コピーに殺される本物

マイミクさんのエントリーで「コピーは本物を越えない」という指摘を見ました。そうあって欲しいとは思いますが、しかし、社会はコピーを受容して、そして本物を求めない、必要としないという流れがうまれ、そこに民主主義的暴論、すなわち多数派こそ正義という日本型コンセンサスによる本物が淘汰される危険性を日々感じています。

「コピーは本物を越えない」とは本物に触れた経験があればという前提条件が求められるのです。コピーしか知らない人は「本物をコピーのコピーと笑う」のです。悪貨は良貨を駆逐するで、平易な例をあげれば「松茸味のお吸い物」しか知らない人は、本物の松茸のお吸い物を「味が薄い」と文句をいうようなものです。

あくまでわたしの好みですが「スターバックス」のコーヒーは不味くて飲めません。「香り」や「苦み(のなかにふわっと立ち上がる甘み)」を楽しむコーヒーに香りをつけ、味を添加するのはコーヒーにおいては「本物」ではないと考えます。もちろん、「スターバックス味」というジャンルにおいて「本物」と主張するなら否定しませんが。

またこんな人もいます。「白いご飯が食べられない」。タレントでもいましたが、曰く「味がない」。噛みしめるごとに広がる甘みを理解できない食生活・・食習慣を「コピー」とはいいませんが、白飯を味がないと評する人間を日本の食文化において『本物』とは呼ぶ人はいないでしょう。

つまり、基準点が狂えば、本物への需要が減り、市場経済において本物が淘汰されてしまうことがおこるのです。ドイツにおけるビールや、フランスのシャンパンのように、文化伝統を守るという発想に乏しい我が国でこれが顕著です。「純米酒」などその最たるものです。若干復権の兆しもありますが、しかし、若年層が「カシスウーロン」なる珍妙な酒類を好むと聞くに次の世代には引き継げないのではという危惧を強く感じます。そして結論。

「コピーの氾濫は本物を淘汰することがある」

すいません。例えがすべて「飲食」になりました。

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