ウジ虫が湧き出るすがたを読ませてトラウマにしてほしい

 松江市教育委員会が「はだしのゲン」に閲覧制限をかけたニュースが日本中を駆け巡りました。騒動を受けて、制限は解除されましたが、わたしが一報を受けて感じた違和感はこう。

「逆じゃね?」

 いわゆる日教組が喜ぶような内容の作品だからです。

 わたしが「はだしのゲン」を読んだのは、小学校6年生ごろだったと記憶しています。当時、公立図書館にある漫画本といえば、ゲンか「手塚治虫全集」や「漫画日本の歴史」ぐらいで、それでも漫画を気楽に買えるほど豊かではなかったのは、育った街が理由なのか、どちらも貸し出し中が多く、飛び飛びで読了しました。

 それが故に話しも飛び飛びになり、お陰で「洗脳」も弱くて済んだ・・・というより、違和感に気がついたのですが、作品の初期は主人公ゲンの周辺に起こった出来事を中心に描かれ、原爆投下後の情報が少ない(世界初なので存在もしなかったのですが)世界に翻弄される民衆の姿にリアリティを感じたものです。

 ところが話しが進むに従って、伝聞情報が多くなります。放射脳(意図的誤字です)に関する伝聞情報はもちろんですが、そこで増えるのが日本軍や日本人の残虐性です。

 ただし、飛び飛びだったがためか、わたしはこう解釈しました。

「原爆投下直後の流言飛語と同じだろう」

 作者のアイロニーと理解していたのです。この解釈を手助けしたのは少し前に触れたように、家族や親戚、知人のオジサンたちから聞いていた「歴史」によります。尊敬された日本軍、植民地支配から解放した日本軍、対してモンキーと称して人間以下に扱っていた白人ども(知人のオジサン談話より)の残虐性との対比の中で、作中の表現をそのまま受けとることはなかったのです。

 余談ながら、本土空襲が激しくなった頃、逃げ遅れた民間人を米軍の爆撃機や戦闘機が、機銃掃射でゲームのように殺して楽しんでいた米国軍のエピソードは枚挙に暇がなく、日本維新の会共同代表の石原慎太郎もその経験者で、ついでながら民間人の虐殺により問われる戦争犯罪は万国共通・・・のはず。ところが日本の戦争犯罪を声高に叫ぶ日本人は、日本人が被害者になった戦争犯罪に鈍感です。これも奥ゆかしい日本人だからでしょうか。もちろんイヤミです。

 ゲンに関しては最終的に、被爆後に抜け落ちた髪の毛が生えてくることから、

「ハゲが治る」

 と希望を得るわけですが、いま思えば被爆による被害と言うより、精神的動揺からの脱毛症と考える方が自然です。

 「はだしのゲン」は「週刊少年ジャンプ」で連載されていましたが、後に左派系の雑誌を転々とし、政治的色彩を強めています。そこから作者の本来持っていた思想に加え、ある種のバイアスがかかっていると見るべきでしょう。商業誌に掲載される以上、掲載誌の色に染められるのはよくあることです。思想弾圧というレベルではなく、少女漫画誌「花とゆめ」に「嗚呼!!花の応援団」が掲載されないようなものです。

 そして冒頭の閲覧制限に戻ります。

 ネットに流布する情報に依れば、ネトウヨの抗議を受けて、作品中の残虐表現が問題視され制限に至ったとのこと。これについては松江市教育委員会は否定しますが、騒動が拡がり、閲覧制限は解除されます。

 表現の自由をなによりも大切とするなら当然のことです。是非、幼稚園児にも皮膚が溶ける描写や、包帯を交換しようとしたら、腕や足の筋肉にウジ虫が湧き出るすがたを読ませてトラウマにしてほしいものです。

 そもそもそれが「平和教育」に繋がるどころか、マイナス面もあります。猟奇的描写に興奮を覚える人種は確実にいるのはゾンビ映画が廃れない理由のひとつです。大人が喜ぶ情緒を破壊する(刺激する)可能性もあるのですからやってご覧なさいな、ただし、我が子でねと。

 ゲンについての結論は、フィクションだということ。

 思想的バイアスのかかったフィクションですが、原爆後の世界の一端に触れることができるのは、映画「男はつらいよ」において人情や純情に触れるようなもので、それは作品がもつ力ではありますが、寅さんの生き様(フィクション)の描写は、テキ屋になることを推奨する目的ではないことと同じです。

 仮に子供が読んでいれば、大人の仕事はそれがフィクションだと教えてあげることです。フィクションとは、こうなって欲しいなぁと言う作者の願望の投影であり、嘘と希望は紙一重であることまで辿り着けば言うこと無しです。

 曽野綾子さんは「小説家」を「嘘をつく職業」と自ら語ります。卑下しているのではなく彼女流のアイロニー。魔法が使える空が飛べるとまでいかなくても、架空の家族、恋人の話とは、すなわち嘘だからです。

