韓国人のメンタリティ、活動を知る一冊となります。
朝鮮半島北部に暮らした日本人が、敗戦濃厚となり追われるように母国を目指す少女 擁子(ようこ)の物語です。朝鮮半島北部とは、現在の北朝鮮であり、赤化した兵士達の残虐性が・・・というほどのことはありません。
当時12才の少女 擁子の目に映る世界を中心に描かれることから、残虐行為も事実を述べるにだけで「はだしのゲン」的な創作も誇張もありません。
むしろどう生き抜いて行ったかにフォーカスが当てられ、辛くも逃げ延びた日本で、同胞の日本人、それも同年代の少女たちによる仕打ちのほうが、人間の残虐性を端的に表現しています。
松村伍長との宿縁に追われ、救われ、涙します。
そしてラストシーン、擁子を「ちっちゃいの」と呼ぶ声に涙腺が崩壊し、帯の裏表紙にある著者の笑顔に「よかったね」としゃくりあげます。
で、なぜ、韓国人のメンタリティがわかるかといえば、本書は1986年に米国で刊行され、いくつもの賞を受賞し、中学校の教材として採択されました。
それから20年経った2006年。在米韓国人二世達が火病(ふぁびょ)ります。火病とは、朝鮮人の精神的性質を表すもので、狂気的熱狂といったところでしょうか。一度思い込むと気を失うまで、自己主張をやめはしません。
韓国人(国籍上はアメリカ人になりますが)たちはいいます。
「日本人を被害者にするのは、日帝の支配により傷つけられた朝鮮人民の被害、犠牲、苦痛を与えた歴史を正確に書いていない」
とか
「強姦について写実的に描いており中学生が読むに相応しくない」
とかね。なにより、朝鮮人が少しでも悪く書かれていることを連中は許せないのです。そして活動します。作品を作品と理解する心などありません。余談ながらパクリが平気なメンタリティは、そもそも作品へのリスペクトがないからで、同様に作品も権利も蹂躙できるのです。サムスンなどに通じますね。
誤解無きように捕捉しておきますが、そういうメンタリティや、文化的な背景、風俗があるということです。欧米人が生玉子やイカタコを食べないようなものです。
ただし迷惑。説明を尽くしても理解を期待するのは徒労。
それを痛感する一冊です。
物語の後半には、親切な朝鮮人により救われるエピソードも登場します。見知らぬ擁子の兄を親戚として匿い、息子と呼びかける朝鮮人家族の話は、いまこう書いているだけで目頭が熱くなります。
ところがそれらも含めて否定するのが朝鮮民族の政治活動です。
政治と国民は違う。それは本当。心温かい朝鮮人もいます。しかし、政治とは国民や民族の集合意識の体現です。日本人には理解しがたい・・・というか、日本人でも「集団」になると傍若無人に振る舞う、あのサッカー日本代表に便乗して渋谷で暴動を起こす馬鹿者を思えば、近いかも知れません。それが常態であること理解する手がかりとなります。
■竹林はるか遠く
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