恋人がいない若者の37.6%が「いらない」と答えたとは、内閣府による「結婚・家族形成に関する意識調査」の報告です。
これをいってしまうと「統計」の根幹が揺らいでしまうのですが、恋人がいない理由を自らにあると認めたくないから、「いらない」と回答する、いわば「見栄」や「独りよがり」を除外すれば、もっと数字は低くなる気がしてなりません。
また、調査結果の一部は、6月22日に閣議決定された「少子化社会対策白書」に盛り込まれるということで、「若者」とサラッと流していますが、対象は20代と30代で、両者を同数とするなら、半分はオジサンとオバサンです。私におけるオジサンとオバサンの定義は30才を境にしています。
内閣府のサイトにアクセスしても、肝心の資料がないので、いつもの「マスコミ向け資料」だけで、つまりは情報操作の匂いもしますが、「(恋人を)いらない」と回答したのが、20代と30代では意味が違ってきます。
「女はクリスマスケーキ、男は年越しそば」
という格言を知ったのは、昭和時代の少女漫画だったと記憶していますが、つまり女性は25才、男性は31才までが結婚適齢期で、それを過ぎると「売れ残り」と呼ばれたものです。
平成となり、アンチエイジングの進化と、社会の幼児化により結婚適齢期は大幅に遅れたとは言え、やはり
「30才の壁」
を口にする女性は多く、男性においても
「30才まで童貞なら魔法使いになれる」
という都市伝説が生まれるように、ひとつの節目となっています。
だから「恋人」への期待にしても、20代と30代では大きく異なり、それを考慮しない調査を鵜呑みには出来ません。
ちなみに、まったく同じ調査内容か分かりませんが、平成22年度に同じタイトルでの調査結果では、
“男女とも30代後半「交際経験なし」では、「今、恋人が欲しくない」が約55%”
と特筆されていました。年を取ると意固地になるのは、何も老人と呼ばれるまで待つ必要のない、人間の性質です。また、その性向の強さが災いしているとは余談でしょうか、真実でしょうか。
こうした調査は時系列での変化が重要で、仮に平成22年度から、昨年の26年度の間で、急激に「恋人が欲しくない」となったのなら、その期間に原因を求めることができますが、なだらかなカーブを描いているのであれば「トレンド」となり、根本的な対策が必要となります。
この区別を付けずに、取り組む「少子化対策」がピンぼけになるのは当然です。問題が特定されない中で、対策を立てるのですから、間違えない方がどうかしています。
ちなみに内閣府による「情報操作」とは、閣議決定までした「少子化社会対策白書」の内容を箔付けする為に、印象操作の片棒を、マスコミに担がせているという指摘で、孫崎享や古賀茂明らのニュアンスとは異なります。
いずれにせよ、恋人の有無をはじめ、結婚したくないと思う若い男女が増えるのは当然です。
現実的に結婚とは、違う家庭環境=文化をもった他人がともに生活をするということで、大小問わず、観察と理解、我慢と寛容が求められるもので、
「ありのままの自分」
で上手くいくことはありません。
教育現場でも流行歌の世界でも、個性の名の下に、自分らしさこそもっとも価値の高いものとし、世界にひとつだけの花になることが強要されています。
両雄並び立たず、というほど大袈裟ではありませんが、世界にひとつだけなる珍種の花の寄せ植えが、それぞれ共存できる確率はとてつもなく低いことは、人に通じる示唆と言えます。
ここから見えてくるのは、個性偏重の「教育」も、恋人の必要性を低下させ、少子化の要因となっているということです。
そもそも現代生活において「恋人」や「妻、夫」を所有する「メリット」が少なくなっていることに踏み込まなければ、少子化問題は解決しません。
愛情と打算は親しく、盲目的な愛を抱えたままでは、壁にぶつかるか崖から落ちるかのどちらかで、いずれもせずに現実と同居を始めなければ愛は長続きしません。そのとき、メリットとデメリットを天秤に掛けるのは、人間の自然な選択です。
ところが政府らがとりくむ「少子化対策」ではここが置き去りにされています。
ざっくりと、しかし断言するなら「便利すぎる社会では結婚のメリットは少ない」のです。
家庭内分業における性による作業の強制はここでは触れません。簡単に言えば家事は女性、労働は男性ということで、それぞれが入れ替わっても同じだからです。
かつて掃除は、ホウキにちりとり、はたきに雑巾をつかっていました。いまはお掃除ロボット「ルンバ」に丸投げすることができます。洗濯機はいまや乾燥機能まで獲得し、二層式はもちろん、ローラーによる脱水の不便から解放しました。全自動なら干す手間も不用です。
そもそもファストファッションの台頭により、洋服は使い捨てとなり、洗濯に気を使う必要もありません。
交通網が張り巡らされたことで、マイカー所有のアドバンテージは失われました。それはパートナーの運転免許の有無が、損得に直結しなくなったことも意味します。
