選挙権は不平等で良い

ネット選挙について3ヶ月間執筆していて、つくづく感じるのは、日本の民主主義の限界です。自虐論ではありません。肌に合わないのですよ。日本人には。多分。

しかし、戦後教育=日教組による赤化作戦が成功したものですから、民主主義=絶対的正義なる前提条件が植え付けられてしまいました。そこで議論が迷宮に迷い込んでしまうのです。

アルファブロガー(笑)として名高いおちゃらけ社会派ブロガー
「Chikirin」さんの「民主主義は死んでるけど、資本主義は超元気」というエントリーにこんな一説がありました。民主主義の機能不全をあげつらった上で

「資本主義はものすごい元気。社会の在り方を変えるのは、もはや民主主義ではなくて、資本主義のほうだよね。」

出典:http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130325

一部を持って全体を語る展開が目立ち、ロシアや中国で民主主義が機能していないのに、資本主義は機能しているとします。日本や米国の民主義も同列に機能不全とするのですが、この議論のおかしなところは、

「機能している民主主義像」

を提示していないことです。まるで

「嘘ばっかりの大人になんかなりたくない」

と叫んだ昭和のティーンエイジャーです。この恥ずかしい台詞を職員室で17才で吐いたのはわたしの友達。となりにいて笑いをこらえるのに必死でした。だってこいつ平気で嘘つくやつだったのですから。いま思うにこれを「エスプリ」とでもいうのでしょうか。

嘘をつかない大人なんていない。いや、必要な嘘もある。そもそも嘘とは何か。人を傷つける嘘を否定するとして、傷害の範囲をどこまでと定義するのか。

つまりChikirinさんはあり得ない前提、あるいは理想論を元にした現状否定からの、自説への誘導で、朝日新聞が得意とする論法です。

少なくともロシアでは民主主義は機能しています。郷土料理から名付けるなら

「ボルシチ民主主義」

です。プーチンが大統領に返り咲いたのは、武力を背景に・・・・している噂は漂いますが・・・対立候補のこめかみにピストルを突きつけたからではありません。

そもそもロシアで・・・と、ここで定義するのは米国型の資本主義という意味において「資本主義が元気」とするなら、

「ミハイル・ホドルコフスキー」

は血の涙を流すことでしょう。プーチン批判をして会社を奪われた上にシベリア送りとなった人物です。あるいは「サハリン2」を思い起こせば

「ピロシキ資本主義」

を礼賛することなどできません。「小籠包資本主義」も以下同文です。というより、資本主義も国家を背景にしており、米国型資本主義が世界を駆け巡る背景に、米国の外交力と軍事力は無縁ではありません。

日頃、こうして他人の論にあれこれいうのを避けているのですが、注目したのが「一票の格差は即刻解消してほしい」としているところに、戦後教育の成功を見つけ、今日のテーマにピッタリと引用いたしました。

冒頭に触れた「ネット選挙」の執筆が最終コーナーを回り、年度末であるにも関わらず、大きいテーマのため、多少駆け足となることをあらかじめお断りしておきます。

裁判所が一票の格差を違憲とする判決を下しました。政治の怠慢によるもので当然と言えば当然でしょう。そしてこの解決策は以前指摘した簡単な方法で解決できます。

議論というのは常に出発点を忘れてはなりません。一票の格差というのは代表者を選ぶときの国民の権利行使の不平等を指摘するものでアリ、ならば

「国会議員を増やす」

という選択肢がないのが不思議です。

平成に限って言えば国会議員の数は減り続けています。
衆院で512から480、参院で252から242人です。

政治の劣化は誰もが口にするところ。ならば劣化の一因は議員定数を減らしたことによるものではないか、とは一般企業におけるPDCAサイクルにおけるCheckで検討されることです。ならばAct=改善において「増加」というのも検討に値します。

しかし、国会議員削減のトレンドは多すぎる=無駄が多いからであり、衆院においては小選挙区比例代表並立制の導入もありましたが、もうひとつ大きな背景として「経費削減」があります。

ならば簡単、お金の話し。

「国会議員および運営にかかるすべての経費の総額から削減」

すればよいだけ。仮に100億円なら、90億円にして、予算の範囲内なら国会議員を1000人でも1万人でもよいとすれば一票の格差はすぐに解消できます。なんなら

「国会議員の定数を1億2千万人」

にすれば、ひとりの票が国会議員と同じ意味を持ちます。

いささか古い2007年の国会答弁から国会議員の歳費から、国立国会図書館の運営費まですべてこみこみで計算したときの経費総額は2243億8723万円とあります。これを日本の人口で割り算すると一人当たり

