まことに慶事である。
と、言祝いでおります。
大阪市桜宮高校部活体罰自殺事件。
と、まるで映画「踊る大捜査線」において戒名(事件名)を考えるスリーアミーゴスのように漢字を並べてみましたが、事件・・・については後に述べますが、よろこんでいるのは本件により、しばし、我が国の混乱が避けられたからです。
それはなにか。
「橋下徹 参議院選挙不出馬 決定」
です。
大阪府、大阪市のことは、どうぞそちらの皆さんがお決めになれば良いことでアリ、かつて横山ノック師匠を選んだのも府民の選択です。その延長に橋下徹さんがいるのだとニタニタして傍観。かつて内田裕也さんに投票したものとしては、いつになったら若気の至りに気づくのだろうと思いながらも、府民性ならば永遠にかわらないのだろうとつぶやいたりもしてみました。
ところが「日本維新の会」となり、国政を目指すとなれば、我が身に降りかかる火の粉です。燃え広がる前に消さなければならないと危惧していたところに、今回の案件です。
予算の執行権という「力」を振りかざして我が意に従わせようとする精神構造に体罰と同じ影を見つけるのですが、とにもかくにも、教員の総入れ替えや、少なくとも体育科教員のチェンジに、ひいては教育委員会の抜本的な改革を期待すると吹聴する橋下徹大阪市長。
さてこれから教員の総入れ替えを含めた改革が始まるのかもしれません。しかし「体罰」の問題が、個人の資質によるものであれば入れ替えても、人は機械ではありません。
朝食のハムエッグが焦げたという理由でストレスをためた教員の目の前に、個人的に好意を持っていない生徒が、かんに障る行動をとったときに思わず手が出ることをわたしは否定できません。すべての教師がかならず理性が感情を上回るとは限らないからです。
つまり人員配置だけでは永続的な体罰追放につながらない・・・当たり前のことですよね?
あるいは某かの制度を作るかも知れません。上に法があれば下に対策があるとは中国の現代格言です。制度を作れば抜け穴を見つけるのも組織の人です。
つまり、制度をつくっても、制度が正しく機能するか監視しなければならないのです。これを怠ることで「シロアリ官僚」が増えることは、日頃、共同代表となる政党が主張していることに連なります。
まして永らく続いた組織には復元力があります。この場合の組織とは教育委員会と日教組です。力で押さえ込む統治は、力の消滅により崩壊することは、アラブの春を数えるまでもないでしょう。
歴史に学ぶなら、橋下徹大阪市長が辞任し、参院議員を目指した途端、制度は瓦解する可能性があるということです。すると、受験生や、在校生は混乱だけを強いられたいうことです。大人のエゴではなく、橋下のエゴで泣きます。
そうでないならば、言い出しっぺは最後まで、少なくとも彼が言うところの
「気に入らなければ選挙で落とせ」
という任期をまっとうするまで、桜宮高校を見守るのが「筋」というものでしょう。
以前指摘したように「兼職禁止」は、公務員の公平性、議会制民主主義の観点から解かれることはないと見ています。それでも参議院選挙に彼がでるとするならば、自分の息のかかった子分を大阪市長に立てる「傀儡」という方法もあり、すでに「大阪府」はそれにより乗っ取られました。つまりは「橋下帝国」が着々と拡がっているということです。
もちろん、大阪府民の選択です。しかし、日本国民としてわたしは橋下帝国にノーといいます。彼の人間性が、もう3周りほど大きくなったときの評価はともかく、いまのままではとても危険すぎるからです。
しかし、彼は大胆な桜宮高校、そして大阪市の教育改革に乗り出しました。つまりは参議院選挙にはでない、良かったよかったと。
ただし、彼が言葉に責任を持つ人であるならばという前提ですが。
体罰により自殺したとあります。そして橋下徹大阪市長もとりあげ、生徒や教師など関係者に取材した人の話として報道は、
「当事者意識に欠ける」
とあります。
ここから推測できることは、体罰は日常的に行われていたということです。
程度の問題はありますが、ここで多少、人を殴り、殴られた経験があるものとしての余談。暴力レベルで30〜40発を人を殴ったとするならば、顔が腫れる程度ではすみません。関西弁的なニュアンスでいう「はたかれる」と「ビンタ」の総計なら分からんでもありませんが、もちろん「グー」なら相当な怪我となるでしょうが、拳骨は意外と脆く殴った教師のが骨折することもあると添えておきます。
