プログラミングの必修化とは、学校給食における「くさや」

 プログラミングと創造力はイコールじゃありません。隣接していますが別モノで、設計図をもとにプログラミング言語を当てはめていく「コーディング」でもありません。

 プログラム入門の基本にでてくる

「AとBの足し算」

 をプログラミングする行為に創造性は不要です。なぜなら「足し算」という答えが出ているからです。プログラミングは足し算の答えではなく、AとBという数字をどうするか、の「どうするか」の部分を考えるものだからです。

 「どうするか」の答えが「足す」であったとき、「引く」が求められるシーンがあるかもしれないという発想や推測が「創造」と呼ばれる部分です。だからプログラミングの技術は、創造力を担保しないのです。

 そしてプログラミングに求められるのは適時適切な手順と命令を用意する構成力。段取りであり、もっとも必用となるのは「論理(構成)力」です。

 これを鍛えるのは「読書」と「作文」、あるいは「ディベート」。
 つまり、プログラミングの前に「日本語」をしっかりとやるべきなのです。

 なにより、プログラミングは一種の特殊技能。

 プログラマー出身の私が特別だと、パヨクのような選民意識をひけらかすつもりはありませんが、小学校の体育において、跳び箱が跳べる、逆上がりができる能力差や、絵が描ける、歌が上手いといったように、個体差が色濃くでるのがプログラミングです。

 もちろん、経験をもって「苦手」と体感させるのも教育のひとつですが、文部科学省は2020年度から小学校での必修化を目論んでおり、吸収力の高い貴重な小学生の時間を「潰す」意味が分かりません。

 つまり、不向きな子供の時間を奪うことで、全体的な学力低下を導きかねないということです。

 大袈裟ではありません、私がプログラミングに「惚れた」のは小学校5年生のこと。インベーダーゲームのブームもあってか、コンピュータは社会現象になっていました。

 秋葉原の電気店店頭では、無料で使えるコンピュータ(まだ、パソコンという名称がない時代)に下は小学生から、大学生、大人までが列を成していました。

 当時住んでいた街から秋葉原は、鶯谷の山を越えねばならず、繁華街はさすがに怖く、なにより域外への無断外出は禁止されていました。

 で、同じく域外ながらも北区赤羽にあった総合スーパー「忠実屋」にも、無料コンピュータがおいてあり、こちらは隅田川の「河越え」でしたが、アップダウンは少なく繁華街でもありません。

 繁華街ではなく、忠実屋には家族で来店していたので大丈夫、と屁理屈武装しつつも、親や学校に内緒で足繁く通ったものです。都合良くルールを解釈するのはパヨク的ですが、子供の浅知恵です。

 初回は興味があるという同級生十数人で、回を重ねるごとに一人減り、二人減り。数度も経ずに4〜5人となりましたが、その中でも「プログラミング」に興味を持ったのは、私ともう一人ぐらい。

 仲間を増やそうと笛吹けど、仲間は増えず、1割ほどしか意味が分からぬまま熟読した「ベーマガ」や「I/O」(どちらも専門誌)を見る姉の視線は、変態を見るそれでした。

 そもそも忠実屋に行った同級生も、半分ぐらいは「タダでゲームができる」という触れ込みで、それを実現するには数十行のBASICプログラムを入力しなければならず、一文字でも間違えれば

「Syntax Error(文法ミス)」

 と表示され、修正しない限りそこから先へは進めません。

 中学に上がり、「マイコン部」が結成されるも、集ったのはやはり4〜5人。当時としては規模の小さい中学で、一学年200人弱。中学3年生を除外しても、プログラミングに興味を持った割合は1%ほど。これがプログラミングに「惚れる」割合です。

 私的体験のみですが、なかなかツボを突いている数字でしょう。

 実際、いまITジャーナリスト、ネットの専門家然としてマスコミで活躍する人々だけではなく、IT企業経営者を名乗るものの経歴にもプログラマ(エンジニア)を見つけるのは困難ですし、天才高校生プログラマーなる触れ込みで登場した少年が、すぐに引退という名の挫折を表明するのも同じ理由でしょう。

 それぐらい、「プログラミング」は好き嫌いが分かれるものだということです。

 そんなプログラミングを必修化するとは、より学校嫌いを増やすぐらいの意味しかありません。先の経験に照らせば、わずか1%に適している技能を、全体に経験させるのは、学校給食で「くさや」をだすほどの嫌がらせです。

 必修化にむけ理解しやすいプログラミング教材を用意するなら、それは「虫食い問題」や「ナンクロ」と同じレベルに堕してしまい、これまた児童の貴重な学習時間を奪う、平たく言えば「時間の無駄」です。

 別の懸念もあります。

 現実社会はプログラミングの枠に収まるほど合理的ではなく、「理不尽」という現実と向き合う前に、理屈だけで構築されるプログラムの世界に触れることで、現実への挫折感を強くしかねないのです。

 例えば「人は死んだらどうなる」という命題について、プログラム的発想からの結論は「停止」であり「消失」。その先に待つのは「無」です。

 それが現実ながらも、小学生がこれを受け入れるのは困難。これまた私的な体験ながら、プログラミングに触れ、ロジックを身につけたとき、漠然と持っていた死の恐怖が明確になり、十円ハゲができました。

 輪廻転生に救いを求めても、永遠という時間は存在せず、いや、それがあるとしても、人間には、すくなくとも今の自分には存在しないに等しく、宇宙の終わりのその先には、論理的に考えて永遠の虚無が待っているだけではないか、ならば人生とは壮大なる無駄、生きるとは何か・・・ってマジで考え抜いての10円ハゲ。

 喫煙という現実逃避は許されず、昨今は飲酒への風当たりも厳しく、夜の校舎の窓ガラスを割った翌朝には、鬼女かワイドショーのどちらかが、犯人を捜して晒し者にすることでしょうし、つまりはこうした気分転換が許されない時代を迎えていながら、理屈を煎じ詰めるプログラミング的発想を、プログラミング技能習得を望んでもいない子供らに植え付けることの危険を誰も語りはしません。

 プログラミングを学ぶ過程で身につける「ロジック」とは、なにかといえば「論理」または「論理構成」です。プログラミングでもっとも大切なことは、論理を構築する力で、創造力はそれほど必用ではありません。

 だから、プログラミングを学べば創造力が身につくとは、ピアノを習えば情操が身につくと信じる、漫画家西原理恵子氏のご母堂と同じ発想。

 願望は政策ではありません。

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