保育園不足を社会問題にしようとしている連中

 子供好きに悪人が一杯。「マイルドヤンキー」どころか、

「いつまでもヤンキー」

 が、そこかしこにいる街に住んでいると、子供好き=良い人など俗説も俗説、信じられません。

 いや、子供好きの種類を選別すべきかも知れません。

「我が子だけが好き(仲間や親戚の子を含む)」

 としたときに、悪人含有率が高まるのでしょう。

 不惑を過ぎても周囲を威圧すること構わず、他人の迷惑を顧みることなく我が子を「放し飼い」にしています。そして親の年齢が若くなれば、無法の度合いが非道くなります。

 学校はその最先端の舞台です。近所の小学校は、かつて足立区内屈指の優秀校という評判でしたが、昨年入学した1年生のあるクラスはこの3月に至るまで、つまりは一年間「学級崩壊」をしており、保護者参観(かつての父兄参観)のような他人の目がある状況でも、小学1年生が教室内で放し飼いにされていたといいます。

 しかも、真面目に授業を受けている子供を、背後から殴ったりするというのですから、いつ迫害を受けるかわからない状況は、ダーイシュ(イスラム国)のようだとある親が嘆いていました。

 私が親ならば「放し飼い」などさせませんし、我が子がクラスメイトであるならば、解決のために学校に乗り込むことも辞さないと反射的に想像しましたが、放牧された人科の小動物のクラスメイトになったのが、娘だったらと仮定すると考えてしまいました。

 まず、教師→校長の順に意見をし、保護者会の場などで親に注意するでしょう。しかし、道理の分かっていない親ですから、殴り合いは覚悟しておかなければなりません。「いつまでもヤンキー」とはそういう人種です。

 ただ、不良って彼らなりの「大義名分(たいてい間違っていますが)」が大好きで、毅然とした態度で正論を述べれば、かなりの確率で封じ込めに成功するのですが、放牧された子供に及ぶかは微妙です。

 その場で同意を取り付けても、本当の意味で理解していなければ、帰宅してから不条理な怒りが再発し、その八つ当たりが、無防備な娘に向かうこともあるからで、やはりためらうことは避けられません。仮に「息子」なら、「やってこい、骨は拾ってやる」なんですが。

 本稿読者ならご存知のことですが、我が家に子供はいません。選択的にではなく運命的なもので、非国民との誹りに反論する術は持ちません。

 しかし、一方でいつも首をひねることがあります。子育てや少子化問題を議論するにあたり、子育て世代や、子供を育てたことのある日本国民の意見ばかりが流通し、子供を望まなかった世帯、子供に恵まれなかった日本人の意見が、議論の場にのぼることが殆どないことです。

 少子化対策は待ったなし。

 このスローガンを信じるなら、「非子供世帯」の意見や価値観をピックアップし、問題点を挙げる必要があるのではないかと、新年度のはじまりに提案するのは、少子化はもちろん、子育てを巡る議論では、問題点が不明瞭なために、解決できていないことが多いからです。

 子育ての苦労はあるのでしょうが、そこは苦しみだけでなく楽しみはそれ以上にあるでしょうし、一方で税金などの社会資本の投資先は、子育ての有無に関係なく国民の利益に関係してきます。

 子育てのためにある程度優先的に使われることに、私に異論はありませんが、あくまで「ある程度」であるべきで、その程度問題の議論が欠けています。

 もっとも象徴的な議論が「保育施設の不足」です。

 以前、ブログ(「保育所に入れないと抗議するママ達は幸せものという足立区の現実」)で指摘しましたが、足立区では再開発に伴う、大規模集合住宅の林立により「保育園不足」だと騒ぐ、子育て世代が区役所に抗議に訪れ、その様子がなぜかテレビカメラに抑えられ、全国放送され、「社会問題」として拡散されましたが、足立区という地域で捉えれば、放送時点で定員に空きのある保育園は幾つもありました。

 その母親の主張から推測した地域は、東京スカイツリーライン(東武伊勢崎線)西新井駅周辺で、たしかに「すぐ近く」にはありませんが、自転車でしばらくもしないところには空きがあり、自動車でしばらくも走るなら、かなりの数の空きがありました。

 さらに言えば「幼稚園」は、毎年、園児集めに奔走しています。

 一般的に保育園は安価で長時間、子供預かってくれます。幼稚園は「学校」という建前もあり、時間は短く、長時間の場合は別料金が発生します。

 蓋然的な状況を総合するなら、

「安くて便利な保育園がない」

 ということです。それを「ワガママ」とはいいません。しかし、社会福祉ではなく「財政問題」で私益の領域です。この線引きをどこに設けるかが「ある程度」です。

 すべての駅前に、区内在住すべての未就学児を受け入れる施設を作るべきだ。これを「ある程度」とするのか、すべてを行政だけで対応できないと受け入れることを「ある程度」とするのかです。

 保育施設問題には、保育士の雇用確保という観点も必要で、今年度は入園者が100人、来年度は50人となったとき、単純計算半分の保育士が解雇されなければ、保育園の健全経営は実現できません。さらに翌年は100人となれば、昨年解雇した人員を再募集するということです。保育士にだって生活があります。

 保育施設の不足ばかりがクローズアップされますが、一方でこうした「現実的な議論」をみかけることがありません。

 保育園と幼稚園の月謝を比較すると、自治体により異なるのでザックリとした話しですが、若干幼稚園が上回る程度です。

 「入園料」などが幼稚園は割高ですが、民主党政権により誕生した「子供手当」、現在は「児童手当」となっていますが、これにより3才までは月額1万5千円、中学卒業までは1万円が支給されています。

 諸条件で細かな分類もありますが、とにかく支給されており、これらをしばらく積み立てれば、幼稚園の入園料ぐらいは充分に補填可能な金額です。

 預かり時間は「保育園」の方が長いのは「福祉」の領域だからで、入所にあたりは、子供の置かれた環境による「査定」があり、有り体に言えば「不幸指数」が高いほど、入園しやすい仕組みです。

 両親は揃っているのか。片親の時の、親の労働時間は。いつも家庭に保護者はいるのか、保護者はそもそも働いているのか等々。裏返せば、保育園に「落選」した家庭の子供は恵まれた環境にあると言えます。

 すべての子供は幸せになる権利がある。のはもちろん。しかし、すべての子供の親にも、恵まれた環境を得る権利がある、という議論は煮詰まっていませんとうか、そもそもされていません。

 少子化の議論において「ぼんやり」と提起されることはありますが、現実に目をやればできないことは明らかです。先の西新井ママのケースで言えば、親はそのエリアを選択して居住したのであって、行政がそこに住むことを強制したのではありません。

 つまり、転居の自由を行使した結果に伴う責任は負わなければならないということです。

 北海道の大自然の中に移住した親が、都会の子供と全く同じ保育環境の提供を行政に望むなら「バカ」と言われることを想像すれば分かることです。

 ただし、その親が行政に働きかける行動自体は、思想信条の自由であるので止めるものではありませんが、マスコミを含めた、利益関係者ではない、いわば「外野」は、ここらの冷静な議論と、論点整理をすべきで、盲目的に保護者や子育て世代を「弱者」に設定して感情的に議論を煽るべきではありません。

 さらに「保育園問題」では、都会では保育園の新設が社会問題化しつつあります。いや社会問題にしようとしている連中がいます。やり玉に挙げられるのは「子供の声」です。

 保育園で遊ぶ子供の声がうるさいと、近隣住民からのクレームで計画が頓挫するケースがあり、一昨日も「朝日新聞」が報じていたのが目黒区の事例。

 この4月に開園予定として、昨年の11月に区報などで募集をかけたものの、翌12月に運営会社は「諸般の事情」を理由に募集を延期し、新年度を迎えた本日現在に至ります。

 ただ、この「記事」も朝日新聞らしい「角度」がつけられています。

保育所作りたくても… 住民が騒音など懸念、延期相次ぐ

 とのタイトルではじまり、「子供の声は騒音じゃない」と弱者の味方を気取っているのでしょう。

 記事を読めば、運営会社から周辺住民への説明がなく「何の事前説明もなく、募集が始まった」とあります。こうした運営会社の態度から、認可する東京都への「不服の申入書」が書かれ、反対署名が220名分集まったのです。

