新聞週間が昨日で終わりました・・・か? 一般社団法人日本新聞協会のホームページによれば、平成26年10月15日(水)から一週間とあるので、昨日までかなぁと。
図書週間とならんで、尻つぼみなイベントです。一般的なイベントなら最終日を「グランドフィナーレ」に設定して、有終の美を飾るものですが、期日を絞り込むと、他の新聞との「ガチンコ」の企画合戦になることを、本能的に避けているのかもしれません。
例えばいまなら「朝日虚報問題を・・・」は、武士の情けで見送るとしても、
「新聞図書への軽減税率」
をテーマに、各紙かならず4ページを割いて「特集記事」を書くことで、多様な情報源の必要性、各紙の視点・取材力など浮き彫りになるのですが。
底辺には「護送船団方式」という意識があるのかもしれません。だとしたら、いずれにせよ新聞は滅び行くメディアでしょう。
護送船団とて永遠ではないからです。なにより、船団のそれぞれは利益を奪い合うライバルですから、互いに舳先をぶつけ合い、櫂を剣に見立てて殴り合い、疲弊していきます。やがて規模の小さな船は沈没し、その積み荷(読者)をまわりの船が引き上げたとしても一時凌ぎに過ぎず、昨日の勝者は明日の敗北を待つ身となり、やがて船団があったという記録だけが博物館に飾られることでしょう。
それぞれの船がめいめい情報という大海原に漕ぎ出しているなら、まだ見ぬ知らぬ新天地に辿り着く可能性も生まれるのですが、皆で同じ方向を目指す限り、希に見つけるオアシスも、パイの奪い合いで取り分を減らします。
また、護送船団は既得権と錯覚しやすいのは、安全圏にいたいと思う本能の仕事で、それはデッドボールの心配がいらない観客におけるヤジと同じで、言葉は過激になっても、第三者の共感を得ることは困難です。
ファンは空振りしてもリスクを背負う選手にこそ応援を贈るからです。もちろん、すべての記事をそうだと、在特会における在日朝鮮人への評価や、橋下徹大阪市長の在特会への認識のような、視野狭窄したことはいいませんが、構造的に袋小路に突き進んでいるのが、今の新聞業界です。
余談というより核心ですが、いまの新聞業界を支えているのは、各町内にある「販売所」であり、記事の力ではありません。
構造的な問題だけなら、幾分の救いを見つけることもできるでしょう。俗に言う「構造改革」が打開策となるからです。しかし、新聞の終焉は紙面そのものからも伝わってきます。
ものの哀れを感じる日本人として切なくなるのは、新聞という商品はその紙面に劣化も記されており、いわば毎日「自爆」しつづけているからです。
朝日新聞の捏造にも似た誤報は論外として、同時に朝日新聞を批判する声にあった「新聞とは」という建前論はこうです。
「新聞報道はファクト(事実)の積み重ね」
表現の違いを乱暴にひとまとめにすれば、取材により事実を積み重ねることの重要性を訴えるというもので、私も異論はありません。
異論があるのは、果たして現在の新聞がこうなっているかということ。理想と現実のギャップです。
ギャップを端的に表すのが「専門家」です。いつの頃からか、事件が起きるたびに「専門家」のコメントが紙面を埋めるようになりました。例えば私も意見を寄せたことがある産経新聞の「金曜討論」のように、意見が対立する専門家や有識者の意見を並べて報じるのなら、多様な意見(価値観)を提供するという新聞の使命を果たすことでしょう。
しかし、日時は失念しましたが、世間がまだ「民主党という幻想」に酔っていた頃、総選挙を前に漫画家の倉田真由美に、どちらに票を投じるかと訊ねたのは、確か読売新聞だったでしょうか。
そして彼女の政権選択理由は「勘」。倉田真由美のドヤ顔が浮かんでくる発言です。
仮に一般市民が「勘」と答え、それを掲載するのは新聞の役割として認めても良いでしょう。勘に頼るしかないほど、明確な選択基準が示されていないという政治批判の一種になるからです。しかし肩書き付きで「有識者」に並べた結論が「勘」なら、むしろボツにすべき意見でしょう。
読者はバカばかりではありません。こうした積み重ね、すなわち信頼に足りない情報の提供=自爆こそが、新聞不振の遠因になっていることは、私自身の体験からで、朝日新聞の購読をやめた理由なのですが、今回は割愛。
