絶望と希望の正体〜若者への提言

この年末年始はカレンダーの並びがよいためか、なんだか腑に落ちるスケジュールを過ごせました。官公庁の仕事納めは脇に置き、中小企業らしく4日まで休むとしたら、5日は土曜日だからついでに休んでしまおう、あるいは卸しや小売りならば、5日は日曜日でも開きますが、今年は土曜、ま、一日開いて翌日曜日はお正月の延長戦とお屠蘇気分を楽しめたことでしょう。

曜日の並びは規則的に廻ってくるもので、冷徹なプログラムに埋め込まれているものですが、接する庶民の視点からは「運不運」に見えるから不思議です。

さて、その運、不運といえば「世代間格差」という言葉が聞こえるようになってから、若者は得か損か的な話しがよく聞こえます。

近頃、鼻につくのが古市憲寿氏。基本的に若者については生ぬるい目でニタニタと観察することにしているのですが、27才の若造(と、吐き捨てるように言えるようになった自分に、いいね!)とは言え「社会学者」を名乗って馬鹿面下げてメディアを席巻しているのですから、きっちりと名前を挙げて指摘しておきますが、彼の底の浅さは尋常ではありません。それについては後ほど語るとして、若者が幸福か不幸かなどそもそもの議論がナンセンス。

幸福とはJIS規格で定められる工業製品ではないからです。

というわけで今回は、来週の月曜日の成人の日直前&新春特別規格「若者への提言」。

先の曜日配列の幸不幸も、受けとる人によって異なります。例えば東京都の公立学校の児童生徒なら、元日が土曜日ならば、始業式(2学期制の場合、授業開始日)は8日と決まっているので、それが土曜日となり週休二日制で休み。すると9日の日曜日で月曜日からかと思いきや「ハッピーマンデー」により10日も休みとなります。

さらにこの配列の場合、二学期の終業式の25日が土曜日となるので17日間の冬休みが確定するのです。半月以上の休みです。脳みそは空になりますが、子供にとっては幸せです。ちなみに、いま、子どもとなっていますが、こちらのほうが「ども」という見下した連れの表現となるので本稿では漢字を使用しております。

それに付き合わされる親は・・・はともかく、子供にとっては、勉学の機会がグッと減るわけで、大人になったときに、このロングバケーションを不幸と確認する日もあるでしょう。

運、不運というのは見方や考え方でガラリと変わるもので、ましてや誰かにいわれてどうこうというものではなく、つまりは自分次第でいくらでも幸運になれる、というのがオジサンミヤワキからの提言です。

先日のテレビ朝日の一部プロパガンダを含む朝の情報番組「モーニングバード」にて、安倍政権へのイヤミを垂れ流す企画のなかで大田区の町工場に景気が良くなるかというインタビューがありました。

ところで政権交代後は100日間文句をいわないという「ハネムーン」はいったどこにいったのでしょうか。隙を見つけると、あるいは憶測や推測や妄想で、ケチをつけ始めている連中の大半は、民主党政権を救世主と崇めて偽予言者達です。路上で見かけたら石をぶつけて上げてください。たぶん、それでも反省しないでしょうが。

コホン。町工場の主は答えます。

「良くならない」

円安、株価上昇に触れても、自分の所は良くならないというのです。しかし、大田区の町工場ってもう何年景気が悪いのでしょうか、というより、それでもまだ続いているのが不思議でなりません。もちろんテレビ番組は企画のために、都合の良いコメントしか採用しないので大田区の工場全てがそう思っているのではないでしょう。

しかし、若者向けなのでいつも以上に厳しく言います。

「そんな奴に仕事をださん」

これは世の中の真実です。

「不景気面している奴には貧乏神しかやってこない」

精神論ではありません。発注者の立場になってみてください。

儲かっていない、成功していない、上手く行かないとぼやく会社があったとします。発注できると言うことは、少なくとも仕事があるということです。その大切な仕事の発注先です。あなたはこう考えることでしょう。

「あの工場には何か問題があるのではないか」

まず、腕が悪いのか。つぎに納期を守らないのか。あるいは腕の良い職人が辞めてしまったのか。

ビジネスにおいて人柄は二の次です。本当にずば抜けて腕が良ければへそ曲がりにでも仕事を依頼します。反対に笑顔爽やかに腰が低くても、腕のないやつに金を払うバカはいやしません。

そして儲からない、よくならないと不景気なことをつぶやく工場に仕事をだすことに不安を覚えるのです。

他方、いつも元気で笑顔を絶やさない工場があります。さすがにご時世からボロ儲けとはいわないまでも、なんとか頑張っていますと爽やかに断言する社長です。

どちらに発注するかは自明でしょう。

これ「景気は気から」という言葉の意味です。

笑顔の社長も実は子の給食費を支払うために、夜中にコンビニでアルバイトをしているかもしれません。しかし、それを取引先にみせることなく、元気で接する・・・景気などというのはそういう気分、気持ちの持ちようで良くなる・・・し、悪くもなるのです。

大田区の工場のインタビューをみて背筋がゾッとしました。顔を出していたので取引先は、もちろん誰かわかります。よく顔を出して「よくならない」と答えられたものだと、業種は違えど、商売をするものとして恐ろしくなったのです。

幸運もまったく同じ。良い運に恵まれている人生と考え生きている人には幸運がやってきますし、反対ならそちらが列を成してやってくるだけのことです。

幸運と不運のどちらを選ぶかは自分次第なのです。

ただし、それはいまの自分を甘やかすという意味ではありません。
「道徳」ではなく「投資」という視点ね。

若さとは可能性です。
あるいは豊富な選択肢といっても良いでしょう。
そして失敗しても再生する復元力があります。端的に言えば、キズの治りが早いのも若さです。

だからこの時点で、いまある環境、それを幸せと感謝こそすれ、安住すれば、未来は確実に今より悪化します。一生、腰パンを通すと吹いている小僧だって、いずれ腰痛を友とします。皮膚はたるみくすんでいくことを止めるコトなどできません。各種美容品はブレーキにはなっても、アクセルとすることはできません。

