クラウドとソーシャルでひらく電子教科書の未来

楽天市場の三木谷さんはときどき鋭いので驚かされます。というと失礼でしょうか。基本的に大言壮語のホラの演奏者と紙一重の発言が目立つなかで、リアリストの顔をみせるからです。

創業期の「どぶ板営業」もそのひとつで、ある編集者によれば、営業面はご内儀の差配で、ご主人はもっぱら広報活動と銀行をまわり、企業買収を虎視眈々と狙っていたということですが、それが本当だとしても、実務を委ねた点がリアリストといえます。

その三木谷さんが2012年1〜9月期の決算発表にて、電子書籍市場をこう分析していました。

「国内書籍市場一兆円のうち、3割が電子化するだろう(意訳)」

冷静な見立てです。すべてが電子書籍になると謳うWeb太鼓持ちやブローカー、業界ゴロ(彼らがジャーナリストや評論家と呼ばれるのが不思議でなりませんが、モータージャーナリストと同じと思えば腹も立ちません)に比べればさすがビジネスの現場に立つ人です。

彼は電子書籍リーダー「Kobo touch」を販売しているプレイヤーですので、我田引水を割引き、「話し半分」としても1500億円規模の市場が生まれるということです。

そう、近いうちに全ての書籍は電子となります。
と、いつもと毛色を変えて「ITマンセー」。

・・・ちなみに、この近いうちには野田的用法ですが。

電子書籍への進出が期待される「マンガ」ですが、残念ながらというか、意外と紙媒体としてしぶといのも「マンガ」とみています。

かつて週刊少年ジャンプを2年分、月刊ムーを3年分、ためこむように収集癖のあるわたしにとっては信じがたい行為ですが、東京都心を走る電車に乗って、網棚にマンガを見つけることは、そう難しいことではありません。

読み捨てされる媒体なのです。二度読みはせず、荷物になるのを嫌うものにとって、電子書籍リーダー(以下、リーダー)は持ち運びを強制されるものです。ならば「スマホ」でとなりますが「見開き」の迫力を補うほどの価格差を実現できるかが、紙媒体駆逐の鍵となるでしょう。

マンガの場合は「一覧性」も大きな要素で、ひとこま一コマを映画のフィルムのように見てはおらず、俯瞰とズームを繰り返して読み進める紙媒体に慣れている読者にとって、物足りなさは否めず、強制的な電子化は読者離れを引き起こすリスク要因です。

逆にスマホの画面を「一コマ」として、映画のカット割りのような漫画作品が生まれるかも知れません。引きの画(え)も、主人公のアップも、緊迫シーンに脈絡なく現れるマスコットキャラのぼけた表情も同じ一コマ・・・って、それをかつては「紙芝居」と呼んだのですが、ももひきがレギンスと呼び替えて復活したように、

「コマ・マンガ(略してコマンガ)」

などと、どこかの広告代理店が名付けて売り出す日も近いかも知れません。ナンセンス系で、とにかく可愛げな女の子(性癖により男子OK)がでていれば成立するような作品なら、いますぐに・・・すでにでていたらすいません。

電子普及の曙は「教科書」です。

これはメリットばっかりっていいだす阿呆がいるんでしょうなぁ。はぁ。・・・いや、すでに本音がでましたが、しばし礼賛します。

まず、電子教科書の最大の利点は

「クラウド化」

です。
学校にいても家庭でも、旅行先でもファミレスでも、同じ教科書を利用することができます。しかも一台のリーダーで、国数英に理科社会、技術家庭に保険体育もカバーできます。

もう、苦行のように重い教科書を背負う必要はありません。

リーダーは学校から貸与します。授業が終われば回収し、充電をすませておきます。家庭用端末も発売されますが、既存のリーダーやパソコン、スマホでも見られるようにすれば、家庭の追加負担は不要です。

教科書というのは便宜上のネーミングです。ドリルにもなれば、ノートとしての機能も充実しています。もちろん、偉人の顔写真に落書きすらできます。これにより

「宿題を家に忘れた」

という言い訳が教育現場から絶滅することでしょう。なぜなら、通信環境などにより、一時的に通信ができなくなることはあっても、教科書のあるサーバにアクセスした「ログ」がすべて記録されているからです。すくなくとも、紙媒体的表現における

「教科書を開いた」

かどうかは確認できるからです。

クラウド化により常に最新情報に更新されます。もはや年度の途中に「冥王星」が惑星から準惑星に降格されても心配はいりません。

また、ドリルやテストの集計もクラウドになります。つまり先生による採点ミスもなくなるので、彼らの残業時間も多いに減り、その上、夏休みに「自宅研修」として休めるのですから良い身分です。いくら日教組のクソ野郎どもが言い訳をしても、夏休みの公立学校に足を運べば、教師の過疎化に驚きます。