日常的に体罰が蔓延していた学校。と書くとおどろおどろしいですが、我々の世代でも校則の厳しい学校では、黒板用の大きな三角定規で頭を叩かれたり、廊下に正座させられたり、そのままそこで給食を食べさせられたりとはあったものです。ちなみにここであげたものは、すべてわたしの小学校時代の経験です。校則はゆるかったのですが、そのゆるい校則すら守れなかったことによる罰ですが、すべて立派な体罰です。
そして思うのです。「他の生徒は死んでいない」。
体罰は厳禁である。という議論ではありません。自殺をどう防ぐかという視点が、この「事件」から欠落しているということです。
体罰をなくせば自殺をゼロにできるのでしょうか。これはイジメに通じる問題です。いまどきの中高生は携帯電話の利用は当たり前といい、メールの返信がないだけで絶望するとまでいいます。そこでメールの返信をしなかったことで、同級生が自殺したとしたら
「メールは必ず返信しましょう。3分以内に」
と橋下徹大阪市長は啓蒙するのでしょうか。
そうじゃないでしょ。
体罰については改めることと、自殺は別の位相にあるのです。少なくとも、当事者意識を感じられないといわれる在校生ならば、体罰そのものに腹を立てても、
「死ぬほどのことじゃない」
と考えていたのではないのかと。
社会のルールとは多数に都合の良いように構築されます。もちろん、言論の自由が保障されている上での、少数意見はあって然るべきですが、集団で構成される社会が、集団の多数が望む形に進むのは当然のことです。
桜宮高校の生徒すべてが体罰を望んでいたとはいいません。しかし、極めて希なケースを持って全体のルールを動かす筋違いに強権を発動していることの危険を指摘しているのです。
いままでは体罰を容認していた橋下大阪市長。遺族と面会して立場を180度転換します。そこに馬脚を発見します。
かれの政治手法として、はじめに大胆で攻撃的な発言をし、その後着地点を見いだすことが上げられます。
ところが今回のやり取りから、政治的計算があってというより
「ヒステリー」
からの言動だと発見します。自分への攻撃に目の色を変えて、しかも執拗なまでに反撃するのも人間的狭量さからくる「ヒステリー」としてみればなるほど納得です。
で、ヒステリーの熱が冷めて、現実的妥協点を探しはじめます。
田嶋陽子先生に叱られるのを覚悟すれば、非常に
“女性的”
なのだとみると、すべての行動がみえてきます。結論を言わずに両にらみの発言を繰り返すのもそうです。強いものになびくのも、その限りの言葉を発しても悪びれないのは、女性同士の会話においては日常的です。
入試中止を受けて在校生のなかから、各運動部の主将が記者会見を開きました。これについて教育評論家の尾木直樹さんは、なぜこのタイミングで、彼らだけがと主張します。
彼は・・・彼女?・・いや、彼は橋下びいきであるが故に、多少の間引きは必要ですが、ただ彼の発言で的を射ていたのは
「なぜ? 生徒会ではないのか」
という指摘。
背後に教師がいて、運動部主将に言わせているのではないかということ。嫌みを言えば、橋下流傀儡記者会見ということ。
わたしもそう見ています。そこに教師の浅はかさが見えていや。
私見を述べれば、今回の「事件」、市長もイヤなら、教育委員会も学校の対応もすべて可笑しいのですが、ここまで紙幅を費やしてそれはないだろうとはゴメンナサイ。
恥ずかしながら高校時代は生徒会長でした。洒落で出馬して当選したのですから、杉村太蔵さんを笑えはしません。
時と場所を越え、桜宮高校の生徒会長ならこうしたでしょう。
「臨時生徒総会で橋下徹大阪市長のリコール投票」
その結果を持ってこう記者会見を開きます。
「市長は選挙で落とせば良いといいましたが、わたしたちには選挙権がありません。日頃、ふわっとした民意と市長は言います。私たち桜宮高校の在校生の“真剣な民意”を受け止めてください」
涙のひとつも流せば完璧。思春期の少女を10人も集めれば、ひとりぐらいはすぐ泣く女の子がいるものですからキャスティングに苦労はいりません。
もちろん、これを先生が仕掛けてもOK。仮にばれたらこう言うのです。
「市長かて府知事と政党を傀儡にしてますやん」と。
ちなみに、橋下大阪市長の考えに立つのなら「廃校」にするのがもっとも論理的です。体罰を受けていたのが彼だけであって、それを見逃していただけで在校生全てが同罪なのですから。つまり彼を死に追いやるために存在した学校・・・と。
大阪市民でない、わたしはそう考えませんし、こんな市長ならリコール運動を展開しますが。
今回は雑談的に展開したのは、それだけ異なる論点を一緒に「事件」として報道への皮肉でもあります。
そしてついでになりますが、
「東国原英夫」
ってなにものでしょうか。最近、やたらとテレビで見かけるのですが。