「1869.89358333円」

2000円にも満たない、映画を定価で見るとポップコーンも買えない年収で、判断材料となる資料を自らあつめて国政を担わなければならないということです。

わたしは御免被ります。だから政治家に「アウトソーシング」しているのです。

そこに多少の経費がかかるのは仕方がなく、高いというのなら年収ベースを引き下げて、安い給料でも働きたいという物好きに入れ替えれば良いだけの話しです。

一票の格差の問題点を平易な言葉に置き換えるとこうです。

「議員の待遇は同じままに人数だけ減らし一票の格差を減らせ」

議員の労働条件と、議会の枠組みと、政治制度とみっつの論点をひとつにするから複雑になるのです。

ここまでは以前に述べたこと。

議論の出発点をそもそもの点に戻して問いかけます。

「一票は平等が正しいのか」

民主主義の原点を問います。そもそも論で語れば、民主主義などキリスト教的価値観のお仕着せに過ぎません。独裁制を単純に礼賛はしませんが、名君の下の独裁なら、民主主義の手続きに従って王位に就いた菅直人よりはるかに素晴らしいに違いありません。

キリスト教徒は神以下、平等なフラットな組織形態、実際には神父やら司祭やらの特権階級は存在していますが、建前的に平等です。と、信者の皆様には申し訳ないのですが、宗教的な仕組みを外部の者が機械的な尺度で判断するとこう見えるのです。

部族社会のイスラムは異なります。族長の一票が重いのです。アラブの春の混乱がいつまでたっても収まらないのは、欧米型の民主主義が彼らの神の教えに馴染まないからです。宗教戦争とみることもできます。

それでは日本どうか。家父長制の名残を見るにイスラムの考えを理解できなくもありません。一方で、これも戦後教育の中で否定され続けたことですが、戦前やそれ以前でも日本社会は比較的フラットな構造になっていました。

徳川家による身分区別から、格差社会の印象を刷り込まれた江戸時代でも身分のグレーゾーンは多く、武士は働かずに優雅な生活をしていた信じる人は水戸黄門の見過ぎでしょう。豪商、豪農が武家より権勢を誇っていた話しは掃き捨てて余るほどですが、これは掘り下げません。

では先の1億総国会議員という暴論はともかく、一票の平等を原則的に貫くとどうなるでしょうか。

日本の人口の1割が東京に集中しています。すると衆院480人のうち48人が東京選挙区から選出され、参院242人から24人となります。選挙制度の違いを考慮して、衆院だけで見ます。

一都六県を関東としたとき、この総人口は4千万人を越えます。これで3割を抑えました。過半数まであと2千万人。近畿地方に匹敵しますが、維新の会の代表がいらっとくるので、とりあえず外し、被災地である東北だけでは915万人と足りないので、東海道のお隣である東海地方の1513万人にご協力いただければ過半数をゲット。

「半太平洋沿岸部協定」

など結べば、国政は思いのままです。新幹線も高速道路もそこまでしか整備せず、インフラも生活保護も子ども手当も、この地域にのみ重点的に配布します。

関東及び東北、東海以外は人に非ず・・・と民主党のことはしないにしても、一票を平等に扱えば都市部が有利になるのは明白です。

そして冒頭に引用したChikirinさんのようなリバタリアンは、市場原理をなによりも尊ぶのでこれも仕方なしとするのかも知れません。

しかし、わたしはあえて提言します。

「優しい不平等社会の実現を」

都市部はそこに住むだけで日本人としての恩恵をうけている。と考え、政治屋を選ぶ権利、そう、それは商店街の福引きにおけるガラポンを廻す権利のようなものではあっても、5枚溜めなければ廻すことすらできない「補助券」ならば惜しくないぐらいのものに過ぎないと思えば、一票の不平等など些細な問題です。キリスト教的背景を背負っていない日本人は、不平等に寛容になれるのです。

市場原理主義を否定はしません。というか、そちらのほうにシンパシーを感じるのですが、そこに日教組による民主主義至上主義をみつけると残念で仕方がないのです。

市場原理主義を採用するなら一票の格差はチャンスです。一票の格差が最大となる地域に移住すれば、得られる利益を最大化できるからです。

紹介した論で資本主義を礼賛していますが、資本主義がグローバルへと船出したのは利益の最大化のためです。格差があれば利用します。もっとも分かりやすいのは人件費。中国を工場として、いまはビルマやカンボジアへと移しています。

アップルやマクドナルドがやっていることも同じです。安い国で生産して、高く買ってくれる国で販売する。格差があるから元気でいられる、格差を食い物にしている、とは言い過ぎでしょうか。

すべての平等を望みます。一方で豊かな生活を求め、自分の犠牲は減らしたい。それは無理です。

いまのゲームのルール・・・憲法において法の下の平等というフィクションが掲げられている以上、違憲は当然の判断といえます。

しかし、そもそも論に立ち返ったとき、すくなくとも選挙に関してだけは不平等を寛容に受け入れる仕組みこそ、日本人らしいのではないかと考えるのです。

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