今回は「障害者」について取り上げます。「マスコミ」が自主規制している言葉もでてきますので、これを不快に思う方は、今回はパスしていただければ幸いです。また、言葉の一部を取り上げた批判には一切応じないこと、あらかじめご了承ください。
では、これより本編です。
近所のちょっとした有名人、といっても名を成し、功を上げてというのではなく、子沢山の女性で、その一族郎党で、あちらこちらのスーパーマーケットやショッピングセンターでたむろしているので目につくのです。
先日も見かけたところ、妻が「あの子、中学の一学年下の後輩なんだよね」と教えてくれました。「子沢山だよね?」と問いかけると「あの子自身も兄弟姉妹がいっぱいいたんだよ」。
なるほど家系なのかと。ついでに長年の疑問を訊ねてみます。
「もしかして知恵遅れ?」。誰も聞いていない夫婦間の会話ながら「今風に言えば知的障害ってこと」とフォローするのは、物書きの習性でしょうか。
たぶん、そう。と妻。昭和時代、私の通っていた小学校では、知的障害の児童も、同じ教室で学び、同じテストを受け、同じ運動会で競争しました。だからか敏感なのかもしれませんが、だからと特別な感情は持っていません。そういう「個性」の人という受け止め方です。
障害者を「可哀想」と思わないのです。
彼らとの接し方は、同級生の悪ガキの背中が教えてくれました。
小学校5年生のころだったと記憶しています。その知恵遅れの同級生が、下校直前の校庭で、大きな方をお漏らしし、そのまま下校することになりました。
小物というのは小物で、どちらかといえば日頃虐められる側の同級生は、彼を臭い臭いとからかいました。私はといえば、別のクラスということもあり、また帰る方向が正反対ということもあり、なによりどう接して良いか分からずに、ただただ傍観していました。
そこに日頃、どちらかといえば弱い物イジメをし、中学入学と同時に「ボンタンデビュー」することが既定路線だったエリートヤンキーとも呼べる悪ガキがやってきて、虐めていた小物を追い払い、彼の肩を抱き、一緒に帰って行きました。
秋も近づき、黄昏が早くなる校庭で見た、彼の背中に、人として大切な何かを教わった気がします。
この春の統一地方選挙で「筆談区議」が誕生しました。
東京12区という括りでは、私の住むところと同じ選挙区になる東京都北区の区議に、「筆談ホステス」として名を馳せた、斉藤里恵さんが立候補し、最多得票で当選したのです。
彼女については、実は筆談をしていないや、ホステス時代の悪評を報じる週刊誌もありましたが、「筆談」という切り口は書籍名で、出版社の影がちらつきますし、夜の世界は嫉妬と恩讐の世界です。
これらの報道に、そこはかとない違和感を覚えていたのが、
「障害者は善人」
というフォーマットの影です。有名人が選挙にまで出ようとする以上、批判や中傷があっても仕方がありませんし、政治を目指す人ならば善人であって欲しいと願うとはいえ、そうでない現実を実名で挙げれば字数が尽きてしまうことに、誰もが頷くことでしょう。
誤解の無いように断っておきますが、斉藤里恵さんの性格や素行をどうこう言うのではありません。あくまで一般論として、障害は性格に強い影響を与えるでしょうが、だからと同じ障害を持つ人が同じ性格にはならないと考えるのが自然だと言うことです。
筆談区議の誕生を通じて教えられたことがひとつあります。
「ネット選挙」
の解禁の意義です。
斉藤里恵さんは、ゆっくりとなら会話ができます。相手の話すクチビルから意味を読み取り、それを受けて話すことも出来ます。
ただ、コントロールの幅が限られるためか、いわゆる「ろれつ」に難があり、スピーカーを使った街宣活動には適さず、街頭演説は応援者に任せるしかありません。代名詞の「筆談」は、文書図画にあたる可能性があると、使えなかったのです。
ところがインターネットならどちらも可能です。ただたどしい言葉でも、「動画」での配信なら、興味のある人はじっくりと耳をかたむけてくれますし、ネットは選挙期間中も認められている文書図画そのものです。
また、文章(テキスト情報)を用意しておけば、視覚障害者でも「読み上げソフト」で内容を理解することができます。
かつてメルマガに、記号や文字の組み合わせで図案を表現する「アスキーアート」のようなデザインを組み入れたところ、読者から以下のようなメールが届きました。
「私は視覚に障害があり、読み上げソフトでメルマガを読んでいます。本文と関係のない記号は、理解の妨げになります。メルマガは数少ない外界の情報に触れる媒体です。このような読者がいることを心の片隅にでもメモして頂ければ幸いです」
つまり、デザインとして「△△△」と配置した記号を、読み上げソフトは「さんかく、さんかく、さんかく」と伝えるということです。もうすぐ10年を迎える私のメルマガのレイアウトが変わらないのは、単にサボっているからだけではなく、こうした理由によります。
話を選挙に戻せば、法定ビラや選挙ポスターなどの「ネット掲示」は真剣に議論されるべきではないでしょうか。さまざまなバリアを壊すことは、IT技術に期待されるものの重要なひとつで、実際、斉藤里恵さんの当選を受け、北区区議会は音声を文字に変換するシステムを導入します。