 それに習うなら「平和教育」とは希望の垂れ流しに過ぎません。

 なぜなら、世界に暴力は溢れており、イジメがなくならない理由にも通底する人間の残酷であり、本能的な真実だからです。そして本旨からずれるので触れませんが、米国がシリアへの空爆準備を進め、本日の株価は超下落が予想されています(午前8時41分現在)。

 最たるものが「憲法9条」。条文として習ったのは、日教組の活動家によるブリーフィング(一般的表記においては現代社会、公民の授業)です。自衛隊を憲法違反と断定し、その洗脳活動をしていた俗に担任教諭と呼ばれる活動家によります。

 以下に憲法を記します。

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 率直に「おかしい」と感じたものです。

 話し合いだけで解決しない人間の真実を知っていたからです。話し合いだけで解決するなら、ヤクザもマフィアも抗争しません。話し合いだけで解決するなら、米ソが核開発競争をする理由がありません(当時)。話し合いだけで解決するなら、夫婦げんかなど起こるわけがありません。

 幸運にも小学校6年生にもなる頃には、世間には理不尽が溢れ、平等など幻想に過ぎないと知っていました。平和もまた、ひとときの状態を表すのであり、恒久的に続くものではないと知っていました。

 机上の空論ではありません。当時、同居していた実母は、家庭のなかで母親を演じることに不向きな人であり、経済観念も鈍く、一方で、社交性は異常に高い能力をもっていることから、家庭内に波風を立てる特異な能力を有していたのです。彼女が家を出た中学二年生まで、毎月のように家庭にトラブルは絶えず、ブラウン管の向こう側の「磯野家」がフィクションであることを知るには充分な時間を与えられ過ごしたものです。

 一個人の話と国家や外交は違うと否定するでしょうか。わたしは延長線上にあると考えます。文化や風俗、なにより「宗教の違い」と言った極めて個人的事情が、戦争の火種となるからです。

 憲法に戻ります。何度読んでも「てにをは」を含めた文章がおかしいのですが、それが理由ではありません。内容です。

 まず「永久」。

 人類史とは戦争の歴史と言っても良いでしょう。また、価値観とは時代により変遷します。それを昭和二十年如きに「永久」と宣言してしまった浅はかさを笑ったのです。

 如きとしたのは、進歩史観に犯されていた当時のこと。つまり、時代と共に人類は進化すると盲目的に信じており、まもなく戦後から四十年(わたしが小学6年生当時)を迎えんとする、現代社会を過去が規定したことを嘲笑したのです。

 さらに言えば、

「写真に映れば魂を抜かれる」

 的な非科学的な妄言のように見えたのです。米ソの冷戦真っ只中で、ソビエトはアフガンに侵攻していた時代です。どうして過去が未来を縛ることができるのでしょうか。まして、未来の国民の生命財産を脅かす可能性のある条文に「永久」といれているのです。それは敵国の攻撃により、生命の危機に直面している未来の国民に死ねというのに等しい宣言です。

 第2項の武力不保持と、交戦権の否定はわが家の教育です。

「敵を目の前に逃げ出し、言い訳を重ねるものを卑怯と呼ぶ。
 卑怯とは男子にとって最悪の蔑称だ」

 どれだけきれい事を列べても、敵と対峙して戦わないものを卑怯と亡父は定義し、そう教育されて育ちました。

 すると戦うべき武器と、戦う選択肢を放棄するなど論外です。

 つまり、わたしにとっての9条はフィクション以外の何物でもないのです。その9条を軸とした、憲法改正について議論が起こりつつあります。

 憲法を改正すると徴兵制になり戦争が起こる。

 フィクションです。一般的には戦争が起こり、職業軍人から志願兵に拡大され、さらに拡充されるために徴兵制が敷かれるという技術論ではありません。

 憲法改正の手続きと、開戦の手続きはイコールではないからです。また、徴兵制を敷くには法律改正が必要で、今後3年間は国政選挙が無いと見られていますが、だからといっていま、徴兵制を議題に挙げれば、いかな自民党でも党が割れることは必死です。民主党ほどではないにしろ、右から左までいるのが自民党です。

 つまり、一度以上の国政選挙を経ないと徴兵制は実現せず、むしろこれが争点となれば、低いと嘆かれている投票率は上昇するかも知れません。

 繰り返しになりますが、憲法9条をフィクションと考えます。ただし、多数決によりそれを望む国民が多いのなら、その共同幻想に従うのが民主国家のルールです。

 だから堂々と憲法改正の議論をすれば良いのです。そして改正の手続きにおいて、9条が是認されればそれが国民の選択です。改正されたのなら、それもひとつの結論です。さらにさらに、改正されたという事実を経ることにより

「改正後に再改正」

 という可能性も生まれるのです。

 いま一番の問題は、議論すら許さない空気であり、それは「はだしのゲン」の後半に繰り返し誇張して表現される、戦中の空気と同じです。

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