ツイッターとマスコミ批判とステレオタイプ

 ツイッターを疑え。

と、見出しがつき、新聞広告に電車の中吊りと、写真付きで掲載
されました。そして予想通り「大反響」の週刊ポスト。

特に「ツイッター」のなかで。

これまた予想通りですが、記事を読まずに意見を述べる人の多い
こと多いこと。せめて中吊りや新聞広告をみての引用ならば、まだ
しも、誰かのツイート(ツイッターでの発言・投稿)をそのまま
咀嚼もせずにはき出します。

ずいぶんな「ソーシャルメディア」です。もちろん、提唱した
真意は別の所にあるのでしょうが、日本の「ネット世界」において
誰かの発言という論拠も根拠も示されていない「空気」のような
ものに従うのは「作法」といっても過言ではないでしょう。これを
もってメディアというのであれば、日本は江戸期より最先端の
民間ジャーナリズムを持っていたことになります。その名も

「井戸端会議」

上下水道の発達で、井戸がなくなった今も、街角で、スーパーの
精肉コーナーの一角で伝承されています。

一般の方が息抜きで楽しんでいるものにつっこむのは野暮という
ものですが、名前があり、名前を出し活動している人まで、井戸端的
な空気を弄びます。

他人はともかく、検証可能なケースを挙げれば、わたしの記事へ
の批判で、こんなのがありました。

「日頃からこういうことをいっている」

・・・う〜ん。少なくとも週刊ポストに語ったことで「初出」は
幾つかあり、それは別の媒体で発表しようと溜めていたもので、
「日頃」からはいっていません。

凄いですね。ネットの世界にはエスパーがいるようです。

それとも「知ったかちゃん」? 私はその昔、リアルのつながり
で霊や龍神様が見える人と出会ったことがあり(この話、結構すご
いです、いずれ機会があれば)ますが、残念ながらエスパーとお会
いしたことはなく、しかし「知ったかちゃん」は掃いて捨てるほど
あいます。特に商売を始めてから、本当に出会う多く彼らを遠ざけ
るのは「ビジネス必勝法」として大変有効な方法です。

それは「知ったかちゃん」と嘘つきはほぼ同義だからです。

また今回の記事で面白いのが「メディア批判の底の浅さ」。

ステレオタイプです。そりゃあそうです。読まずに批判するので
すから。それでいて原文に当たらず批判を平気で垂れ流す厚顔さは、
偏向報道を厭わないマスコミのそれと同じで、ムジナの共同住宅を
覗いているようで愉快です。

今回の「ツイッターを疑え」にしてもそう。

「結論ありき」

という「批判」が多数。記事を読みこめば、そこにツイッターが
内包する課題に気がつく示唆も沢山あるのですが、脊髄反射か
アナフィラキシーショックのような批判言説がここに集約されます。

・・・と、いうかそもそも読んでおらず、あるいは「礼賛派」の
ツイートやブログをもとに自説とするのですから、当然の帰結なので
すが、それにすら気づかず「自分の意見」と錯覚していることも
今回のテーマである「文明退化」の一例ですが、今回はここは深掘り
しません。

現象を精査し、情報を解釈するとき角度を変えて見るのはとても
有効な方法です。

仮に週刊ポストの記事を「結論ありき」とします(こう書き方で
怖いのは、この一文の“仮に”がカットされてコピペされることで
ネット言論界(笑)ではよくあることです)。

その、結論を「企画」に置き換えれば書籍も同じ。
ツイッター礼賛本にも通じる自縄自縛です。もちろんグーグル礼賛
でもWeb2.0、セカンドライフ、SNSでも以下同文。

先日、試しに礼賛本にポストイットを貼り、突っ込みをしてみると
あまりの「我田引水」ぶりに途中で投げ出してしまいました。書籍は
商品で「企画」へと落とし込むために構成されます。私はこれを批難
しているのではありません。

「結論ありき」というマスコミ批判は健全な批判精神の発露です。

しかし、一方で「ツイッター礼賛」という結論ありきの書籍に
批判の刃が向かないことを「恋は盲目」というのでしょうか。この
一方的な熱情がコピペにより拡散することで、ニュートラル(と、
いうかさして興味のない人)を「そういうものか」と思考停止に
陥らせることに危機感を覚えるのです。

それはネットで俎上に上がる「マスコミ」の手法と同じです。
余談ですが、私の知り合いの団塊世代の社長の歴史観と外交感覚は
愛読している朝日新聞の主張そのものです。

ここで偏向報道、結論ありきについて重ねて私見を述べておきます。

週刊ポストの編集部員ではなく、依頼され「私見」を述べたに過ぎ
ないので、本企画について言及する立場にありませんが、物書きとして、
ホームページ屋として、広告屋として、そして企画屋として、なにより