 ならば「子供の騒音」よりも、この事業者、ひいては「子供の騒ぐ声問題」とは、保育園児業者引き起こしているのではないか、と考えるのが論理的思考でしょう。あくまで「子供の声」とは、不満の象徴に過ぎないのではないかと。

 朝日新聞は事業者の声をこう紹介します。

“「近隣住民に説明する時間がなかった。防音や送迎の車への対応はしっかりする。開園後は施設を地域に公開し、近隣の意見を聞きながら運営する。住民の理解を得られるよう努めたい」(同記事より)”

 説明する時間が無かったとは、その気持がなかったといって過言ではないでしょう。そう断じる理由は後ほど。

 保育園や幼稚園の周辺で頻発するトラブルは

「路上駐車」

 です。まぁこれが非道い。子供の送迎のわずかな時間だからと、止めますが、わずかな時間に園児の数をかけた時間が近隣の迷惑です。

 保育園ではありませんが、近所にあるスイミングスクールは、夕方になると子供の送迎のクルマの路上駐車で混雑します。そこはいまは「駅前」です。スクール側が十数台分の駐車場を用意しているのに、道の反対側にあるためか、「ちょっとだから」なのか、わかりませんが、とにかく迷惑千万に路上駐車で溢れます。

 こうした周囲の迷惑を顧みない親は、概して大型車に乗っていること多く、運転が粗いというか雑で、端的に言えば「危ない」とは、近所の保育園や幼稚園、スイミングスクールをみての結論です。

 事業者が朝日新聞の取材に「送迎の車」を挙げているのは実状を知っているからです。

 送迎の車には「自転車」も加えるべきでしょう。これも親子のどちらか分かりませんが「遅刻」を避けるためになのでしょう、保育園周辺で、無謀な運転をする親を探すのに苦労しません。

 これらへの不安は、開園してからでは遅すぎます。なぜなら、保育園が路駐をしているのではなく、保護者であり、保護者を直接叱りつければ、いらぬトラブルに巻き込まれかねず、そもそも「住民説明」をしないような業者が、客である保護者を指導できると信じるほうに無理があります。

 住民説明をする気持ちがなかった、とまで断じるのは、運営会社のホームページに、

「事業者の皆様」

 と題するコンテンツがあり、そこでは用地募集をすると同時に

「保育所を開設したい皆様へ」

 と題して、保育園不足を社会問題に位置付けて、

「運営で得た様々なノウハウを皆様に提供いたします」

 と、保育園ビジネスのコンサルティングを標榜しているからです。

 その「ノウハウ」とやらに、周辺住民への説明が含まれるのは、昨今の「社会問題」を勘案するまでもなく当然のことです。

 当該用地は元工場で、立地を見る限り、近くには幹線道路も走り、多少の騒音なら近隣住民も慣れているはず。ならば、充分な防音対策を講じ、そのプランを発表すれば、周囲の理解を得ることも可能だった・・・と仮定すれば、それをしなかったのは「費用対効果」に問題があったと見るべきでしょう。なにせコンサルティングの看板を掲げているのですから。

 「慰安婦捏造報道」で明らかとなり、改善を表明していたはずの朝日新聞の、「前のめり」な執筆姿勢が、いまも変わらないことを示した記事です。

 西新井ママは不満を述べていましたが、我が町、足立区の福祉政策はかなり頑張っており、小規模保育も数多く、その為か、日中の公園では、そうしたところの子ども達が遊んでいる光景を見かけます。公園ですから大騒ぎしても叱るものはなく、そもそも園児の嬌声ぐらいなら、春の到来を告げる暴走族の爆音に比べるほどではありません。余談ながらゴキブリとヤブ蚊と暴走族は、少し暖かくなると現れます。

