1846万票よりも2万票の主張が勝る

多数決を胡散臭いと疑っていました。家族や親戚、近所の友人と議論においては納得していた集団の意志決定方法でしたが、小学校も高学年に上がると学級会において、臭さが鼻につくようになったのです。

仮に「体育委員」を決めるとします。委員とは、各分野のリーダーという意味で、体育委員は体育の時間の整列や、ラジオ体操を主導するなどの役割が与えられますが、わたしの通っていた小学校は日教組の色彩強く、そこから「委員」なのかといま気がつきます。

学級委員(戦前から日教組教育が普及するまでの「級長」)を除いた、各委員は一般的には「係」ぐらいの仕事です。

ここで選挙が行われますが、大抵の役職は罰ゲームのようなもので、皆が押しつけあう様子は、20〜30年の時を経てのPTAと同じ光景でしょう。

しかし、教師は説きます。体育委員の役割を。それに相応しい人が立候補し、また、任ずるに値する人に票を投じるように指導します。

ところが、そもそも立候補者が、投票に値しないこともある。これは国政選挙にも通じ、創価学会と幸福の科学、そして小沢一郎の愛弟子しか選択肢のない東京12区在住のわたしの苦悩です。

これも多数決の欺瞞のひとつですが、小学生ながら胡散臭さを感じたのは、教師の発言=プロパガンダに左右されることです。あきらかに係の執行能力に欠けた児童が、新学期を期に手を挙げることがあります。

すると心意気は認めながらも、分相応の係への志望変更をやんわりと促すこともあります。それは「優しさ」かもしれませんが、本人の自主性を重んじるなら、立候補を認めた上で選挙という現実を突きつけるべきでしょう。

反対のケースもあります。お調子者のわたしは、学期毎に何度も学級委員に立候補しました。手前味噌ですが、その能力はありました。

「ミヤワキばかりにやらせて良いのか」

と誘導したのは、わたしの記憶が確かなら日教組の教師。発言を文章に起こしたなら、ミヤワキなる児童の負担を軽くするために、クラスメイトは協力すべきだというものですが、その場にいる誰もが「落選運動」だと気がつきます。

先に述べた「ある種の相場観」を気にしないKYなわたしでも、まるで「排斥運動」のような、他の児童の立候補を促す教師の言葉に、しぶしぶ立候補者が現れた刹那、立候補の辞退を申し出たものです。

選挙結果は明らかな、公開処刑に甘んじるほど恥知らずではありません。逆説的に選挙とは公平な環境が前提になることを体感します。

つぎは「人気投票」に過ぎないということ。3つの経験に学びます。

実は排斥運動を経験する前に、あきらかに力不足なクラスメイトが学級委員の対立候補として立ち、そのときは怯むことなく決選投票に挑んだことがあります。

テストで100点をとっても「当然」と誉めることのない父親でしたが、学級委員=級長だけは喜んでくれました。父の時代は、成績優秀で人望のある生徒を、教師により事実上指名され、それを承認する形だったので、バカでも山本太郎でもできる「立候補」とは重みが違ったのですが、家庭内で誉められる数少ないチャンスで、わたしの動機は誉められたいと、決して誉められたものではありません。

人前で臆することなくスピーチでき、議事進行のやり方を知っているわたしと、人前であがり、論理的思考ができない対抗馬とのポテンシャルの差はわたしにとっては明らかでした。

しかし、明らかだったのはわたしの脳内において。開票結果は明らかでした。負けました。能力はあっても人気はなかったのです。小学生のミヤワキを庇うなら、人気が「足りなかった」としておきます。

能力がなくても人気があれば当選します。その素地は小学校の教室にあります。

シミュレーションどおり、彼は学級会を仕切れず、毎回議論百出。能力不足のリーダーを選出した集団の不幸を小学生の頃から体験させておけば、民主党政権による国益の毀損はなかったのですが、国家転覆を謀る日教組においてはしてやったりだったのかも知れません。

わたしの黒い心は彼がさらし者になることを期待しますが、担任教諭は助け船を出し、こういいます。

「それでは皆さん、多数決で決めましょう」

その台詞なら、わたしひとりで言えていたことです。教室は能力の有無を問うことなく、人は平等という幻想を洗脳する機会に溢れています。

ランドセルを置き、学生服に身をつつみ、暴力の前には正義は無力と学んでしばらくたった頃です。学級委員などにはすっかり興味をなくしていましたが、形式上「生徒会」の役員となれば、一定の権力を入手できると知ります。

そこで「指定靴の廃止」を公約に生徒会副会長への出馬を表明します。2年生になったばかりのころで、会長への出馬は、前年の生徒会経験者だったような・・・うろ覚えですいません。

とにかく、選挙は「人気取り」だという仮説の証明です。いまなら脱原発です。実現可能性はともかく、人気の政策はぶち上げれば「民意」を背景にできると目論みます。

指定靴とは、母校においては白色の運動靴でした。一般的な校庭での体育の授業もこの靴で行います。労働と日常を共にする、実に共産主義的な光景です。メーカーが指定されており、購入するには隣の隣の、さらに隣ぐらいの街にある靴屋(スポーツショップ)に足を運ばなければなりません。

そこでわたしの狙いは「指定靴の廃止」を目標とし、「白の運動靴ならメーカーを問わない」を、学校側との交渉の落としどころと睨んでの出馬・・・すらできませんでした。

靴屋と体育教師は懇意で、リベートが支払われていたという噂が絶えず流れていましたが、この体育教師をバックにした、当時の担任教師による数時間にわたる説得活動に出馬を断念したのです。

教師曰く「買収と同じだ」と。利益誘導を買収とし、どれだけ町内の靴屋、近所のスーパーマーケットで運動靴を買うメリットを主張しても「買収」と同じだ。さらにはこういます。

「狡い大人と同じじゃないか」

このとき、地域外(指定店は他区、ちなみに北区。学校は足立区)の靴屋からの購入の正当性を問うてもまともな回答はありませんでした。狡い大人です。

この担任は被差別部落出身とカミングアウトし、その歪んだ被害者感情は、すべての生徒に侮蔑を埋め込むに充分すぎたのですが、これはまた別の機会に。

出馬を断念したのは、執拗な説得に飽きたからもありますが、我が母校には、のちに「ヤンキー(この表現はダウンタウンが東京上陸し当たりで普及したものです)」と呼ばれる階層の生物が存在しており、従う生徒には校則を強要する一方、彼の種族には「肝要」でることを知っていたのは、いまは亡き我が姉もこれに連なっていたからです。

平たく言えば「なし崩し」が通じることを知っていました。だから、自分のことだけ考えれば、強行出馬にメリットを感じなくなり、狡い大人に狡いと言われることに呆れたからです。そしてしばらく後に、気がつきます。

「人気取りの強さ」

だからリベート教師は大人げなく、出馬辞退を迫ったのです。

そして最後、わたしは晴れて「生徒会長」に就任します。都立高校の2年生のときです。いまでは申し訳ない気持ちで振り返るのは、同じ中学から進学した女子生徒も生徒会長選挙に出馬しており、彼女は1年生から生徒会の運営に携わっており、本来、適役は彼女だったと断言できます・・・と、だから申し訳ないのですが。

1年生の頃、

「誰も出馬しなければ、俺が立候補するよ」

そんな、軽口を悪友のまえでたたき、約束の履行をニタニタしながら迫られ、引っ込みがつかなくなったのが出馬理由です。推薦者はたまたま隣の席に座っていた女子生徒。悪友はみな高みの見物と逃げ回り、乗りと洒落で引き受けてくれたのでした。

選挙公約も兼ねて提示した「立候補者からのひと言」に書いた言葉は

「あ」

同、推薦者からは

「い」

あい=愛ではありません。ひと言なので「あ」と「い」。対立候補には心が痛くなるので触れません。母校のためになることが記されていたことでしょう。

そしてぶっちぎりの大差をつけて当選しました。いまでは罪悪感で一杯です。

幸いにも副会長以下、落選した彼女も執行役員として加わった実務者集団により、「ミヤワキ政権」はそつなく任期を満了しました。その場でスピーチするのはお手の物で、その場限りに適当な発言ができるのは、小泉純一郎のバカに比肩するかもしれない17才でした。

唯一の波風は就任直後、上級生の3年と乱闘事件を起こし、相手は3針縫う怪我をしましたが形式上は、わたしが袋だたきにあっていたと証明されたことで、無罪放免され上級生は停学処分。そして卒業生を送り出す「送辞」を、生徒会長として在校生代表で読み上げた目の前に3針縫った先輩がいて、感謝の言葉を贈ったことでしょうか。

真面目な立候補者として、出馬を断念させられた身として、不真面目なまま当選したものとしての結論が、選挙に代表される多数決とは「人気投票」です。

またプロパガンダに弱く、それは公平で正しい判断を下せる有権者が極めて少ないことを意味し、出馬断念を迫った教師が教えてくれたことは、有権者は利益誘導に弱いということです。この前提条件の上で行われる人気投票が多数決。

多数決とは胡散臭いのです。

都知事選挙における、細川護煕と小泉純一郎のバカへの悪口は、前回したのでここでは控えます。

「都知事選挙の結果が国政に影響を与える」

ニューヨークのアゲハチョウの羽ばたきにより、上海に大雨が降るという寓話を「バタフライ効果」と呼びます。日本的には「風が吹けば桶屋が儲かる」に似ています。

仏教的な因果律にたてば、すべての行動は他人に影響し、細川護煕と小泉純一郎のダーティペアの動きが国政に影響を与えるかも知れませんし、脱原発に悪影響を与える可能性と同じくらいに存在します。

放射脳や脱原発の過激派は、目的のためには手段を選ばずという状態になっているので、正しい判断ができなくなっています。また、「アンチ自民党」というイデオロギーの保菌者達も、高い支持率と議会の多数を握る安倍(首相)憎しが正常な判断を奪い、放射脳に心情的な同調をしています。

しかし、だからと先週指摘したように、原発の立地自治体でもなければ、株主ではあっても議決権では対立する政府に遠く及ばない都知事が脱原発を掲げ、悪夢のようにそれで当選し、都政を混乱に陥れながらゴネ得として脱原発へと引きずられたとします。

ただでさえ胡散臭い多数決が意味を為さなくなります。それは沖縄を見れば明らかです。

沖縄の普天間基地の移設候補地となっている、辺野古を抱える名護市の市長選挙で、基地反対の現職市長が再選しました。名護市の民意、すなわち多数派は基地反対となりました。

「最低でも県外」と叫んだ、人間的資質として首相の圏外にいたルーピーを総理にした罪は、広く日本国民が背負わなければ、先の戦争の反省はありません。

最終的には「軍部の独走」で一括りにしていますが、そこに至る過程において民意が反映されており、事実上の軍政下においても戦勝報告に狂喜乱舞し、真珠湾攻撃の成功を受けて提灯行列でお祝いしたことが、指導者の暴走に確信を与えたのは我らの近い祖先です。※当時の常識からみれば気持ちは分かりますが。

誰かの責任に転嫁することで、同じ過ちを繰り返す。それはどこか恋愛に似ています。だから民主党政権という負の遺産は、戦争の記憶と共に語り継がなければなりません。

再選を果たした稲嶺名護市長は、持ちうるすべての市長権限を駆使しての、辺野古地区への基地移転の妨害活動を宣言しています。

地方自治と国政は別。法律もこれに従います。ここで法律論争は展開しませんが、一般論として地方は地方、政府は国家レベルの諸問題を取り扱うとします。

それでは「地域」の絡む国政レベルの事案の場合はどちらが優先されるべきでしょうか。まず「地域」だとします。すると基地の移設先である名護市としては「反対」となります。朝日、毎日、東京新聞はこれを民意として、政府に自制を迫ります。

ただし、これら東京に本社がある新聞社は、驚くことに日米同盟の持つ意味も、ぼんやりながら知っているようで、朝日新聞は選挙翌日の社説で、正面切って

“名護市長選 辺野古移設は再考せよ”

と政府に迫る見出しを打ちながらも、本文では

“政府は県外移設も含め、もう一度真剣に検討し直すべきだ”

というのが精一杯のようで、これはダメな企業の会議によくみる結論で、平易な言葉に翻訳すれば

「先延ばし」

といいます。

朝日新聞は、昨年末の安倍首相による靖国参拝で、米国が「失望」を表明したことを大袈裟に騒いでいましたが「最低でも県外」と叫んだバカのせいで、日米同盟にはいった亀裂の深さ、大きさを忘れていなければ、本当に県外移設を含めた再考に日本政府が取り組んだ日には、「失望」レベルの慨嘆で収まるわけがありません。これを二枚舌、ダブルスタンダードといいます。

地域の声が何よりも大切で優先されると仮定します。ならば、「辺野古地区」だけでの投票結果で決めるのが筋でしょう。

地域別の得票率の資料が見つからなかったので、産経新聞の記事からの推測に過ぎませんが、移設に期待した辺野古の住民からは失望の声が聞こえてきます。

しかし、資材の運搬や、基地に出入りする米軍及び、オスプレイが飛び回ることをもって、辺野古に隣接する地域の人が苦情を唱えるかも知れません。その気持ちは分かります。

あるいは再選を果たした稲嶺市長がこういうかも知れません。

「辺野古は名護市の管轄」

なるほど。その主張もごもっとも。ならばと問います。

名護市は沖縄の一部で、県知事は基地移設を容認しました。名護市は沖縄県に所属するのですから、辺野古も沖縄県知事の管轄という見立てもできます。地方自治法に基づく、つっこみはしばしお待ちください。