また、物流網の発達と競争により、コンビニが値引き販売し、いまやその最大のライバルであるアマゾンや楽天といったネット通販各社が、水でも米でも生魚でも宅配するようになりました。すると生活用品の買い物に、家族の助けはいりません。
通販は不在時の受け取りに不便がありましたが、コンビニ受け取りという呉越同舟により解決していますし、なにより宅配業者によっては、夜の10時まで再配達してくれます。
結婚式のスピーチの定番「3つの袋」にあるように、最もパートナーの必要性を感じると言われた「胃袋」も、もはやファストフードとコンビニが掴んでいます。
一時期ほどの安売り競争はしていませんが、1食500円も用意すれば、手間要らずで、それなりのご馳走にありつけます。1ヶ月にして4万5千円。
デートに1万円を使うとすれば、気苦労を重ねた上に、約1週間分の食費を使うのだと天秤に掛ければ、萎える気持は否定できません。
レンタルビデオの普及が、日本人に1人で時間を潰す習慣を与えました。テレビゲームも同様の効果を持ちますが、能動的な参加を求められるゲームは、向き不向きが激しく、またクリアして得た達成感の後に襲ってくる虚無感に耐えられない日本人は少なくありません。その点、映像作品は、よほどの駄作を除けば、「カタルシス」を与える構造になっており、視聴後に一定の達成感や満足感を得ることができます。
また、レンタルビデオの重要な需要はアダルトコンテンツでしたが、詳述は割愛しておきますが、これまた達成感を与えてくれたことでしょう。
これらのどれもが、いまネット配信されています。アダルトコンテンツでいえば「無料動画」をチェックしているだけ、一日どころか1週間でも1ヶ月でも浪費できます。
タチの悪いことに、テレビ局がネット配信に参加するどころか、公共の電波を使ってネットへの誘導しており、先日放送された日本テレビの唐沢寿明主演作『ラストコップ』は、第1話だけを地上波で放送し、2話以降はネット配信の「Hulu」でしか見られません。
日テレは「Hulu」の日本事業を買収しており、つまり、自社のネット配信に呼び込む為に、公共性の強い地上波を使っていたということです。これは電波法違反ではないのかと憤ります。青臭い話しですが、テレビが信用をなくしたのは、そこに正義も公共性もないからです。
話を戻します。暇つぶしの為の恋人といえば失礼に感じるかも知れませんが、持て余す時間の辛さと、恋人のワガママのどちらがマシかという発想も現実における打算です。いわゆるメリットとデメリット。
ところがいま、暇から逃れる方法は数多く、スマホが一台あれば24時間ぐらい簡単に浪費できるようになりました。
首都圏近郊に限定すれば、バブル崩壊から賃貸物件の家賃は下落を続けており、その理由は土地価格だけではなく、物件あたりの面積を少しずつ小さくすることで、建築コストを抑え、利益率を高めているからですが、壁芯で8畳の部屋が7.5畳になっても、並べて比較しない限り気がつく人はいません。
衣食住。このすべてがリーズナブルでコンビニエンスが実現された都会において、いま「結婚」のような苦難に挑むことは困難です。
恋人を不用とするのは、必要とするメリットを感じないからです。恋愛は打算であることを、逆説的に証明します。
内閣府が「結婚」にスポットを当てているのは、未婚率と出生率には逆相関が認められているからです。
つまりは「結婚すれば子供が出来る(できやすい)」ということ。
公益財団法人 生命保険文化センターの『「生涯未婚率」というのは何のこと?』と題したコンテンツと、内閣府の『平成25年版 少子化社会対策白書(全体版<HTML形式>)』に掲載されたグラフを並べると、昭和45年から見事に逆相関になっています。
少子化対策は待ったなし。
ならば結婚にメリットを与えてあげることが為政者の仕事です。
もちろん、結婚しない自由も尊重されるべきですが、国家には意思がなければならず、国民を平等に扱うという前提に立ちながらも、望む方向に歩みを進める国民を優遇することを「国策」といいます。
設計当初から過ちが指摘されていましたが、ペテン師 菅直人がゴリ押しし、ソフトバンクの孫正義がそれを煽った
「再生可能エネルギー 固定価格買取制度」
はその悪例で、あのころ、自宅や土地、そしてお金を持っていた人は、太陽光発電装置を設置し恩恵をうけ、賃貸住宅で金をもっていなかった貧乏人は、いま、毎月の電気代から、金持ちやソフトバンクにお金を支払い続けています。
国民を、国家が望む方向に誘導するのが国策だということで、ある種のひいきや優遇はやむを得ず、少子化対策の重要な施策として
「結婚のメリット」
を明らかにするのも、少子化対策における、ひとつの方法だと言うことです。そして、そのためには「個性偏重」の教育は改めなければなりません。
個性の過大な主張とは、己のエゴの最大化であり、夫婦で足並みを揃え人生を歩み、子供に恵まれたならそこに無償の愛を注ぐ行為の阻害要因でもあるからです。
また、便利の制限・・・は現実的ではありませんが、外食やネット関連への税率を高めに設定するなど、「やや不便」を強いることなら、小手先の対策でも実現可能です。