八代英輝弁護士の法律家としての限界的見解

 安倍首相による戦後70年談話。見事な論理構成、単語の並びに、さすがの中韓も枝葉末節すらあげつらうことに苦慮しているようです。それは左翼陣営も同じですが、断末魔の叫びというか、局の方針におもねるための詭弁というかを発揮したのが、八代英輝氏(弁護士の肩書きを持つタレント、東大卒だけが売りの女優のようなものか)。

 法律に関することは、さすがに本業という指摘もたまにしますが、談話発表の6時間ほど前にあたるTBS「ひるおび」では、法曹界の人間としていかがなものかと珍説を披露。

「永遠に謝罪しろという意見には同意しない。たかだか70年でなにをいっているのか。反省と謝罪とは相手が許すことだ(八代英輝 発言要旨)」

 大半の法律には「時効」が存在します。現実を整理し、対処するための法律に「永遠」の概念は邪魔になるかです。どこかで整理しなければならず、それを妥協と罵られても現実的な対応策です。

 八代英輝がいう「70年」とは、皇紀から数えた我が国にとっては、恒星がひとときまたたく程の時間に過ぎないとはいえ、多くの現存する国にとって、相当な時間の重みを持ち、新興国に至っては「建国以来」より長い時間です。それを「たかが」とは言えません。

 日本の公訴時効は民事でも最長20年と「ヤフー知恵袋」にありました。海外では時効を廃止する国もあり、日本でも議論が薦められていますが、それでも多くは被疑者死亡でひと区切りとなります。隣国のように死者にまで罪を与える国はともかく。

 70年とは、生まれたての赤ちゃんの相当数が死に至り、残されたかつての赤子たちも老眼になるに充分な時間で、老い先を数えるに両手の指で足りるほどの年月の経過を意味します。つまり、70年という「人の一生」に相当する年月をもっても、足りないということは、日本国の死を待たなければ許されないということでしょうか。

 また、70年が「たかが」なら、一般的文章解釈において、100年など「たかが」の庭先に過ぎません。70年もの年月を「たかが」と吐き捨てるなら、具体的な指標を論拠と共に示すべきで、それをしないものに「たかが」と述べる資格はありません。橋下徹氏に見つける、弁護士特有の議論をこねくりまわす屁理屈といえばそれまでですが。

 仮にいま時効が停止されても、過去の犯罪に遡り適用することは「法の不遡及」に反します。さばきは「当時の法」に従うのが、法律家の常識ではないのでしょうか。

 そして「反省と謝罪は相手が許すこと」は理想の空論。これが通じるのなら、民事裁判の大半は減ることでしょう。恨みやつらみを引きずり続ける人も人種も国家もあり、この解決には「法」しかない、と「弁護士」ならば指摘すべきですが、タレント風情に多くを望んでも無理なのかも知れません。これが八代英輝氏の法律家としての限界的見解です。局や番組におもねるにしても「本職」を忘れれば、タレント価値はなく「歌を忘れたカナリア」より無意味です。

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