都知事批判は狂気的な完璧の要求

慎太郎ちゃん・・・執筆時の肩書き的には石原慎太郎東京都知事が辞職し国政に打って出るとなってから、待ってましたとアンチ慎太郎・・・というより左翼というか、地球市民というか、戦後教育を丸呑みしている連中が、批判を始めました。

朝日新聞はそれが持ち味なのでどうでも良いのですが、産経や読売でも「功罪」という形の両論併記が目立ちます。両論併記には新党結成と絡めて、政治的中立を明らかにする意味があるのかも知れません。あ、日経は相変わらずの売国奴具合で、中国さまとの関係を心配しています。

と、外交、国防その他から都知事(現時点)を語れば贔屓になってしまいそうなので、今回は批判報道、批判誘導するメディアの姿勢がこの国を歪めているという角度から見ていきます。そしてそれは原発政策に直結します。

批判の最たるものが、任期の途中で辞めたことで、これについては仕方がないでしょうね。ただし、ただの辞任ならこう批判していたことでしょう。

「そもそも高齢だったのだから出馬すべきでなかった」

東京都という枠組みではできないから、国政を目指すというので、ひいては都民のためとわたしは解釈できますが、途中で辞める知事を選んだ責任はわれわれ都民にあります。

都知事選挙に50億円かかるという試算がありますが、それは都民のお金でアリ、有権者が負担しているコストです。とにかく任期途中で辞めることが許せないというのなら、次の選挙では

「絶対に辞めない立候補者」

を選べばよいということ。それだけを都知事の能力とするなら。

誰に投票したかはここに記しませんが、前回の都知事選挙で妻と交わした軽口は「再選して任期途中で倒れたら国葬ならぬ都葬かね?」。わたしのは微々たる都民税ですが、それは民主主義のコストなのだと割り切っています。また、尖閣諸島購入に寄付したものとしては、慎太郎ちゃんが国政に戻ることより、ようやく集めた資金が有効活用されるのだろうと期待に胸を弾ませております。政治の季節となり報道は小さめですが、尖閣の接続海域に支那の船が沢山やってきています。

ちなみに中国の英語表記は

「China」

すなわち「支那」です。

新党の動きを、したり顔の識者と称する連中が口にすることを要約すればこうなります。

「第三局は保守ばかりで右傾化を危惧する」

世界の報道でも右傾化を危惧していますが、なかにはそれでようやく「中道になる」という指摘もあり、世界の報道は各国の利益を重んじるもので朝日新聞でも日経新聞でもありません。つまり、世界中全ての国々は日本に普通の国になって欲しくないのです。そこにあるのは隣国たちのような悪意だけではなく「現状維持」という生命が持つ本能です。生物は変化を嫌うのです。

国内の話に戻せば、石原新党、自民党の安倍総裁誕生、維新の会と保守系・・・ま、本当かどうかに疑念が残るのは今回はパス・・・が目立つと危惧する理由として、一方に偏ることをあげるのですがそれは論理の順序を間違えている妄言、あるいは記憶障害を起こしているとしかいいようがありません。

「極左政権による国家解体に対抗する勢力」

として保守が危機感を強めたというのが正しく、先に偏ったのは左翼勢力です。その成り立ちにまで遡らなくとも民主党が政権取ったときに手を組んだのは社民党だったことを忘れたのでしょうか。

いわば正常なアレルギー反応で、そこを利用して保守色を打ち出しているのではといぶかっている政党すらあります。党首の考え方は極めてリベラルで、維新と叫び革命を目指す人がどうして保守なのかという疑問はいずれまた。

で、任期途中の投げ出しは、やむにやまれず義憤によってならば批判は筋違い、批判すべきは現政権でしょう。逆に言えば現政権が滞りなく国政を運営していれば、慎太郎ちゃんの出番はなかった、というより何をわめいても老人の妄言として嘲笑されていたことでしょう。

彼を批判する一番の材料とも言えるのが「新銀行東京」。

数字をあげて批判できるので格好の材料ですが、当時は大銀行による貸し渋り、貸しはがしという「反社会的行為」がまかり通り中小企業が悲鳴を上げていたときのことで、杜撰な経営は責められてしかるべきですが、時代背景を無視しての批判は、中国や韓国と同レベルで歴史への謙虚さない傲慢、いや無知です。