外科的な整形手術という選択肢もありますが、その為にはお金が必要ですが、ユニクロのフリースを買うほどリーズナブルでありません。

若者には信じられないことでしょうが、目も悪くなることでしょう。個人差はありますが、遅かれ早かれの問題です。特段ケアをしなければ体力も落ちていきます。

残酷な結論をいいます。身体が大人になった瞬間から老化は始まっているのです。

で、加齢した人生を助けてくれるのがお金や知識、経験です。

つまり自分の将来のために、いまの自分を現状に甘やかすことは大変リスクを伴う行為だということを覚えておいてください。

先の古市憲寿氏の唱える「若者論」とは片側からしかみていません。しかも「過去」については、彼の創造。三丁目の夕日をみて妄想を膨らませているとしか思えない発言が目立ち、それは「2ちゃんねらー」レベル、いや2ちゃんねらーに失礼でした。

例えば過去について「将来に希望があった時代」といいますが、
まるでバラ色のなにかが輝いてかのようにいいますが、それは妄想にすぎず、過去を賛美する年寄りの回顧趣味をそのまま真実と信じ込んでいるなら社会学者などと、恥ずかしくてわたしなら名乗れはしません。

なぜなら高度経済成長期に生きた人間の本音はこう。

「毎日が必死だった」

希望なんてありません。終身雇用だって結果論です。景気が右肩上がりで、将来に溢れる希望が輝いていたから、誰もが必死に働いたのではありません。そんな国は地上の楽園と詐欺を働いた北朝鮮ぐらいです。

「必死に働かなければ食べていけなかった」のです。

また、こんな寝言もしれっと吐きます。

<今の50歳くらいの人が若者だった1980年。僕からしてみれば、逆に彼らのほうこそ「不幸」に見えてしまう>

バカですね。公衆電話に10円玉を積み上げ、曇る電話ボックスのガラスに相手の名前を書いては消した甘美な記憶を不幸としか見られないのですから。

両家の対立に引きさかれる運命と闘う「ロミオとジュリエット」をみて「親なんて無視すればいいじゃん」という渋谷あたりを闊歩するJKやJCと同じです。

彼のバカさ加減は想像力の貧困さから来ているのでしょう。

NHKか何かの番組に出演した際、大学のレポートにネット検索のコピペが多くて困るというような話しを、しかし昔の学生のほうが可哀想と無理矢理引き取り、こう続けます。

昔は分からないことを図書館で調べても、そこで見つからなければ終わっていた。いまはネットで色々調べられる。

国辱級のバカです。かつてバカといわれた若者だった記憶から、若者に対して寛容なつもりでしたが、救いようのないバカがいるのだと嘆息。さすが「マスゴミ」が使うはずです。

若者に正しい過去を伝えておきます。自分で調べて分からないことがあれば、むかしの人はどうしたか。

「人に教えを請うた」

のです。子供の頃は兄や姉、近所の年長者に親や親戚、長じてからは先輩、先生、その道のプロ、師匠に。図書館でしかものが調べられなかった・・・という発想で過去を騙り学者を名乗る厚顔さを「バカ」と罵ります。

あるいは図書館でも、本当に隅から隅まで正しい角度から調べて見つけたのかどうかも疑問です。そしてその図書館の蔵書になければ、別の図書館へと渡り、あるいは書店をめぐったものです。

確かに「ネットで検索」は便利でしょう。しかし、こうして調べたことを不幸といわれる筋合いはなく、足を運んだ図書館で、初恋の彼女と偶然であったときのトキメキを経験できない、いまの若者を不幸・・・とはいいませんが。

それより、分からないことを人に訊ねるプロセスから得たノウハウは、訊ねて得た情報よりも、いまに生きています。

古市憲寿氏の論の浅はかさは救いようのないレベルで、マスゴミが持てはやしているので、このまま愚にもつかないことを言い続けて人生を終えるのでしょうから、それはそれで幸せな生き方なのでしょうからまぁいいとして、若者への提言。

「年寄りの話は今しか聞けない期間限定品」

先の某学者だけに罪を着せるつもりはありませんが、三丁目の夕日のような懐古趣味により書き換えられているものは、正しい経験でも知識でもありません。それは、自費出版レベルのフィクションです。

しかし、いま現存するわたしも含めた年寄りの話しというのは、今しか聞けない期間限定のレアものです。なぜなら死ぬから。みんな間もなく、たぶん若者よりは先に。そして死ぬまでいかなくても、老境に達すると懐古趣味で歴史に砂糖を振りかけ始め物語に変質してしまいます。

会社の先輩でも、親戚のオジサンでも記憶が発酵して糖蜜になる前の話しなら必聴です。チャンスタイムとみみを傾けてください。

そしてそれがなぜ必要か。

「人間の本質は変わらない」から。

だからジジィやババァどもが失敗した、成功した経験の原則はいつの時代も不変です。公衆電話をスマホにアジャストする必要はあっても、愛の駆け引きはいまも昔も同じです。

RPGでいうところのいわゆる「経験値」を得ることができるのが、年寄りの話と言い換えても良いでしょう。

と、大上段に構えて講釈垂れていますが、かつてネットもスマホもなかった時代は当たり前だったこと。

わたしのオリジナルではありません。あえてそれを言葉にするなら「人類の叡智」。この縦軸の財産は「ネットで検索」では見つからず、それを知らないことは主観をあえて越境して

「不幸」

と断じます。

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