麻生太郎発言に見る子どもが産めない夫婦の定義の間違い

 太郎ちゃん、もとい麻生太郎氏が札幌市内の応援演説で、

「高齢者が悪いというようなイメージをつくっている人が多いが、子どもを産まないのが問題だ」

 との発言の「問題化」にどうやら成功したようです。いつものように全文を「読解」すれば、さしたる問題は見つからないのですが、言葉の一部を切り取り攻撃するのは、この国のメディアの醜悪さで、その腐臭漂う行いが繰り返されるのは、その切り取られた一部をもって全体を分かった気になる国民のリテラシーによります。

 必ずこの手の発言で引用されるのが

「体質的に子どもを産めない女性や恵まれない家族を傷つける」

 要約するとこんな感じの言葉です。

 コレに関しては「欠陥品」、あるいは「非国民」としても良いでしょう「子どもに恵まれなかった家庭」の不甲斐ない亭主ながらも許しがたい考え方だと抗議します。

 麻生太郎氏の発言ではありません。

 私たち夫婦は、子どものいるご家庭を羨んでみることはあっても、妬んだり嫉んだりすることはありません。そして可哀想でも多分ありません。

 人は人、我は我、されど仲良しです。

 子ども手当に縁がなく、高校受験のために甥と暮らしたときも、1円も受けとっていませんが、だからと国や制度を恨むことなどありません。

 何が言いたいかといえば、

「可哀想というひな形にいれるな」

 ということ。残念ではあっても、人生はすべてを入手できるわけではないことを分別のある大人なら知っています。そして子どもが増えることは良いことだとも知っています。その為の対策の必要性も重要で、クローン技術やiPS細胞でもSTAP細胞でもなんでも、コウノトリを餌付けする方法があるならチャレンジすることはやぶさかではありません。

 麻生太郎氏の発言は「少子化」として捉えるなら、何ひとつ間違ってはいません。

 先の「可哀想」というひな形にいれるから「問題」になるのです。

 また、「子どもを産まない自由」を否定するものではありません。しかし、この主張こそ「少子化」を考える上での「問題」になるのです。

 問題には解答を求める問いという意味もあります。子どもを産まない自由を求める理由を突き止めることで、考えが転じさせるヒントが見つかるのであれば、適切な「問題設定」といえます。

 少子化対策の議論が深まらない理由は、政策にはある種の強制性が伴うものなのに、出産・育児となると、権利と自由により抗戦し、一方で援助だけを求める、平たく言えば

「金は出せ、口は出すな」

 という姿勢が鮮明だからです。

 そもそも「問題」にするなら、麻生太郎氏の

「高齢者擁護」

 です。つまり「票」になる高齢者を優遇する政策、すなわち増え続ける社会保障費は、見直しの転換点にあるはずなのに、その温存を呼びかけているのですから。

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