さらに沖縄県は中国共産党を除けば、世界中が日本のひとつの地域であると認めています。すると「辺野古は日本の一部」と当たり前に帰結します。

ならば、国を治める政府の管轄ともいえます。そして「在日米軍」はまごうごとなき国政案件。

地方自治法ではそれぞれの自治体に、名の通りの自治を認めており、同時に上位団体との役割を分けています。重なることもありますが、ざっくりといえば、より大きな公共が優先され、ましてや都道府県レベルの案件、国政レベルの案件では、それぞれに有利な権限を与えているものです。

もの凄く単純な話しにすれば

「ひとりの利益より、10人の利益」

を優先させるための仕組みです。

数年前にブームとなった、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』で、

“1人を殺せば5人が助かる状況があったとしたら、あなたはその1人を殺すべきか?”

という問いかけに感動するバ・・・人々が量産されましたが、数が多いほうを優先することは、リアルにおいてのリーダーの決断としてはもちろん、生物学的にも正しい振る舞いです。

議論の余地があるとすれば、殺される人の資質や能力との比較で、菅直人、鳩山由紀夫、野田佳彦、細川護煕、小泉純一郎の5人と、1人の山本太郎参議院議員なら、非常に難易度の高い問題となりますが、うっかり答えは「全員」となるやもしれません。

そして民主主義社会において、多数決を決定方法とする以上、多数の結論は優先されなければなりません。

だから名護市は市長選で、基地の拒否だと答えを出した。

基地を拒否した名護市の稲嶺進市長は19,839票。
基地移設を容認へと舵を切った仲井眞弘多沖縄県知事は335,708票。

圧倒的な差です。そして昨年夏の参議院選挙における自民党の得票数は比例で1846万票。辺野古への移設を進める現政権への支持は、桁がふたつもみっつも違います。

数の横暴を許すのか。とは論外。多数決による意志決定の本質は数の横暴を許すからです。あとは多数派が、どれだけ少数派に配慮するかで、札束で横面をひっぱたたくのか、紙幣を扇状に拡げそよ風を吹かすのかは、選挙や多数決とはまったく別の議論。

朝日新聞に代表されるのですが、一方で民主主義を謳いながら、民主主義における集団意志の決定方法である多数決を無視する主張を平然とするところに、この国の問題があり、担任教師のプロパガンダによる議論誘導と同じで、共産主義の片鱗を見つけます。

余談ながら、平等や人権を叫ぶものは、誰よりもそれらに敏感で、ひとたび権力を手にすると、平等と人権の定義をできるのが自分だと錯覚します。中国共産党が体現していますし、朝日新聞にとっての公正な報道とは赤旗新聞と聖教新聞に比肩する自説の拡散で、オバマが自分と米国民主党のためにしか政治判断をしないようにです。

名護市の件については、政府側の粘り強く、しかし着実に、そして確実に政府と自民党が悪役になりながら、基地移設を進めていかなければなりません。

なぜか。「現地の声」を本当に大切にした暁には、

「普天間(宜野湾市) VS 辺野古(名護市)」

となり、沖縄県民同士の感情対立を招くからです。どうせ、沖縄タイムスや琉球新報というプロパガンダ新聞により悪役になっている自民党なのですから、政府が前面にたつことで、これ以上の痛みを沖縄県民に背負わせないことを切に願います。県外は論外。ついでに公明党とも袂を分かつなら最高ですが。

先に挙げたように、日本国民を分母としたとき、基地移設を掲げた自民党政権を支持した数が圧倒的に多いことは明白です。

それでも「現地の声」というのなら、ただでさえ胡散臭い多数決はその正当性を失います。

昨年の参院選で辺野古移設を支持した1846万票の声よりも、2万票弱の主張が勝るのですから。マイノリティーの横暴とは言い過ぎでしょうか。

そもそも多数決は胡散臭いものと考えます。だからその結果を持って絶対的な結論とするのは乱暴で、参院選挙の得票数と、名護市の市長選挙の数字を単純比較するのはフェアではありません。

しかし「選挙結果」を最優先しろとの主張は、切り取り方ひとつで論理が簡単に破綻するということです。理由は簡単、プロパガンダの影響を受ける人気投票に過ぎないものが多数決だから。胡散臭いのは当然です。

それではどうするか。大人なら誰もがしっている方法が「話し合い」です。選挙結果を踏まえた上で「落としどころ」を探るのが大人の所作ですが、徹底抗戦を掲げる名護市長と、脱原発しか主張のない首相経験者の都知事候補者に欠けているものです。

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