五野井郁夫を雇う高千穂大学の見識を疑います。というか、五野井郁夫を准教授に任じている時点で、そういう大学なのだということでしょう。
犬に「サノバビッチ」といっても無駄です。言葉を介さないのではなく「Son of a bitch」のビッチとは「雌犬」の意味だからです。スラングを脇に置けば、
「メス犬の子供」
と罵ったつもりでも、彼ら犬族が人間語をもって反論するなら
「女の子供」
と我々に反論することでしょう。だから五野井郁夫に「卑怯者」といっても無駄なのだろうと嘆息。そしてこんな卑怯者が日本人でいることに、某かの意味を見いだそうと頭をひねると、2つ見つかりました。わたしには「いいとこメガネ」が内蔵されているようです。
五野井郁夫の意味とは「表現の自由」が守られている証明としてがひとつ。もうひとつが
「朝日新聞は変わらない」
ということの証人。だから一度、廃刊しない限り、同じ過ちを数限りなく繰り返すことでしょう。
卑怯であることについては以前指摘したので割愛しますが、今回、目についた記事はこちら。
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報道の自由と民主主義を守る(上)――強まる政治の圧力
2014年10月06日
WEBRONZA+政治・国際 – WEBマガジン –
朝日新聞社 http://goo.gl/a9tsC2
”
記事を1行に要約するとこうなります。
“産経のバーカ、朝日新聞がんばれ!”
韓国の言論統制をマクラに、産経新聞への私怨をぶつけ、安倍首相を中傷しつつ、朝日新聞を擁護する論法は、8月5日の朝日新聞の慰安婦報道の検証記事と題した言い訳の羅列によく似ています。
バカは馬鹿なりに、卑怯者は卑怯者でも、五野井郁夫は五野井郁夫流に何を述べようが自由であるのが我が国です。この記事も「ふーん」とやり過ごす予定でした。しかし、物書きの端くれとして見逃せない一文を発見します。当該箇所を引用します。
“
筆者は、日本の極右とネオナチの関係を踏まえて、日本の「右傾化」について朝日新聞にコメントしたさい、産経新聞の「産経抄」や月刊誌『正論』から、印象論だけで批判をされ、産経新聞販売局の社員から嫌がらせを受けたこともある。
”
聞き捨てなりません。産経抄や正論での「批判」は、正当な言論活動です。意見を述べるものなら、一定程度甘受すべきでしょう。ところが「社員による嫌がらせ」とは聞き捨てなりません。そこで産経新聞の愛読者として「紙面・記事へのご意見・ご質問」のコーナーに電凸します。
電話の向こうの担当者の横柄な態度が気になります。きっといつもクレームを受けているのでしょう。愛読者ながら腹が立つ応対です。ただし、片手で数えて丁度ぐらいは、産経新聞の「記者」の知り合いがいます。年がら年中攻撃されている事情も耳にはしています。そこで丹念に事実確認を求めました。
次第に冷やかしでないとわかったのか、当該記事をネット上で確認しての回答はこうです。
「一切聞いたことがない」
あったか、ないかも分からない。とはさすがに新聞記者。産経新聞社本体ならば、ある程度の状況は掴んでいるでしょうし、少なくとも五野井郁夫からの抗議はなかったということと解釈できます。だから「聞いたことがない」。そして新聞を配達する「配達員」の多くは、「新聞販売所」のスタッフで、それは別経営です。
産経新聞を配達しているから、産経新聞社員ではなく、記事を取り消し集中砲火を浴びた朝日新聞の配達員も、地元の中小・零細企業のスタッフでまったくの別経営で、彼らにイヤミや文句をいうのは筋違いです。そこと、五野井郁夫との間に何かがあったとして、それは産経新聞社としてはいかんともしがたいのです。もちろん、刑事事件などになれば、道義的責任から謝罪を求められることになるのでしょうが。
応対した産経新聞社員も「何をもって社員としているのかが分からない」と困ります。また「嫌がらせ」もなにをされたのかが分からないと。そして最後は「販売局にあげる」と言っており、某かの調査進展を期待したいところです。
そして仮に五野井郁夫の主張が正しく、産経新聞の社員が、言論に対して某かの「いやがらせ」をし、それが社会通念上「いやがらせ」に該当するものであるなら、関係者の厳重なる処罰の前に、紙面を大きく割き「検証記事と謝罪記事」の掲載を望みます。
しかし、筆者=五野井郁夫は事実関係を明らかにしていません。ネット媒体とはいえ、字数制限から事実の指摘を省略することは多々ありますが、全体的に「引用」の多い論考のなかで、この批判と嫌がらせへの具体的な事例紹介がないのはなぜでしょう。
そこで「筆者のコメント」とやらを調べてみます。類するコメントはこれ。
「アンネの日記破損事件」
で、事件の背景に「右傾化がある」と断じたものです。結論を述べれば、犯人は捕まったものの、なんらかの障害がある犯人ということで、事件の詳細は明らかにされていますが、「思想・信条」が背景にあるとは断定されていない、というより、違うでしょう。
■アンネの志は破れない 高まる批判、本の寄贈も続々
2014年2月28日09時18分 朝日新聞 http://t.asahi.com/e3mm
そして五野井郁夫は「印象論だけで批判」とありますが、当のコメントとやらは「空気」で語っているので、むしろ印象論でしか批判できないというより、産経抄のコラムは「五野井郁夫への嘲笑」と解釈すべきでしょう。
これに腹を据えかねていたのか、次の段落で産経をこう攻撃します。
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近頃になって自民閣僚と、ホロコーストも慰安婦の存在もなかったことにしたい日本のネオナチ崇拝者や在日特権を許さない市民の会(在特会)との関係が大々的に表面化しても、まだ産経新聞社側から筆者への謝罪はない。
”
五野井郁夫の現状認識能力は「個性」としても、彼が大学で准教授を務める日本社会に不安になります。そのまま高千穂大学への不安です。
自民党閣僚とは山谷えり子で、その「大々的に表面化」した関係とは、記念写真を撮っていたことです。野田国義(民主党)参院議員が「ねんごろ」と、飛ばした「セクハラヤジ」が事実なら、「表面化」として遠くないでしょう。
記念写真を「関係」、問題化された「セクハラヤジ」を「大々的」、国会での質疑応答を「表面化」置き換えただけのことであり、針小棒大を通り越して捏造に近い過剰演出です。
その「関係」程度で、自民党の閣僚を意のままに操れるなら、行列ができるラーメン屋や、松阪牛のメンチカツ屋は芸能界を牛耳れることでしょう。人前に出る職業の人が、親しく近づいてくるものに、記念写真を頼まれて断ることは希です。
そもそも論でいえば、極右と記念写真をとったものが閣僚になったから、日本の右傾化が始まったわけではありませんし、そもそも右傾化などしていません。
にも関わらず「謝罪がない」と、暗に謝罪を要求するなど、厚顔無恥というより、被害妄想のレベルでしょう。ならば、アンネの日記を破損した犯人が逮捕され、思想犯ではないと分かったとき、五野井郁夫は読者に謝罪をしたのでしょうか。コメントを訂正したのでしょうか。自分は見逃され、他人は屁理屈にもならない援用をもち攻撃する。卑怯を通り越したクレーマーです。
五野井郁夫の私怨を晴らすためだけのこのくだり、「原典」を紹介する「リンク」はありません。次から安倍政権の批判に映るのですが、すると「リンク張りまくり」。卑怯だよね。卑怯は論理を超越する一例を、少々長いのですが紹介します。
“ 9月11日に安倍晋三総理はニッポン放送の番組内で朝日新聞の報道について「個別の報道機関の報道内容の是非についてはコメントすべきではないが、例えば、慰安婦問題の誤報で多くの人が苦しみ、国際社会で日本の名誉が傷つけられたことは事実といってもいい」と述べた。
「コメントすべきではない」と前置きしつつも、個別の報道機関の報道内容の是非について「日本の名誉」に絡めて一国の政治指導者がコメントするというのは、軽はずみの発言ではなく、知っていてあえて「報道の自由」の原則を逸脱してみせているとしか思えない。
”
朝日新聞を擁護するためなのでしょうが、一国の総理だから「日本の名誉」に言及するのは当然でしょうに。そして五野井郁夫は
「個別の報道機関の報道内容の是非」
としていますが、事実誤認でなければ捏造。百歩譲っても論理のすり替えです。
「朝日新聞の捏造の疑いが濃い誤報と、30年にわたる記事の放置」
だからです。放置に至っては「確信犯」です。
「報道機関」というボンヤリしたものではなく朝日新聞。例えるなら逮捕前の「窃盗団」ではなく、容疑者の名前が特定されている状態だということです。そして「是非」ではなく「誤報」で、これは朝日新聞も認めていることです。「是非」とは半分正しいかも知れない状態です。厚かましい。
ことほど左様に都合の良い箇所は引用し、不都合はぼかし、単語をすり替え、論理を入れ替えていきます。
だからと五野井郁夫に「黙れ」とはいいません。それは彼にも「言論の自由」が保証されている日本国だからです。問題は、捏造、偽造が次々と発覚するなか、ネット媒体とは言え、こうした原稿をそのまま公開している朝日新聞にあります。
つまり、反省していないということです。五野井郁夫のような「代弁者」を使っているところに「俺たちは間違っていない」というメッセージが込められているようです。