 しかし、こうした「園外(えんがい)」での活動で首をひねる光景を見ました。旧鳩ヶ谷市で現在は川口市になったところに開店した「ニトリ」です。

 開店初日、物見遊山で足を運ぶと、地下駐車場の入口で誘導していたのは似鳥昭雄社長に似ていた気もしますが、ともかくごった返す店内で「ヒモ」を握った数名の園児が歩いています。

 先頭と後方に保育士らしき人物がいます。オープン初日のごった返す店内は「散歩」するには危険すぎます。保育士に常識がないのでしょうか。それともこんな保育士に預ける親に常識が無いのでしょうか。受け入れたニトリの問題でしょうか。いずれにせよ、二度とこのニトリに足を運ぶことはありません。

 オモチャ売り場ならともかく、棚を見上げることもある生活用品売り場で、足元に子供がいる店は、子供に怪我をさせたくないので避けることにしているからです。

 危険と言えば、たびたび話題にのぼり「社会問題」にしようと画策されているのが「満員電車のベビーカー」です。

 スタートから今後の不安しか見えない国分太一、真矢ミキ司会によるTBS「白熱ライブ ビビット」。その理由は放送初日にブログ(「白熱ライブ ビビットのビビットなダメ感」)に書きましたが、ともかく昨日の放送で「マタハラ問題」と絡めて、出演者が是非の「議論」するという企画がありました。

 多様な意見を求めるという大義はわかりますが、短いコーナーに7人の出演者が、意見を述べれば、それぞれが「ひとこと」で終わり、完全な企画倒れながらも目を惹いたのは、元NHKアナウンサーで医師で、サンダーバードの人形のような雰囲気をもつ吉田たかよし氏。

 もはやコメント芸人と化している西川史子が、満員電車にベビーカーで乗り込むことを肯定としたことを、医師として問題と指摘します。

「ベビーカーが必要な乳幼児には免疫機能が充分備わっていない。
 よって満員電車のような雑踏に連れて行ってはならない(要旨)」

 と、これには子供がいない私でも納得しました。

 ベビーカーと満員電車というモラルではなく、疫学的な指摘は、この手の議論で欠けているところです。

 西川史子は「仕方がないとき、乗らなければならないときもある」と論拠を示さず反論するのは、私と同じく子供がいないからでしょう。また、肯定の側に立ったのは国分太一と真矢ミキで、彼らにも子供はなく、かといって独特の視点での意見があるわけでもなく、視聴者を「子育て世代」と想定し、その味方に立ったつもりなのかも知れません。

 しかし、ベビーカーを必要する子育て世代はこの時間にノンビリとテレビを見ていないか、「Eテレ」を見せているか、あるいは

「スマホ」

 に子守をさせているので的外れ。MCの二人ともが、不見識を開陳したマイナスアピール。いつ打ち切られるのか楽しみにしています。

 私は満員電車が嫌いで、それは誰もが嫌いでしょうが、だから徒歩や自転車で通える会社を見つけ、独立したときに事務所に「自宅」を選んだのですが、特殊すぎるのは一般事例になり得ませんが、しかし、子供の安全を思うのなら、成長するまでの一時期、

「満員電車に乗らない」

 という選択はできないのでしょうか。西川史子が主張する「どうしても」の緊急事態には、児童手当から「タクシー代」を捻り出すことも可能だと思うのですが。

 さらに「ベビーカー問題」を全体で考えるとき、男女差というまた微妙な問題にも踏み込むべきと考えます。

 あくまで一般論で、個体差は除外していますが、昭和時代の自動車教習所は厳しく、とりわけ女性は苦労していました。

 いわゆる「車体感覚(車両)」を苦手とする女性は多く、外輪差や内輪差を掴みきれず、車庫入れやS字、縦列駐車で苦労していました。

 男性にも少なくはないのですが、程度問題と割合として、そもそも論として「ベビーカー」の取り扱いが下手な女性が多いのではないかと考えます。

 それは「ショッピングカート」でも同じです。そこにおけば、他の人の買い物の邪魔になるとしても、悪意もなく放置しますし、ぶつかりそうになることなど気にもしません。ぶつからないのは相手が避けているから、とは、いまの「ながらスマホ」と同じですが、これは余談。