「話を聞く」というだけの行為が、聴覚障害者にとって高いハードルなのです。
入力した文章を、音声に変換する端末の持ち込みも許可されました。情報端末の進化発展が、さまざまな「バリア」を無くしていくことに期待します。
だからこそ、障害者を無条件に、ステレオタイプのイメージに押し込めることを危惧するのです。私が障害者を「可哀想」と思わない理由でもあります。だって、幸せな障害者だって沢山いるのですから。「可哀想」という感想に上から目線を見つけるのです。
同じくこの春の統一地方選挙で、地方議会議員の再選を果たしたO議員。学生時代の事故により、体の自由がきかなくなり、車椅子生活を余儀なくされ、障害者の視点から、すべての障害者が暮らしやすい社会の実現を目指しているとは、とは彼のオフィシャルサイトにある説明です。
障害には様々な種類があると、O議員に諭すことは釈迦に説法でしょうか、いや馬の耳に念仏かもしれません。
トップページに掲げられた政策信条はすべて「画像」になっております。コピペを防止し、レイアウト崩れを防ぐには有効ですが、読み上げソフトは画像になった文章を読解することができません。
先のメルマガの読者なら、彼の信条を一人で知ることができないということです。さらにその画像の文字は小さく、拡大すると「ジャギー」が目立つ粗い解像度で、弱視の方にはつらいものがあります。いまどきスマホ非対応で、パソコンからしか閲覧できません。
中年と呼ぶにはいささか若いO議員。ネットが苦手というわけではありません。TwitterやFacebookはもちろん、複数のブログを開設するなど、早くからネットを広報活動に利用していましたし、今回の選挙戦では、公示日前日まで「リスティング広告」も利用しておりました。
そしてそこに彼の「視点」を見つけました。
リスティング広告とは検索キーワードに連動して表示される広告で、育毛剤販売の会社なら「ハゲ」の検索結果に広告を出すように、自社の客が検索しそうなキーワードで出稿します。
O議員が「障害者の代表」を自認するなら、「車椅子」「障害者パス」などといったところが、彼の票田に響く言葉になるでしょう。
ところが彼が出稿していたのは「選挙」。自治体名に「選挙」の組み合わせ。政治家の性といえばそれまでですが、O議員の視線の先にあったのは、障害者ではなく「選挙」だったのです。
すでに述べたように「筆談区議」の北区と、私が住む足立区西部は、衆議院小選挙区の「東京12区」にあたり、以前は車椅子の国会議員 八代英太氏の地盤でした。
そうした事情もあってか「障害者票」というものがあると聞いたことがあります。障害者やその関係者は、障害を持った候補者に無条件で投票する「固定票」があるというのです。
ところがO議員、再選は果たしたものの、前回と比べ20%ほど得票数を減らしています。それもそのはず、O議員の地元を訊ねると、聞こえてくるのは「悪評」ばかり。
小さな個人経営のレストランに、アポ無しで車椅子のまま乗り込み、店内の通路が狭いと怒鳴り散らし、街頭演説の聴衆が少ないからと、有権者の目の前で運動員を叱り飛ばすなど、彼と接した人のほぼすべてが悪口を言うのです。
また、彼の自宅から火が出て、消防車による消火作業で、水浸しになった隣家に、菓子折どころか、頭の1つ下げなかったという伝説の持ち主です。内部情報によれば、かつて所属していた党で、彼は仕事を手伝わない人物として有名だったとのこと。
これは目撃した事例ですが、一般的に地方議会議員レベルでも、地元の祭りに顔を出せば、顔見知りが近づいてきて、季節の挨拶のひとつやふたつするものです。
ところが車椅子に乗った彼は、ひとりぽつんといるだけです。その姿だけを見れば、むしろ切なくなり涙こぼれそうになりますが、聞こえてくる悪評に涙は瞬間的に蒸発します。
言葉を選ばずに言えば、「障害者」という個性を利用し、政治家の身分を手に入れているということです。それは美人が美貌を武器に、若者が年齢だけを頼りにするのと同じ。
漏れ伝わる彼の言動の善悪はここで断じはしませんが、悪意を持った障害者もいれば、障害を悪用する人間もいるということです。そしてそんな人間がいたからと、障害者一般論に当てはめるのはもちろん、間違い。
とてもきれい事で、上から目線のようで、躊躇したのですが、ひと言でまとめるなら
「同じ人間」
ということ。障害は個性と特徴。善人を体現するものではありません。
最後に
「障害者は弱者」
という紋切り型にも馴染めません。
ハンデが直接の理由となれば、弱者になる場面も訪れるでしょうが、それ以外の場面では必ずしもそうではないとは、同級生は読み書きが苦手で、運動能力も決して高い方ではありませんでしたが、「ドッチボール」などでは至って普通にプレイしていたものです。
というか、健常者にカテゴライズされる児童でも、ぶつけられる恐怖がパニックを引き起こし、思考停止に機能停止する「女子」との比較において、彼はむしろ強者でした。
先日、犬の散歩をしていると「疾走」する車椅子を発見します。手こぎタイプで三輪バギーのようなフォルムを持つ車椅子は、そこらのスポーツタイプの自転車レベルの速度がでます。
この時のパイロットは、歩行者と比較して「強者」です。