「大人」

として、取材を受ける際は「企画」を訊ね、慎重に言葉を選んで
発言し「ゲラ」を確認し、自説が歪められているのであれば断りを
いれます。

つまり公開されているものは某かの「許可」をだしているものとい
うのが私の考えです。

仮に公開された内容が意図しないもの、例えばゲラ(完成直前の原稿)
と180度違う内容が出版されたのであれば「裁判」で戦うべきです。

費用がかかったとしてもそれは「言論」を守る戦いで、ネットで
募金を募ってもやるべきではないでしょうか。

本題に踏み込みます。

文明は退化する習性を持っています。
このテーマは何度か取り上げましたが、今回はITを軸に検証してみます。

ツイッター。これ自体を否定するものではありません。
しかし、140文字で伝えることには限界がありますが、刹那の
速報性やフォロワーに絡み得られる連帯感は、論を組み立てるという
面倒な作業を「中抜き」してネットの醍醐味であるコミュニケーション
という果実を与えてくれます。

ブログだったころ。人に見て貰う、訪問者を増やすには一定の文章
クオリティが求められました。文章力だけではなく、企画力や発想力
なども試されました。

もちろん駄文でも独りよがりでも結構ですが、それでは人が集まらず
コメント欄を通じたコミュニケーションが発生しなければ、海辺で砂粒
を投げるような虚しさに支配されます。

つまり鑑賞に堪えられる水準のブログがネットコミュニケーションを
謳歌する条件だったのです。

リアルの知人にブログを見て貰う分には、ここまで要求されませんで
したが、知人が見てくれるのは最初だけで、つまらないブログに付き合っ
てくれる奇特な友人がいたとしたら、生涯の友を見つけたと大切にすべ
きです。

ブログとツイッターの中間に位置するのがミクシィなどの「SNS」。

知人、友人限定(当初は)なので駄文でも内輪受けのネタでもOK。
もちろん文章の品質もそこまで要求されません。

そしてツイッター。論の構成より瞬発力、反射神経が問われ、短文
ゆえの気軽さから、誰でも気軽に自分の意見を発言できるようになり
ました。

文章の訓練を受けておらず、特段の感性を持たずとも誰もが自由に
発言でき、公に発表することができる。平等な世界です。

これはいいこと、と現代的価値観ではいわれます。特に市民革命を
願い権力階層を公立小学校の授業中に攻撃して、日教組に所属した
私の恩師などは手を叩いて喜ぶかも知れません。

私は思い出します。かつて「アイドル」が量産された時代、彼ら
彼女らがバラエティ番組や連続ドラマに登場し、こういわれたことを。

「身近なスターの時代」

目を見張るほどの美人ではなく、音程は若干フラット気味で、
ダンスはぎこちないボックスを踏むだけ、演技をさせれば棒読みでも、
それがいいと。

同時にこういう声もありました。

「お遊戯だ」

「芸」がないことへの指摘です。

いまの「お笑い」はこの系譜にあります。

話芸よりインパクト。30分座を持たせる漫才よりも、30秒で
一回クスッとさせることが求められます。

そして話芸や技倆をもった芸人と、はしゃぐこと、大声をだすこと
しかできない「出演者」が同列で扱われます。かつてならば、芸を
持つ芸人のために割かれた時間も、平等に30秒のずつ割り当てられ
視聴者に両者の違いは分からなくなります。それより、司会者や
番組企画に「沿ったリアクション」をする出演者が重宝されます。
テレビにおいて芸の有無は問われなくなりました。

ITに話を戻します。

今後も作品や批評、論文、すべてを含めて「文章」に自己投影し、
情念を委ねる人は、それがツイッターであってもブログでも、メルマガ
かもしれませんが「作品」として取り組み、才能を開花させ世に出る
ことでしょう。

一方で「作品」と向き合う苦痛(ですよ。こんな軽い文体のメルマガ
でも自分と社会と対峙して書いています)を拒否して、他人の意見を
コピペするだけ楽しみ、分かったふりができるツールが次々と登場し
ていくのは、「利用者の利便性」から考えれば当然のことです。

客を楽しませようとすればするほど、客から考えるという負担を
排除するのはすべての産業に通じることです。

そして思考は停止します。

脊髄反射の批判はお断ります。

「全員」

というほど私は幼くありません。しかし「マス=大衆」は娯楽に
弱いものであることは古代ローマ時代からの真理で、為政者の仕事が

「パンとサーカス」

と呼ばれる理由です。

「マス」の思考停止すれば、革新的でも複雑な真理を唱える
表現者の言葉は馬の耳に響き渡るマントラ。

商業主義は客を中心に論理を組み立てる性向があ、結果、
思考停止してもわかるものだけが「文化」として後生に残されて
いきます。

なにもかもを嘆くペシミストではありません。
どららかといえば私は楽観主義者です。

週刊ポスト「ツイッターを疑え」により、「アウェイ」と化した
ツイッターで呟き続けるのは、ITへの希望や期待が誰よりも強い
からかも知れません。

しかしその先に待っているリスクへの警句を発するのは「大人」
としての責務。

とくに「便利」とはかなり慎重に取り扱うべきもので、退化への
係数を高めることは昭和、平成と生きてきた歴史から明らかです。

分かり易い例では電卓の登場でかけ算が怪しくなり、ワープロの
普及で漢字を忘れ、ケータイを所持することで電話番号を覚えなく
なり、インターネットコミュニティの普及が孤独に耐える精神性を
脆くさせています。

このシリーズは不定期に続けます。

ブログ村に参加してみました。宜しければ右バナーをクリックしてください→ にほんブログ村 政治ブログ メディア・ジャーナリズムへ
にほんブログ村

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください