貧困は選択肢のひとつ

いよいよ明日から天下分け目の参議院選挙・・・といっても、自民党がどこまで議席を確保するかが焦点となっており、ねじれが解消されれば、衆院の残り任期と次の参院選挙までの3年間は選挙がないと見られており、大胆な政策も実現できると騒がれています。

そこから憲法改正議論にも繋がるわけですが、真正保守ならば改正前に解散総選挙をするのではないかと睨んでいます。学術的な定義はともかく、日本における「保守」は卑怯を憎む心にあるからです。その反対に正々堂々を目指すのなら、憲法改正を掲げて信を問うのではないかと。

もっとも、最近の保守から自称右翼まで含めて、思想や信条で社会を塗り替えることだけを目的とした、革命的保守(造語)という矛盾を孕んだ主張を散見するのですが。

と、ここから政治の話しに流れるのが自然ですが、拙著の関係で選挙のことばかりネタにしていたので、今回は「貧困の固定化」について。

またぞろ「最低賃金」を上げろという声が上がっています。度々触れていますが、最低賃金制度が貧困の固定化につながっていると指摘する声はありません。

大人気の朝の連続テレビ小説「あまちゃん」。BS、本放送、昼の放送と毎日3回見ております。脚本家の宮藤官九郎氏と同学年にあたるためか、世代的に共通するところがあり、また、宮藤(念のため、くどう)氏は斉藤由貴のファンだったと公言しており、これまた重なります。当時の主流派は菊池・・・と、これは先週、別のメルマガの非公開版でだらだらと語ったので割愛します。大したことではありません。1985〜86年当時のアイドルと斉藤由貴の関係について、本当にだらだらと書いただけですから。

その「あまちゃん」。小泉今日子演じる主人公の母親は、かつてアイドルを目指し上京し、原宿の竹下通りを1本入った場所にあった喫茶店でアルバイトをしたときの時給が550円。時代設定は昭和60年=1985年です。

同時期、今は亡き『すかいらーく(店舗は全てガストへ)』の足立区での高校生アルバイトの時給は490円でした。わたしが1986年から同店でアルバイトをはじめたときは510円。翌年の4月は530円。その後は1年間ではなく適時見直され、88年当時うろ覚えですが580円ぐらいだったような。バブルへ向かい、技能習得のレベルより、時給の上昇が加速していったのです。

つまり「時給がエレベーター式に上がった時代」です。

お上が最低時給を決めるまえに、市場原理で時給が上がっていったのです。高卒で就職したソフトハウスでも同じことが起こりました。就職から1年後、募集要項に掲載された後輩の給料の方が高くなっているのです。

実際には「手当」という形で調整されましたが、規定の額面上では後輩の方が給料が高く、さらにその翌年、2年間専門学校に通ってはいってきた新卒の給料が、高卒入社で経験2年のわたしを追い越す勢いです。

「これが学歴社会か」

と怒りに震えるのは、大卒の給料を見てからですが、端的に言って専門学校をでた小僧など使い物になりません。生半可にプログラムと業界の噂を聞きかじっており、講師に変なクセをつけられているものもいて、いっそ何も知らない素人がマシであるのは、現場の誰もが思うところで、結局これも「手当」と「賞与」で調整されるのですが、約四半世紀前の「珍事」です。

我が国は学歴社会ですから、勤続年数より学歴で給料が決まります。それが社会の仕組みです。学歴のないものは人に非ず。社会のゴミやくず、とまではいいませんが、そのように扱われる世界があるのは事実です。

しかし、珍事のバブル期、わたしの給料が調整されたのはソフトハウスで、プログラムを組む技術職だったからです。ご存じでしたか? コンピュータは学歴では動かないのです。高卒のわたしが知らないだけかもしれませんが、東京大学の一般教養に「C言語」ははいっていなかったはずです。

イヤミが過ぎますね。技術系の職種は「腕」が最初に評価されるポイントということです。会社としては確率論として、優秀であろうと考えられる学歴を重視しますが、採用後の働きぶりを見て、必要と思う人材にはそれなりの給料を支払うからです。成績が数字に現れる「営業マン」も同じです。

最低賃金の上昇により「歪み」が生まれているというのは、この視点に立つからです。

東京都の最低時給は現在850円です。時給に見合わない能力しか無いものは実在します。彼らを時給550円で雇うことは法に触れます。しかし、仮に550円で雇い、働くなかでスキルを磨き、850円に見合う、あるいは1000円級の働きに成長する可能性を最低時給が奪っているのです。

そもそも最低時給とは「社会主義」的な発想です。職業選択の自由や、転居の自由が認められている日本においてナンセンスです。高い時給を求めるなら、高い時給を支払う地域に転居すれば良いだけのことです。生まれ育った村に住みたい。でも、時給は都会のど真ん中と同じにしてケロ。これを一般的にはわがままといいます。それではみんな都会にでて、地方は過疎化する、しているのは自由経済で資本主義社会の一面です。しかし、これは教育も含めた別の視点が必要で今回は割愛します。

「最低時給がなくなれば労働者が搾取されるだけだ」

とは蟹工船の時代の発想に過ぎないことは、先の「珍事」が証明しています。いまと当時じゃ時代が違う。もちろん、その通り。ならばどうして「あまちゃん」におけるキョンキョンが時給550円で、いまの東京が850円と高いのでしょうか。デフレでしょ? 不景気でしょ? アベノミクスの実感は遠いのでしょ? なのに時給は下がりません。ここに歪みが生まれ、貧困の固定化へとつながっているのです。