いや、空いた時間を子ども達と触れあうことでしょう。きっと。

電子教科書になれば動画や音声、ネット通信ができるのは当然。想像力という個人能力に依存していた学習を問答無用の動画でインプットすることができます。

さらに最大の眼目は

「ソーシャル化」

です。
書き込みをみなで共有します。それは同学年だけではありません。先輩達の書き込みという縦軸の知の共有により、大人には思いもつかないアプローチからの理解が広がるかも知れません。まるでハリー・ポッターが手に入れた「半純血のプリンス」の教科書のように。

生徒が躓く場所が一目瞭然で、表現や段組を変えるなど、生徒がテストで良い点を獲得できるまで工夫が重ねられることでしょう。ポップアップ、引用、リンク、動画、音声、色などなど、あらゆる手段を講じて、生徒が正解を選択するように誘導することでしょう。

暗記も不要となります。なぜなら「ターゲティング広告」の仕組みを活かして、正しい答えを選択するまで、随所に導くための仕掛けが施されるからです。時にはサブリミナルな方法を使われるかもしれませんが、睡眠学習と思えば腹も立ちません。

ビバ! 電子教科書。

飽きましたのでここまで。実際、現役の児童、生徒にとっては良いことずくめです。漢字の書き取りで手が黒くなることもなくなり、書き順をナビゲートするアプリは標準に埋め込まれることでしょう。暗記は先に述べた通りですし、学習指導要領的な視点で見れば、追試でも宿題でも生徒が規定の点数に達していることこそが大切であり、学んだ知識が知恵になったかの確認も、一年後に覚えているかを心配するのが次の学年の仕事で、当該学年が懸念する必要はないからです。つまり「テストのあいだだけ覚えていれば良い」ということです。

それで良いのか。と疑問に思うあなたはピュア。いまでもライフログとして「外部脳」を活かすことを礼賛する動きがあるなかで、検索すれば解ること、それはクラウドですから、過去の自分の回答も引き出せる環境にあるなかで、回答を覚えているなど旧時代のこととせせら笑う声が聞こえてきます。

それとも子供には暗記させて、大人はスマホで検索するといった日には児童虐待で訴えられますぜ。子供に大人とまったく同等の人権があると主張する層と、ネット礼賛する連中は奇妙に重なりますからね。社会は馬鹿に迎合するのです。

すると電子教科書業者としても、「点を取りやすい」・・コホン、子供が学習結果を体感しやすい教科書作りを競うことになりますし、実際いまの教科書は、薄っぺらくふんだんにカラーを用いたガイドブックと化しており、補助教材の「問題集(ノートと呼ぶことも)」には、回答が書かれている教科書のページまで記入されています。つまり、そのページを開いて単語探せば、理解していなくても課題を達成できるのです。これ、ゆとり教育の現実です。

ゆとりに拍車がかかるのが「電子教科書」です。そしてこの流れは止められません。文部科学省に入省する人たちや、すべての官僚にとってテストが点数がすべてで育ってきており、それを取れるようになることは彼らの人生においてすなわち「善」であり、尚かつ教員の負担が減り、さらに

「社団法人 電子教科書普及協議会(まだ、ありませんよ)」

をつくれば、天下り先まで確保できる三方良しですから。

人は愚かです。知識を得ただけでは知恵になりません。
得た知識は身体性を伴ってはじめて知恵になります。

分かりやすい例えをすれば、トリビアと細切れのセンテンスしかないクイズ番組を見続けたとて、社会を生き抜く力を得るコトができないようなものです。

虫眼鏡で太陽光を集めれば火がつくと知識で知っていても、直射日光の暑さを知らなければ、曇り空の下で日が暮れるまで虫眼鏡を片手に途方にくれることでしょう。もちろん、これは身体性を伴った良い経験となりますが。

電子教科書により反射神経的な浅い知識は身につきますが、応用するには身体性が必要です。湿度と飽和度の関係が知恵となれば、洗濯物を乾かしやすい条件や、結露ができる場所を体感的に理解できます。しかし、条件反射で正解を埋めているだけでは身につくことはありません。

もちろん、その頃には湿度も洗濯物の乾き具合も測定する、スマホのアプリが登場しているので、皮膚感覚は不要なのかも知れませんが。

電子教科書に話し戻します。学校と家庭で同じ教科書を使えることを利点と考える子供や家庭は、いまも重たい教科書を持ち帰るか、同じものをもうひと揃えしていることでしょう。