 それでも自動車運転免許の取得を目指せば、否が応でも「車体感覚」を身につけるようになります。ところが「問題」となるのは、電車内など公共交通機関であることを考慮すれば、自動車運転免許をもっていない女性の可能性も高く、つまりは「車体感覚」を身につける機会もなく、「ベビーカー問題」を大きくしているのなら、マタニティ教室や保健所などと協力して

「ベビーカー教習」

 をすれば、問題の改善が見込めるのではないかということです。ベビーカーの取り回しが他人に迷惑をかけていることに気がつかなければ、マナーの向上を呼びかけても

「私たち、悪くないし」

 と反論されれば改善など期待できません。

 先の「ビビット」でいえば、金持ちキャラを演じていた西川史子、宝塚のトップスター真矢ミキ、ジャニーズの国分太一と、満員電車のベビーカーを認めていた3人共に、満員電車に乗ったことがないのではないでしょうか。

 是非、「ビビット」のテコ入れ企画として、この三人には本人と気づかれないようなメイクの上で、混雑時の埼京線あたりにベビーカーとともに乗り込む「体当たり企画」にチャレンジして欲しい物です。

 「マタハラ」についても、問題は改善すべきですが「ハラスメント=いやがらせ」って、感受性に由来するところが大きく、それがゆえに熱狂から遠い冷静な議論が必要なはずですが、女性の社会進出と少子化と絡めて「社会問題」にしようとうする風潮に首をかしげます。

 もちろん、マタハラにより具体的な被害が明らかな、例えば流産に追い込まれたのなら「傷害罪」として、退職に追い込まれたのなら「復職」あるいは「金銭補償」など、具体的な「救済策」の議論は急務です。

 しかし、「ふわっ」とした女性に優しい社会という結論は、その優しさに宗教的背景の有無や、伝統に基づく価値観のすりあわせなど難題が山積し、いま起こっている問題への解決策になりません。

 と、いうか、一方で西欧的な「女性の権利」を声高に叫びながら、その境界を求めると「空気を読む」といった日本人社会特有の解決方法を求めるのはダブルスタンダードで、生真面目な日本人を混乱させ、社会をギスギスさせるだけです。

 イエスとノーをはっきりとする印象が強い西欧人ですが、ルールに関しては「基本的合意」ぐらいの感覚で、当事者同士で話し合えば、いくらでも変えられると認識しており、それは世界標準では間違いではありません。

 一方、日本人の曖昧な返事は、各所で揶揄されますが、ルールは厳守するものと信じる国民が多数派で、互いが合意しても全体に及ぼす影響に「気を使い」、互いに不利な状況であっても甘受する傾向があります。

「同じ言葉でもいわれる人によりセクハラになる人と、ならない人がいる」

 とは「セクハラ」の頃からの課題で、マタハラもパワハラも同じです。「マタハラ」を社会問題として提起するなら、こうした境界線も具体的に引かなければ、いつまでも解決することがないでしょう。

 朝日新聞の捏造報道に代表されるように、問題が発覚したとき、外部の有識者を集めることは、どこでも行われることです。そこに一定の解決策を期待できるのは、利益当事者ではないからです。

 少子化を軸にした諸問題も、外部だから言えること、見えることも多いと、非国民ながら、今年度も提起していく予定です。

ブログ村に参加してみました。宜しければ右バナーをクリックしてください→ にほんブログ村 政治ブログ メディア・ジャーナリズムへ
にほんブログ村

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください