ゲスの川谷が離婚したとブログで発表。
呼応するかのようにゲスの片割れレベッカこと、ベッキーもTBS「金曜日のスマイルたちへ」で職場復帰しました。
実にどうでも良いことながら、熊本地震への寄付を、明細書付きでネットで喧伝して起きた「紗栄子批判」を「不謹慎狩り」と報じるマスコミに通じるので取りあげてみます。
それは「不寛容社会」。
マスコミは不倫のような当人同士以外に裁きようがない事例を断罪する庶民に対して「ネット社会」という文脈で批判しますが、本当に? とは街角雑感。
「不寛容社会」を体感することはありますが、それはネットと無関係な場面が大半です。
店主一人で営んでいる中華料理店で、食後のコーヒーを求めた老人に、店主が「用意していない」と断ると
「バーミヤンにはあった」
と怒りをまき散らしていきます。人気焼き肉店で
「無煙ロースターじゃない」
や
「炭火じゃない」
と愚痴をこぼすオッさんもいました。自分の望むサービスが提供されないことを「許さない」といった不寛容な態度です。
保育園の新設などで問題視される「子供の声は騒音か」という議論から、「不寛容社会」へと論点がすり替えられることもしばしばありますが、近隣住民への十分な説明もないままに、閑静な住宅街の土地を買い占めた企業が攻撃されることはありません。
新設が中止になった保育園で、報道が取りあげている事例はみな、民間企業によるものです。
ならば保育園運営企業が「銭ゲバ」の可能性は無きにしも非ず、実際、2年ほど前の週刊文春だか新潮だかが批判する記事を掲載していました。
子育て繋がりで言えば、公共交通機関へのベビーカーの乗り入れも、たびたび議論の対象となりますが、大荷物を抱えた「行商」のおばあさんが満員電車に乗り込もうとすれば白眼視されるのとまったく同じ話です。
子育ては大変なのでしょうが、その子育てはあくまでその家庭の事情であって、極言すれば私益の追及。行商と同じです。その負担を見ず知らずの赤の他人に押しつける神経を疑うべきでしょう。そもそも論でいえば、満員電車という子供が怪我をしかねない状況に置こうとする保護者の気持ちが私には理解できません。
自分だって子供だったのであり、子供のすることには寛容ですが、ベビーカーを操っているのは大人です。若いママとはいえ、知らなかったで済まされないのが、子の生命、安全を守るべき親であるならば、満員電車に乗り込む振る舞いが、批判されるのは当然でしょう。
社会に迷惑をかけていることに気がつかないことは、一般論として非常識と呼ばれます。非常識に不寛容であるのは、正常な市民感覚でしょう。
もちろん、非常識と理解した上での「やむを得ない」ことはありますが、理解した上で、どうしようもない状況で、仮に満員電車にベビーカーを押し込むのであれば、周囲に頭を下げて理解と寛容を求めるといった対応をしていることでしょうし、それでも不寛容な赤の他人がいることも知っているもので、
「ベビーカーで満員電車に乗ったら文句言われた、日本死ね」
とはならないことでしょう。
裏返してみれば、声の大きい少数派が「不寛容」の空気を作り出しているのです。
昔は寛容だったとはいいません。端的にいえば野蛮だったから生み出された寛容さがあったということです。
中華料理店で理不尽な要求をする客がいれば、そこに居合わせた別の客が口を挟むこともありましたし、それが老人なら「いい年をしてわがままを言って」と軽蔑によるリンチだってありました。
もちろん「暴力」も。
昭和時代なら満員電車にベビーカーを押し込んだママをひっぱたくオッさんだっていたことでしょう。女子供に手を挙げるのは最低と口うるさくいわれたのは、そんなクズが多かったからで、アメリカでは、いまだにことさら「人権」が叫ばれる理由と同じです。
女子供への暴力を咎める暴力もありました。いわば理屈よりも力が支配する局面の多い時代、それぞれが自衛策としての「寛容さ」、つまりは見逃す、許す、忘れるという所作を身につけていたのです。
いま暴力は絶対駄目、が大原則となっています。
だからキャンキャンとポメラニアンがうるさく吠えたからと、踏んづけられることはなくなりました。だから余計にキャンキャンと吠えます。
