都立高の合格発表によせて

二昔前、東京大学の入学式に親がついて行くことへの苦言がありました。大学生ともなれば大人の端くれ、という社会常識の時代。一昔前、これに(パパ+ママ)×ジジババ+叔父伯母の6ポケットも参観するというので、人数制限が発布されたと報じられました。すでに「保護者つき」は当たり前になっていたということです。そして、今日、姪が都立高校の合格発表に挑むのですが、愚妹が一緒に発表を見に行くとメールがはいりました。

甘くない? の問いに、いまは高校でも親と一緒が多いと返信。また、よくいえば独立独歩、率直に述べれば自儘な傾向の強い彼女のことだから、ひとりでいくと思いきや、ママに一緒に来てほしいと懇願。親としてイヤな気持ちはしないでしょう。

しかし、どうでしょう。民法上、あと1年もせずに結婚、すなわち家庭を持つ、それは仮に子供が生まれればその子供の人生を十数年間背負うという覚悟とともにあるものでなければならず、ならば高校の合格発表如きは、ひとりで・・・が無理でも、友人などを頼り互いに支え合うことも大人の階段のはず。

親の気持ちはわかります。かりそめでも高校受験の子供と暮らした半年間は親のつもりで接していました。彼は・・・とは、ミクシィにて「甥日記」として綴った彼で、亡姉の長男で、悪戦苦闘した分だけ、高校受験の発表はいてもたってもいられず、ましてや受験した高校は自動車で5分程度の近所。甥にだまってみにいくことも考えましたが、グッと我慢しました。それは甥のためだけではありません。今後、彼がなにかにつまずき、障害に接し、壁の前で悩むことがあっても、わたしたち親にできることは限られるという現実の無力感に慣れておく必要があると考えたからです。

モンスターペアレンツとは、いまや会社にも波及し、新入社員の取り扱いひとつでクレームがはいるといいます。もちろん、これが通用するほど甘くはありません。また、順番から言えば親が先に死にます。そのときは幾つでしょうか? 40才、50才、60才なら、幸せかも知れませんが、そのときになりひとり社会に放り出される不幸を親なら想像すべき・・・と、わたしたち夫婦は考えたのです。というのは実例があるから。近親者で今年40才になる自営業の長男が、半分にニートで親のすねをかじっている姿を見ているから。

だから義務教育が終わるこのタイミングで親が子離れしなければならない、ましてや高校とは親や教員による誘導はあるにせよ、形式上は自分で人生を選択する最初の一歩。中学受験、小学校、お受験は含まなければ、というか、これらは親がレールを敷いていますからね。事実上。で、自己選択の結末を自分で確認し、親に報告するというケジメが親子双方にとって大切なのです。

一方、親の気持ちからすれば、一緒に見に行って。甘美な響きです。しかし、これは子供を親の所有物として見ている告白でもあります。いつまでも、自分を頼る幼き生き物。そしてこれを暖かく見守る風潮もあります。頼れるあいだは、頼られるあいだは。これがニートを生み、就職浪人を生み、引いては結婚しない大人を量産し、少子化へとつながり亡国へ。

最後は飛躍しましたが、ほのぼのとした母子の会話から、世相をみつけた二月末の朝です。

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