そもそも「専門家」の声は、発言したという「ファクト(事実)」はあっても、発言そのものの信憑性を担保するものではありません。大学教授や、研究者、その道の達人など、経歴が発言を裏打ちすることもありますが、必ずしも発言のすべてを保証するものでもなければ、経歴から発言の信憑性に疑問符が付く有識者もあります。
例えば自然科学系の研究者が、その専門分野について語るなら、誰を人選しても大きく答えが異なることはないでしょう。また、事件において多くの当事者や関係者の話しを集めることは、不確かな事実を浮かび上がらせるスポットライトの役割を果たします。
特に事件現場には、利益に直結する当事者はもちろん、無関係のやじうま達のなかには、客観的な状況を知り得るものがいる可能性が高いからです。
しかし、「専門家」は野次馬ではありません。むしろ「利益関係者」です。それはSTAP細胞の有無について、小保方晴子博士に尋ねるほどにです。
ましてやIT系となると、それぞれの立場からのバイアスが強く、端的に言えば己の利益を守るための「ポジショントーク」に走ります。明らかな利益誘導もあれば、「芸風」でもあり、「芸風」は過去の発言を精査すれば自ずと明らかになるのですが、いまの新聞には芸風のチェック能力すらなくなっています。
自らが人選した「専門家」の発言をチェックしないということは、「慰安婦狩り」を捏造し発言した吉田清治氏を鵜呑みにして疑いもしなかった朝日新聞と同じです。新聞を信用しなくなる理由で、信用できない情報媒体なら、ネットで充分で、こちらは無料です。
ファクトをもって示します。
吉田証言を虚偽とし、記事を削除した朝日新聞への批判記事を書いた、池上彰氏のコラムを「掲載拒否」した騒動は記憶に新しい所です。
掲載拒否の一報は「週刊文春」のWeb版で速報として流されます。それを知った朝日新聞の記者が、社への批判をTwitter上で述べました。この一事を捉えて、いつのまにかITジャーナリストから「IT」がなくなっていたジャーナリスト 津田大介氏は
“現場記者がソーシャルメディアを使って声をあげることで組織ジャーナリズムのあり方が変わる可能性を示したという意味で重要な教訓を残した。”
と毎日新聞にコメントを寄せます。
毎日新聞の取材も受けたことがあり、特に昨年の「ネット選挙」を追い掛けていた記者は、執拗に「ファクト」を追い掛け、こちらが祝日にのんびりしていても、なんども携帯電話で確認してきました。正直、面倒だとも思いましたが、ひとつずつ「ファクト」を積み上げていく姿勢に、協力を惜しむ気持ちはかき消されました。
ところが津田大介氏の言葉は、彼の私見に過ぎません。むしろ時系列にファクトを並べてみれば、「週刊文春」というファクトをもとにした後追いであり、むしろ直接読者と接点のできるTwitter上における、記者の自己保身とみるべきでしょう。
仮に朝日新聞本社が、記事を訂正もせず、謝罪もする前に、
「吉田清治の証言は嘘だ」
と朝日新聞の現役記者がTwitterで発言し、あるいはFacebookで検証記事を掲載したことにより、朝日新聞が謝罪に転じたのなら、
“ジャーナリズムのあり方が変わる”
としても過言ではありませんが、公然の事実への発言は「つぶやき」の枠を越えることはない、ただのTwitterです。
津田大介氏の「私見」は表現の自由です。しかし、彼の著作を当たれば、アラブの春を礼賛し、ネット選挙解禁による夢を語っています。
そもそも世間の注目を集めたのは、Twitterを利用した実況中継「Tsudaる」であって、出世作は『Twitter社会論』です。彼がTwitterに特別な感情を持っていたとして不思議ではなく、しかしそれは一般論にもなりえなければ、専門家の見識と紹介するのは、オカルトに造詣の深い「たま出版」の韮澤潤一郎社長が語る宇宙人論を、注釈をつけずに記事にするのに似ています。
夢を語るのは自由ですし、経済活動を否定はしません。しかし、そのお先棒を担ぐのは新聞が担う社会的責任ではありません。但し、日経新聞と東京スポーツを除けば。
最大部数を誇る読売新聞とて大差はありません。
社会学者の鈴木謙介関西学院大学社会学部准教授は、日本における「バイラルメディア」にパクリ(情報窃盗)が散見する理由を、ネットメディアの低収益性にあると喝破します(読売新聞9月29日 Web空間より)。