もちろん、うるさいのは極一部のノイジーマイノリティ。そして根本原因はその叫ぶ側にある、という当たり前をマスコミは報じません。
キャンキャンうるさいポメラニアンを、犬全体と設定するならば、「犬=うるさい」となり、それを排除する動きにスポットライトを当てるので「不寛容」が生み出されます。
保育園の新設にしても、我が町、足立区や、お隣の荒川区では新しく開園しており、むしろ中止に追い込まれているのは少数派ではないか。ならば、不寛容はどちらかという話し。
閑静な住宅街であったり、建設予定地の接道が狭小であったり、運営会社が銭儲けだけを目的としていても、保育園の新設は無条件に認めろとは、逆の不寛容さの押しつけです。
「保育園落ちた、日本死ね」などその最たるもの。保育園に受かった保護者が多くいて、幼稚園への通学を選択した家庭も多く、なぜ、一定以上の収入と環境がある家庭の「愚痴」を社会に押しつけるとは、それも同じく不寛容さの押しつけです。
と、ここまでがいつも通りの長い前置き。
ベッキー、乙武、ホラッチョ川上ことショーンK。ついでにCMが中止に追い込まれた矢口真里も加えておきます。
ベッキーの復帰のロードマップのためか、マスコミ各社が「不寛容」をキーワードに社会問題として取りあげようとしています。とりわけ「ネット社会」に病巣を見つけ出そうとしていますが、これも一部を持って全体に押しつける愚論です。
愚論に暴論で返すなら、
「芸能界は不倫に甘い、経歴詐称もなんのその」
が多数派です。
流れ弾を当てることになりますが、これらを主に報じるワイドショーのMCや出演者を見ていけば、フジテレビ「とくダネ!」の小倉智昭は、ラジオの文化放送アナウンサーとの不倫がスクープされ、否定しているとはいえ、状況証拠はベッキーレベルの黒さ。
同じラジオ局のつながりでは、すっかりと極左の活動家に成り下がった吉田照美は番組アシスタントの女性と、車内での接吻が、証拠写真と共にスクープされましたが、番組では黙殺し、突っ込んだのはタレントの「おすぎ」ぐらいです。
日テレ「スッキリ」の加藤浩次は海外ながら、売春宿での買春を公言しています。
その他、歌舞伎界には不倫どころか、隠し子がわらわらいて、二股三股の疑惑だってゴロゴロ。しかし、咎められることはありません。
経歴詐称は多すぎて割愛。年令や肩書き、実績が怪しい連中がぞろぞろでますし、本職であるIT系でいえば、専門家然としてレギュラー出演しているものらは、その発言そのものが怪しいことも珍しくありません。
一例を挙げるなら、5月3日の憲法記念日に開かれた、朝日新聞労組集会のイベントで、ネットの専門家としてウジテレビ、もといフジテレビで重用されている津田大介氏は
『ネットには功罪ある。オリンピックのエンブレム問題はネットが国策を変えた事例。良くなかった。「日本死ね」は良かった。』
と語ったとか。事実誤認と我田引水。染毛のしすぎは脳に何かの影響を与えるのでしょうか。
まず、東京五輪は事実上の国策としても、エンブレムは「国策」ではありません。
両者のジャッジメントもおかしい。ネット世論がというより、ネットの検証能力が、サノケンのデザインと、サノケン推しする電通とその一味の企みを暴いたのです。
この津田をはじめ、マスコミでは「電通黒幕論」が一切語られなかったことも、ネットでの追及をヒートアップさせたことに触れないのなら、ネットのド素人でしかありません。
テレビという制約で語れないのは、大人の事情として理解しますが、こうしたシンポジウムで語っていることが、彼の立ち位置と実力を証明しているのでしょう。
また、日本死ね。を取りあげたのは、幼児教育産業会の有名人で、民主党(現民進党)と繋がりの深い人物であり、告発したガソリーヌ山尾志桜里はいわずと知れた民主党の国会議員。
つまり、ネットの力というより「人脈」と見るべき事例。
匿名(ブログ)でも問題提起できたことを、ネットの功だとするならば、サノケンエンブレムだって同じながらの、ダブルスタンダード。
津田が活躍するマスコミはダブルスタンダード。だから、小倉智昭は見逃され、ベッキーは叩かれる。という見立ても出来ますが、それでは「不寛容」の説明がつきません。
というより、ベッキーに嫌悪感を覚えているのは、視聴者であり読者です。マスコミではありません。それでは両者を分けるのはなにか。