逆に最近の公立学校(足立区だけかもしれませんが)では、教科書の「キープ」を認めています。教室のロッカーに置きっ放しにできるのです。

こうした子供と家庭が電子教科書になりクラウドとなっても、家庭で手に持つタブレットは「Wii U(任天堂の新型家庭用ゲーム機)」でしょう。

ソーシャル化により知の共有は期待できますが、そもそもそれは教師の仕事です。ごく希に登場する天才を除けば、馬鹿が百人集まったからといって画期的な進化が起こるなどとは週刊少年ジャンプの読み過ぎです。ワンピースしか読まない大人が1万人集まっても、iPs細胞の臨床実験ができません。

ところで「ワンピースしか読まない」を広言して恥じない大人が増えているのは馬鹿馬鹿しい限りです。

以前、ブログに書いたことを、一部加筆して転載します。

みやわきぶろぐ「本当のことも言えない世界の片隅で」より
2012年10月1日寄稿

「利口な阿呆が唱える電子教科書論への危惧」

暴論を垂れ流せるようになったのは「ソーシャルメディアの害毒」ですが、それでも「表現の自由」をすべての憲法の上で、最上位に掲げる連中にとっては素晴らしいことなのでしょう。暴論もまた表現であると。

ならば差別用語とも戦って欲しいものです。「乞食」など海外では職業のひとつなのですから。

そんなネットの暴論を見て「電子書籍マンせー」の阿呆を発見。プロフィールにはMITに留学したとかで、佐々木俊尚氏と一緒にイベントをやっていると自慢している時点であぁそっちの人かといつもなら気にも留めないのですが、こと「電子教科書」で痛い記事がありました。

<光合成の図式を動画で見せれば直感的に理解する。故に一生忘れない(筆者意訳)>

・・・馬鹿と利口は紙一重。
経歴には東大出身とあるので、勉強はできたのでしょうが、この論理で言えば「NHK教育テレビ(現Eテレ)の番組を見れば充分」となります。それなら「視聴覚室」で充分ですし、いまなら各教室にテレビモニターは常設されているので、それで間に合うという論理。テレビはダメでiPadやタブレット端末ならOK。とでもいうのでしょうか。

この阿呆の主張が現実的でないのは

「大人、それも相当勉強経験を積んできた大人の視点での解釈」

だからです。光合成などと言う身体性の伴わない事象を理解するには「想像力」という翼をひろげるしかありません。しかし、動画は想像力の出番を減らします。

そもそも「直感的」と「身体性」は切り離せないものです。そして身体性とは積み重ねてきた経験がベースになるもので、光合成という化学変化を経験したことがない小学生の直感にたよるというのはオカルトです。

知識人を自称する阿呆どもが、現在の価値観で過去を裁く行為に似ています。事実を指摘すれば

「光合成を理解している大人だから直感的に理解できる」

ということに過ぎません。

傲慢ですな。子供は「動く」だけではなく「色」や「音」にも反応します。そして光合成以外の別のものを一生記憶することもあるでしょう。その動画に動く矢印とか。

以上。

電子書籍を礼賛する人は、馬鹿と利口。その両極端です。

利口は己のカシコさから、便利を礼賛します。ただし、彼らの利口もまた、不便利だった時代に培っているものであることは、経験則で充分に理解しており、役人が我が子を私立学校に通わせるのもそれが理由です。

公立学校が週休二日になってからも、私立では土曜日もしっかり営業しています。

で、馬鹿は「ちょー便利じゃん」ですべてが解決。

電子教科書の普及の先にはさらなる「格差」がまっています。
つまり電子教科書がひらく未来が、格差を開くと。

しかし、逃れられない流れです。

政治に少し触れれば、維新を掲げる連中は保守を騙りながらも本性をリベラルですし、自民党は省益に甘いですからね。民主党? 論外ですよ。

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“クラウドとソーシャルでひらく電子教科書の未来” への2件の返信

  1. 確かにその通りですね、僕も7年前から貴方と同じ事を考えていました、私も今どうしても書かなければいけない小説があり、書いていますが、出版社からは、本を出さないかと言われましたが、結局多額のお金が掛かると知り諦めました、でも今はfecebookの中で書いてもいいかなっと思いなんとかやってます、自分に今ある物は何だと考えてみるとこれしかなかったからですね、頑張りましょう。

  2. コメントありがとうございます。それは自費出版や、企画出版というものでしょうか。だったら各種文学賞に応募されるというのも方法です・・・あ、ご存じかも知れませんが。
    また「パブー」など、電子書籍という形ならブログと同じ感覚で発表することができます。ご参考まで。

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