貧乏人は泥棒をするという主張です。
IT界の巨匠、佐々木俊尚氏の編集長を務めるバイラルメディア(サイト)が、海外記事の無断転載を指摘された理由を、こう擁護しているのです。「貧乏人は泥棒をする」という鈴木謙介氏の価値観を読売新聞は支持するというのでしょうか。
在特会におけるヘイトスピーチと同じです。十把一絡げの暴論以外の何物でもなく、低収益をやりくりして記事を書き続けているサイトもあれば、積極的にスポンサー確保に動いているブログもあります。
収益の低さは佐々木俊尚氏の「経営手腕」によるところが大きいというのは、一般社会の常識ですが、「学者に変人が多い」という偏見を鵜呑みにしたとして、また表現の自由と苦虫を噛みしめたとしても、鈴木謙介関西大学准教授の、見識をそのまま掲載する読売新聞にも社会常識が欠落していると、貧乏売文稼業の私が断罪します。
つづけても読売新聞。書評を委ねるこれまた「社会学者」で、福島大特任研究員の開沼博氏は、ソーシャルメディアを礼賛する書籍の紹介で、
“ハロウィン商戦の盛り上がりは市場規模1000億円超となり、ホワイトデー(約640億円)を抜き、バレンタインデー(約1300億円)に迫りつつあるという”
として、
“このまま行くと、クリスマス・正月すら凌駕するのでは……。
(読売新聞10月12日)”
と煽ります。
まず気になったのは、「データの出典」が記されていないことです。書籍からの引用なら、それを明記するものです。別のデータや古典をもって、本の主張を補強することは、書評ではよくあることですが、両者の区別はなされなければならず、特に「学者」を名乗るのもの原稿ならば、データの出典はとても大切だと思うのですが、最終的な編集権は、池上彰氏のコラムにおいて、朝日新聞が証明したように新聞社にあり、この原稿を掲載した読売新聞の校閲基準は、引用元の明記を不用とするのでしょう。当然ですが誤報の温床となります。
また、書籍にあったデータとしても、いずれはクリスマスや正月も凌駕するほどの「社会行事」ならば、「社会学者」としてその根拠、論拠について開沼博氏は、気にならなかったのでしょうか。
町外れの物書きながら「データ」の大切さは理解しています。そこで調べてみると「一般社団法人 日本記念日協会」の調べで、どうやら大メディアでコレを報じたのは、一年前の毎日新聞ですが、その毎日新聞の記事にすら「データの根拠」が示されていません。
そこで協会に問い合わせます。
「一般的な調査とは対象範囲が異なり、大きい数字がでる傾向がある」
と誠実な回答がありました。要約していますが、原文はもっと丁寧な説明があり、ただしその対象や範囲は非公開とのことです。
赤点ギリギリで高校を卒業し、プログラマーとなり将来を嘱望されながらもフリーターに身を転じるほど、人生の損得計算ができない頭の悪い物書きの私の解釈が間違えていたらすいません。
しかし、私はこう考えるのです。
「モノサシが違う」
センチメートルとインチでは答えが異なり、「学生調査」とあっても、対象が小学生と大学生ではランドセルへの意識が違ってきますし、「妖怪ウォッチ」の認知度も同じです。
統計学を持ち出すまでもなく、比較の基本は「分母」を揃えることです。だからこそ、主張の正当性を評価する上で、データの出典は重要となる・・・と、かつては「常識」だったはずを繰り返し述べることに、いま虚しさを見つけています。
出典を示さないことにおいて、特筆すべきはやはりというか「朝日新聞」がやってきます。
五野井郁夫とは、たびたび紹介する卑怯者で、高千穂大学経営学部准教授とウィキペディア情報。
朝日新聞が主催する「WEBRONZA」というサイトに以下の記事を寄せます。
“
報道の自由と民主主義を守る(上)――強まる政治の圧力
2014年10月06日
WEBRONZA+政治・国際 – WEBマガジン –
朝日新聞社 http://goo.gl/a9tsC2
”
そこで見逃せない記述を発見します。
“
筆者は、日本の極右とネオナチの関係を踏まえて、日本の「右傾化」について朝日新聞にコメントしたさい、産経新聞の「産経抄」や月刊誌『正論』から、印象論だけで批判をされ、産経新聞販売局の社員から嫌がらせを受けたこともある。
