江川紹子の無惨な粘着的朝日新聞擁護

 やはり裁判なると萎縮するのでしょうか。植村隆元朝日新聞記者はもとより、170人の大弁護団に訴えられた当事者の「週刊文春」は本件に控えめに応じます。むしろライバル誌の「週刊新潮」のほうがノリノリ。

 内容は従前の焼き直しに過ぎませんが、それしか言いようがない、つまりは「言論には言論」を逸脱した狂気の裁判と。

 この裁判をジャーナリストの西村幸祐氏は「墓穴」とツイッターで指摘します。朝日新聞における「慰安=強制連行」の最終防衛ラインにするために、第三者委員会で問題が指摘されながらも、植村記事を「残した」はずが、裁判で事実関係を問われるなかで、捏造か否かはともかく、朝日新聞としての組織的関与が解明されるという期待なのでしょう。

 そしてもうひとつ、私は本裁判への期待があります。左翼陣営の「実力」が明らかになることです。

 提訴を発表した記者会見で、発言の機会を与えられた数少ない日本人の一人、江川紹子氏は、株式ニュースサイト「Sakura Financial News」にて「慰安婦と捏造」と題したコラムを発表します。

 植村隆氏との古くから知人であることを紹介した上で、

“どこに住んでいるのかも知らないまま30年近くが過ぎた。(同コラムより)”

 と関係性をさらっと否定します。

 これもおかしな話しで、昨年の「週刊文春」の8月6日号には、北海道支局にいたことと北星学園大学の非常勤講師になったことが記されているのですが、

「正確な住所という意味だ」

 と反論されれば「なにもいえねー」と古い流行語に頼りたくなるのでやめおきますが、そもそもの関係性で言えば、江川紹子氏は一連の誤報と捏造的報道が発覚した朝日新聞のから、信頼拡幅のための再生委員会の古市憲寿と共に雇われた人物。

 植村隆氏は「元記者」となっていますが、産経新聞の取材に「窓口は朝日新聞」と答えるように関係性はいまでも存在し、これは「部外者」をアピールするための一文でしょう。

 そしてこのコラムは「援護射撃」。それもまた「言論の自由」であり、言論での応援は多いに結構。ところがこれが左翼やリベラルの卑怯さというか、やり口というか性根です。

「私は中立公平」

 と装いながら、印象操作、誤認を誘うように都合の良い事実だけを並べます。

 植村隆氏の手法は「スラップ訴訟」と呼ばれる、恫喝により発言を萎縮させる、テロよりはマシでも言論人から見れば唾棄すべき手法です。これを江川紹子は擁護します。

“権力や金を持ち、発言の機会が充分ある人は、ぜひ「言論には言論で」やってもらいたい。(同)”

 という前段で正論を吐きながら、

“しかし、アルバイトで非常勤講師を務めるだけの植村氏に、そうした権力や財力はないだろう。(同)”

 とマッチポンプ。170人の弁護団とは、弁護士の初回相談料からの単純計算で、毎月2〜3億円レベルの「戦力」に相当します。1年続けば数十億円です。コラムでは、この事実には一切触れていません。

 事実関係を伝える上で、重要な事実を「割愛」するのは、植村隆氏の捏造と指弾される当該記事と似た「手法」です。そして植村隆氏には、本人が望むのなら発言の機会は沢山用意されており、産経新聞や「月刊 WiLL」なら喜んで紙面を割くことでしょうに。

 江川紹子氏は、植村隆氏の「ミス」をやはり、彼と同じく「当時はみんなやっていた」と責任を転嫁します。これまた朝日新聞的です。一心同体と錯覚するのは、私の乱視のせいでしょう。

 批判も「ミス」で押し切ります。「捏造」ではなく。ま、これは思想信条の自由ですが、問題はこの箇所。

“西岡氏が、史実を詳細に知りならば、そうした他の記録を見ればよい。植村氏の記事に詳しく書かれていなかったからといって、20数年後まで粘着し続ける意義が、私にはよく分からない。大の大人が、時間と手間とエネルギーをかけて取り組むべき課題なのだろうか…という疑問さえ湧いてくる。(同、原文ママ、つまりはコピペです)”

 西岡力教授は史実を知りたいのではなく、どうして捏造と受けとられても仕方がないほど杜撰な記事を書き、朝日新聞が掲載し、また、二十数年間も放置し続けたことを問題提起しているのです。

 また、この「捏造記事」については、かなり古くから指摘しており、「20数年後まで粘着」、ではなく「20数年間、無視しつづけた」ことに問題の本質があります。

 事件で言うなら「原因」で、江川章子が追い続けた「オウム真理教」でいうなら、連中の主張する「ポア」や「最終解脱」「空中浮遊」を嘘だと指摘し続けることを、「20数年後まで粘着」と、確かにオウム(現アレフ、あるいは光の輪)ならいうかも知れません。

 そして、大の大人だから追究しなければならないのが「慰安婦」です。日本が事実無根のフィクションを元に「性奴隷の国」と呼ばれて良いわけがありません。

 江川紹子氏のこのコラムは「我田引水」で、それはジャーナリストのひとつの表現方法ではあります。しかし、左翼陣営、リベラル派の「朝日擁護」は目に余るものがあり、まともな判断能力と記憶力を持つ日本人なら、「おかしい」と首をひねるレベル。

 少し「ネットで検索」すれば、なんらかの「関係性」を見つけるのは容易、ながら、底に触れず「公明正大、不偏不党」を装いながら、大所高所から「擁護論」を展開すれば、よほどのバカでなければ、異常さに気がつくというもの。

 植村隆氏の裁判が長引けば長引くほど「朝日的文化人」の思考回路が白日の下に晒される。そう思うだけでワクワクしてきます。

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