極論を言いましょう。

時給100円の時代でも時給1000円貰う人はいたのです。そして110円を目指し研鑽するものがいれば、100円を甘受するものもいて、しかし110円が150円となり同僚が200円を貰うようになるのを横目で見て、100円が110円を目指し始めたのです。

平易な言葉でこれを「頑張る」といいます。

ところが最低賃金が固定化されると、使える人材と使えない人材と篩にかけられ、時給550円なら使えても、850円は支払えない能力の人間は、技術を取得する機会を奪われているのです。

子どもの貧困率を問題化しようとNHKはプロパガンダを繰り返しています。さすがに「子ども手当」が支給される昨今、これだけではネタが弱いとみたのか、最近は「女性の貧困」も絡めた合わせ技を仕掛けてきています。

要約すれば

「母子家庭の貧困」

です。働いても生活保護かそれ以下しか稼げない。主張はこれに集約されます。病気などは特殊事例で、一般論に適さないからです。そして男女間の待遇差別につなげます。目指すところは社会主義です。

プログラマとして勤めた会社で、給料の男女差はありませんでした。性差はプログラムに影響しないからです。男性プログラムは暴走し、女性プログラムはイケメンに優しいという報告はありません。もちろん、女性に論理的な思考はできないなどということありません。だから、給料は同じです。

プログラマだけではありません。理容師、美容師も男女差の少ない職場で、平たく言えば

「手に職」

です。※理美容の世界ではその変わりにセクハラやパワハラが多いとは理髪師の免許を持つ妻からの指摘がありましたが、本旨から逸れるので割愛。

最近では土木や建築、トラックドライバーといったいわゆる「ガテン系」でも、男女差が減ってきているのはテクノロジーの進化に依ります。30年以上前は、4トントラックに6トン近くの荷物を、手摘み手下ろしすることもあり、体力的に女性には難しい職場でしたが、パレット積みで、フォークリフトを使えば男女はありません。トラックでもパワステ、エアコン完備はもちろん、オートマも珍しくありません。荷下ろしの順番待ちの暇つぶしにはスマホもあります。建築現場でも電動工具が一般化し、腕力の出番は減少しています。

女性が進出しにくい社会が間違っている。この主張はよく耳にします。しかし、建築現場では女性でも外国人でも、真面目に働くものなら大歓迎します。むしろ、若い男の方が、すぐに逃げ出すからダメだという建築会社社長も実在します。ドライバーもしかりです。シングルマザーの方が、真面目に休まず働くという話しもあります。

つまり女性が活躍できる環境は増えているのです。

にもかかわらず、女性の貧困さんがいらっしゃい状態。

これを論じるNHKを筆頭とした連中は、

「手に職」

という視点がありません。そこから、学歴社会を嘆くふりする高学歴の連中が、女性の貧困を嘆くことで、良いことをしている気分を味わっているだけではないかと推測するのです。そして貧困が固定化されていきます。

現実的に中卒や高卒は社会的弱者です。大企業やマスコミから差別されています。就職試験すら受けさせて貰えません。そんなゴミくずのようなものが、喰っていくには「手に職」が一番確実な身分保障なのです。貧困から身を守る、自衛手段と言って良いでしょう。

女性が弱者という「発想」は保守的思想を持つものとして頷きます。しかし、弱者はすべてに優先しません。すべてとはいいませんが、絶賛貧困中の女性への取材で、聞こえてくるとイラッとするのがこの台詞です。

「なんの取り柄もなくて」

取り柄がないものに、高給を払う経営者はいません。

かつては言えたのに、いまは「言えないこと」となっているのがこれ。

「結婚という名の永久就職」

取り柄がなくても就職できると、かつては好意的に使われていたこの慣用句もいまや否定的にとらえれています。

旦那が横暴という主婦の声を耳にします。しかし、横暴な社長など掃いて捨てるほどいるので、会社員と大差はありません。むしろ、早出残業、休日出社まである会社員より、日中は旦那がいない専業主婦という職種の方が、気が休まるという見方もできます。まして、いまや些細なことでもDVと叫び、夫婦間でもセクハラが成立するのです。そもそも現実を見れば、旦那を尻に敷いている嫁など掃いて捨ててしまいたいほどいるのは余談。

「主婦であり続ける才能」は立派な能力のうちです。「主婦になる」のは一時的な合意と、紙切れ一枚で可能ですが、「あり続ける」には才能が求められます。専業主婦の場合、ここから降りることが「離婚」です。

なんの取り柄もないなら、なにかを我慢するしかありません。人生は幼稚園の砂場ではないのです。オモチャを公平に使うようにジャッジメントしてくれる先生は存在しません。弱者には弱者の生き方があるのです。

弱者の生き方とは我慢。ひたすらの我慢です。理不尽な旦那に従うのも我慢。あるいは離婚し収入が減り、生活が苦しくなっても得られた自由がかけがえのないものならば、貧困は甘受しなければならない我慢です。そして少しだけでも贅沢を望むなら「手に職」です。もちろん、手に職をつけるための努力には「我慢」の要素が満載です。

女性の貧困を放置せよと言っているのではありません。
バカ旦那に従い続けなさいと言っているのでもありません。

ただ、貧困は選択肢のひとつだということです。

同時に、貧困を続けるのか、止めるのかも選択できます。その為には自分が弱者であることを自覚すること。そして貧困を止めたいのならこう考えるのです。

「いまの時給に見合った仕事をしているか」

最低時給の存在が、本当の自分の価値と直面する機会を奪っています。つまり、最低時給のような発想が、弱者に弱者であることを気づかせず、貧困を固定化させているのです。

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