味だけではありません。飲食店の内装が、黒を基調として許せるのはショットバーぐらいで、薄暗い店内は鮮度の悪さを誤魔化すための舞台装置といぶかります。

 能書きを壁に落書きするのは、「味」だけで勝負できないから、わざわざ文章で説明していると理解しています。

 さらに調理人の野球帽や、タオル巻きは不衛生。ひげ面は微妙なところですが、できれば勘弁願いたいのは、同じく不衛生だから。

 ついでにいえば「食券」のラーメン屋も、好んでは利用しません。立ち食いソバのように、食べたらすぐにでていく店で、しかも数百円のものならいざ知らず、千円近い商品の前払いにいつもこう思うのです。

「後払いだと文句言われるからだ」

 もちろん、好みの違いに過ぎません。

 そして、これらのラーメン店がそれで繁盛しているのなら、世の多数派はそれを支持しているということです。だから本当の意味での「昔ながら」を主張することは保守派ではなく、伝統主義、懐古趣味と誹られても仕方がありません。

 頭にタオルを巻き、腕組みして客を出迎え、暗号のようなマシマシとかモリモリだか、バリバリ伝説に、胸焼けをするほうが悪いかと責め立てるような油分と、健康診断の問診において、医者は薦めないと断言できる塩分特盛りのラーメンを支持するものが多数派なら、それがこれからの日本のラーメンになるということです。十数年後には「昔ながらのラーメン」と呼ばれているかもしれません。それが日本です。

 ラーメンだけが特別ではありません。

 マグロの「トロ」は江戸時代、下卑た部位とされ、冷蔵技術未発達で、腐りやすかったことが理由とされますが、それに加えて、油っぽい食品になれていなかった日本人には「珍味」程度の扱いであったのは、昭和時代も同じです。トロなど何個もぱくつくものではなかったのです。

 回転寿司では、コストパフォーマンスからトロよりも人気とされるのが「サーモン」。それは油分からです。あっさりとした白身の旨味を理解できる日本人は減っています。

 アボカドもすっかり日常に馴染みました。ティラミスもカプチーノも同じく、昭和時代にはドリアだって珍しい食べ物でしたが、いまやサイゼリヤでワンコインも支払わずに食せます。

 油と塩、マシマシラーメンや、トロにサーモン、ドリアがすでに当たり前になった以上、「日本の味」の一部といって差し支えないでしょう。

 それが良いか悪いかは後世の人が判断すること。一方で過去が見直され、回帰することも多々あることで、納豆に味噌などを挙げるまでもなく、定期的に伝統(食材)への回帰が起こるのも、日本文化の特徴です。

 大きく変質するものもあれば、紆余曲折を経て元に戻るしなやかさも持つ。これが日本の「保守」と考えます。

 口悪く言えば、つかみ所が無く、ある一点の現象を持って「保守」と断じるのは難しいいい加減さを内包しているということです。

 日本人の性質から「保守」をこう定義すると見えてくるのが、パヨクやリベラル、そしてネトウヨの硬直的で排他的、教条主義な言動です。彼らの硬直した思考や言動は、リベラル(柔軟)な日本人の広い支持を得ることはないでしょう。

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