本屋がなくなる日。

 東京に来てから・・・と書くと、青雲の志を胸に上京してきたかのように映りますが、小学校1年生の夏休み、文字通りの夜逃げの果てに東京(正確には当時の神奈川県川崎市)にいたわけですが、掘り下げると長くなるので割愛します。

 東京での生活が始まり、その恩恵に気がついたのは12年後。河に挟まれ島状の街はふたつの街に別れ、それぞれの町内に本屋がアリ、記憶が正しければ親族(兄弟?)がそれぞれを経営していました。生活が苦しい中、毎月宅配された小学館の学年誌が、わたしに与えてくれた「好奇心」という武器は、いまも生きる糧となっており、これを届けてくれたのがその本屋さんでした。のちに平凡パンチや週刊プレイボーイをこの本屋で買えなかったことは言うまでもありません。

 父が死に、母親の計略により足立区南部から北部へと移住します。そして本屋というのは恩恵だったのだと気がつきます。

 東武伊勢崎線(現在スカイツリーラインと呼ぶそうですが、わたしは認めません)竹の塚駅西口には本屋がなかったのです。正確には駅から通りに出たところに、小さな書店がふたつあり、会社帰りに立ち寄ったものです。ただ、そこから徒歩15分以上かかる当時のアパートの周辺に本屋はありません。というより、後に知ったのですが、西口のエリアはもうひとつさらに奥地に一軒、やはり小ぶりの書店があるだけで、どちらも気楽に足を運ぶことなどできません。そのくせ、酒屋はやたらありました。

 土地の歴史は古く、縄文人が住んでいた土地柄です。しかし、本屋という文化の香りからは遠く、酒屋という命のダイナミズムだけが存在するこの集落を嫌いではありませんが、文化との接点は限りなくゼロだったのです。アマゾンなどない時代の話しで、しかも、それからしばらくもせず、駅前のひとつが潰れ、つい最近、駅前に残っていた一店も閉店しました。

 東京に来て住んだ街の最寄り駅は「都電荒川線小台駅」。いまは日暮里舎人ライナー(これもはずれで、本当の意味での地元の人は利用していません)がありますが、当時は駅から遠く、文化の香りなどしない準工業地帯でしたが、かつて、荒川放水路(現在の荒川)により、村のあらかたが水没&土手になるまえは栄華を誇った集落で、駅から遠いのに本屋が2軒もあったのは往時の権勢の名残かも知れません。というのは、寺子屋をあげるまでもなく、日本人は「知的好奇心」が旺盛なのです。

 そして街角における「知的好奇心」の宝箱が書店です。たとえみすぼらしくても、数坪しかなくても。子供心に見上げた書棚の上に雲がかかって見えたものです。いつかその雲の上の本に手を伸ばし、いろんなことを知るのだと仰ぎ見たものです。

 街角の本屋がなくなること。経済合理性からいえば当然のことなのでしょう。しかし、その合理性とは米国化に過ぎない、あんな歴史の浅い国との同化を喜ぶ価値観は、いまのわたしにはありません。若きとき、思考の浅いときならいざ知らず。

 本屋がなくなる日。日本人の美徳のひとつである「知的好奇心」もなくなるのかも知れません。

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