「テレビタレント」
だということです。
歌をだし、時々芝居のようなこともやっていましたが、ベッキーは「テレビタレント」です。
換言すれば「代表作がない」のです。
小倉智昭はMCとして活躍していますが、知ったかぶりと宣伝がちょいちょい鼻につくとは言え、それなりの博識を持ち、なによりプロ野球珍プレー好プレーのアテレコや、ラジオパーソナリティとしての人気と実力を備えております。歌舞伎俳優は言わずもがな。
対するテレビタレントは、可もなく不可もなしというか、熱烈な支持層が見当たらないのに、なぜかテレビに出続ける人らで、蛭子能収のようなクズを隠しもしないキャラクターは、余人を持って代えがたしですが、誰でも代役が出来そうながら、なぜか活躍というより出演し続ける人々がテレビタレント。
矢口真里も同じ。彼女は「モーニング娘。」というバックボーンはありましたが、小栗旬との密会発覚による強制退学。
テレビタレントが活躍するには、そもそもテレビ番組にキャスティングされなければならず、そこには事務所の力もありますが「好感度」が大きく影響します。実際には「潜在視聴率」という、そのタレントが出演するだけで期待できる視聴率という指数なのですが、好感度とほぼ同義といって良いでしょう。
唯一にして最大の武器が「好感度」で、つまり「好感度」を無くせば、ベッキーや矢口真里が活躍の場を失うのは当然です。これが「代表作なし」の「テレビタレント」の現実です。
お笑い芸人や歌手は「営業」という地方まわりや、舞台、最悪でも「路上ライブ」による「活動」はできますが、テレビタレントはテレビから離れてはなにもできません。
専門性を帯びた学歴や経歴があれば、講演活動という手段もありますが、ベッキーや矢口に語れるのは芸能界のことぐらいですし、講演活動も「人を集め」てナンボの人気商売。
ショーンKが仮に、バリトンボイスを活かしたラジオパーソナリティとして、世に出ていれば、今回のような経歴詐称が致命傷になることはなかったでしょうが、経営コンサルタントという芸風の「テレビタレント」ならばやはり同じです。
つまり、ネットが不寛容にベッキーを攻撃したから、ベッキーの活躍場所がなくなったのではなく、テレビタレントというビジネスモデルにおける致命傷が、不倫疑惑であり、さらには状況証拠から真っ黒ながらの否定だったということです。
さらには、テレビタレントは、プライベートの切り売りを求められます。ベッキーでいえば「ハーフ会」なるものを主催して、オフタイムを小売りしていました。ところが、都合の悪いプライベートには沈黙するなら、そもそも公開されていたプライベートは、プライベートではなかったとなり、三菱自動車における燃費偽装と同じく捏造だと、沈黙を持っての告白となったのは、矢口真里も同じく。
元旦那との、身長差、所得格差、などを織り交ぜたラブラブを各所で語っていましたからね。
ベッキー、矢口、ホラッチョと比較して、乙武洋匡氏が執拗なバッシングを受けなかったのは、迅速に事実関係を認めたという火消しの見事さだけではなく、身体的特徴を踏まえた専門性があったからです。
同じくゲスの川谷にしても、楽曲という専門性で評価が下されることから、活動は継続でき、それが評価されれば、早晩、テレビ復帰もあるでしょうし、受け入れられなければそれまでだということです。
つまり、不寛容な社会になったからベッキーが叩かれているのではなく、それが「テレビタレント」という職種の宿命だということです。さらに、反論の機会というか、再出発するための場所も、テレビにしかない・・・と考えているのが「テレビタレント」の限界です。
「電波少年」の受験企画で「家庭教師・ケイコ先生」として世に出た「テレビタレント」だった春野恵子は、修行を積み浪曲師と活躍していますし、テレビに呼ばれなくなったミュージシャンやバンドが、ライブ活動で多くのお客を集めている事例は枚挙に暇がありません。
この現実に向き合わず、ネットをスケープゴートとしながらも、「不寛容」と詰られた視聴者は反発を覚え、より不寛容になり、むしろベッキーや矢口真里の好感度を下げている構図に、運命の悲哀を見つけずにはいられません。