”
これが事実なら産経新聞は、言論の自由に対して、某かの攻撃を仕掛けたことになります。
ただし、具体的な被害状況が記されていなければ、販売局の社員の名前もありません。詳しくはブログに書きましたが、産経新聞の広報担当部署では状況を把握していないといいます。
それこそ朝日新聞の記者に「チクリ」をすれば、喜んで産経への批判というか反論というか、攻撃を開始するだろうにもったいない限りです。
言論に対する攻撃を、朝日新聞が放置しているなら、それは大問題でアリ、事実確認もせずに誹謗に当たる記事を公開し続けるとしても、見識も疑われますが、朝日新聞なので仕方がないのかも知れません。
その産経新聞とて「専門家」への無責任は変わりません。
加藤達也前ソウル支局長を巡る韓国の対応へ、「識者」を日替わりで登場させ、コメントを述べさせている記事で、ある日は
「春香・クリスティーン」
に語らせます。政治好きで柿沢未途が好きという趣味はともかく、ジャーナリストでもなければ報道にも関わっていません。靖国参拝をヒトラーの墓参に重ねる見識は、本件において関係ないとは言え、訪ねる相手を間違えているのは明らかです。
政治と表現の自由は、隣接していますが別のもので、両者を混同するなら、靖国とヒトラーの墓参を結びつける発想は、韓国当局にこそ近い思考回路ですから、ならばその視点からの意見を求めるべきだったでしょう。
人選の(不)確かさなら、やはり朝日新聞にもどらざるを得ません。
一連の不祥事から
「信頼回復と再生のための委員会」
を立ち上げました。その中に、まだ博士課程に学ぶ学生でありながら「社会学者」を名乗る、古市憲寿氏がいます。
この人選で朝日新聞の「本気度」がわかります。
彼のトンチキぶりはつとに有名で、古市憲寿氏がテレビに出演すると
「古市憲寿 バカ」
で拙ブログへのアクセスが急増します。
日経新聞系列の「BizCOLLEGE <日経BPnet>」に2012年4月13日付で掲載されている記事を引用するだけで、古市憲寿がどういう人物で、朝日新聞の見識とやらの底が見えることでしょう。
“
(質問者)石田衣良さんからは「新聞を読め」と。1年間毎日2時間。読んでますか?
(古市憲寿)読んでないです。必要な記事をあとから参照することはありますけど。だって、新聞って紙で来る。毎朝ゴミが送られてくるってことじゃないですか。
※括弧など筆者
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20120412/305443/
”
作家の石田衣良氏が登場するのは、このインタビューは連載記事で、筆者のライターが取材した際、新聞を読んでいないと発言し、
“(石田衣良)じゃあ、日経と朝日を取って、隅々まで1時間半から2時間は読みな。アイスランドの国債とか分からねーよ、とかでもいいから。それを1年続けてから、インタビューに行くと少し変わると思うな。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20110119/257606/?P=4
”
と指摘したことを受けての発言。
しれっと「朝日」がはいるところに、石田衣良氏の個性がちらりズムになるわけですが、古市憲寿はこれにたいして
“石田さんは冗談で「新聞を読め」って言ったんじゃないですか? だって石田衣良さんの小説って新聞を頼りに書いていないと思う。”
と開陳します。新聞に書いていることをなぞるのが小説と思っている古市憲寿にかける言葉がありませんが、新聞を「ゴミ」と呼ぶ人間に朝日新聞は「信頼と回復」を依頼するのですから、ギャグとしても笑えません。
古市憲寿に習い、他人の意見を忖度するなら、きっと再生を果たした朝日新聞の一面には
「これは可燃物、あるいは資源ゴミです。お住まいの自治体のルールに従って適切に処理してください」
と記されていることでしょう。
古市憲寿のように「ゴミ」とはいいません。私はストックしてちり紙交換に出しており、その点からの資産価値は認めています。
しかし、残念ながら肝心の紙面における情報価値は劣化を続けています。それは自らを「ゴミ」と罵るバカを、有識者に据える朝日新聞に象徴されます。