しかし数字をあげるのなら、財政再建団体転落まで危惧されていた財政を黒字化したことも合わせての結論を拝聴したいものです。

さて、反社会的団体といったら過言と叱られるかもしれませんが、天下の大銀行さまは「公的資金注入」で助けられた身分でアリながら、さらに弱いものを叩き続けていました。

ゼロ金利政策とは銀行にとっては仕入れ値ゼロで利益だけ得られる美味しい仕組みで、当時はそのタダで仕入れたお金を消費者金融に貸し付けることでリスクなく儲かっていましたが、それに見合った税金は納めていませんでした。過去の赤字を当期の決算に組み込むことで、利益を出ていないことにできるからです。

これを会社の規模に応じた負担に改めたのが「外形標準課税」。銀行業だけ狙い撃ちにするとメディアを煽って銀行は抵抗を試みましたが、銀行への世間の視線はつめたく成立しました。みずほ銀行はこれを不服として、条例の無効を求める訴訟まで起こしたことを覚えているでしょうか。

いま、日本維新の会が叫んでいる「地方の独自財源」というのは石原都政でも課題で、実現した功績は是とすべきでしょう。反対にフトコロに腕を突っ込まれた側の国は怒り心頭。さらに新銀行東京による攻勢に、大銀行を通じて潰しにかかったのが財務省・・・とは陰謀論に過ぎるでしょうか。

是とすることは多々ありますが、もうひとつだけ。

震災直後に福島第一原発にハイパーレスキュー隊を送り出したのは誰でしょう。この時の記事をみるといつでも泣けるのですが、10月28日の産経新聞で、当時の消防総監が当時の秘話を明かし、これにまた涙しました。インタビューをそのまま引用します。

「『あの知事が』と意外かもしれませんが、知事は決して『やれ』とは命令しなかった。『本当に大丈夫か、できるならやってくれ。頼む』と。最後まで隊員の身を気遣う気持ちを感じた」
(引用:産経新聞:MSN産経ニュースよりコピペ)

活動報告会での知事の「ありがとうございました」という言葉に偽りはないでしょう。

■東京MXの報道(ユーチューブ)
http://www.youtube.com/watch?v=J8stjJypbgI

官邸と東電で怒鳴りまくっていただけのペテン師とは違います。

震災がれきの受け入れなどなど、まだまだあるのですが、褒め称えるのが目的ではないのでここまでとし、次を紹介して、結論へとすすみます。

原子力規制委員会が発表した、原発事故が起きた際の放射性物質拡散シミュレーションが間違えていたと慌てて訂正しました。当初発表を受けて、メディアは対象地域に飛び、住民や農民にどう思いますかと尋ねます。こうした「イヤだ」しかない質問には辟易しますが、訂正を受けて「あってはならないこと」と識者が溜息をつきます。原子力事故を受けて発足した規制委員会が間違えるとは言語道断と語気を強めます。

都知事批判と重なるのは

「狂気的な完璧の要求」

です。政治が100%正しいことだけをするなど幻想です。ある人にとっては正しくても、反対の立場から見れば天下の悪法になるのは自明です。ときに間違いを犯すのが人間であり、再発防止に努めるのも人間ですが、それは再発のサイクルと伸ばす効果はありますがゼロになると信じるのは幼稚すぎます。

シミュレーションのミスを厳しく糾弾していたのは、幻冬舎の「GOETHE(ゲーテ)」編集長 舘野晴彦さん。雑誌はもちろん、編集出版広告に携わるものなら「常識」に属しますが、人はミスをするもの、誤字脱字に事実誤認は起こるものです。本稿の言い訳ではなく、どれだけ入念に校正しても何度かに、何年かには起こるものという業界にいて、ミスを非難する行為を「棚に上げて」といいます。

グーグルで「幻冬舎 ゲーテ 訂正」探すとお詫び記事がみつかります。そして全くの余談ですが「幻冬舎 ゲーテ 事実誤認」で検索すると「上杉隆」氏のウィキペディアが紹介されたのですが「事実誤認」のSEOにおいて彼はトップなのかも知れません。

原子力規制委員会は電力各社より寄せられた疑問を受け、再計算して間違いに気がつき、訂正しました。わたしはこの迅速な対応は誉めるべきと考えます。間違いは叱っても、その後の対応こそが一番肝心だと考えるからです。

再発防止策を講じ、それを発表しろというのなら建設的ですが、とにかくミスはイカンというのは思考停止か狂気により正常な判断がくだせなくなっているのかのどちらかで、残念ながら日本全体がこの空気に包まれています。

まして「ミス(事故)は起きない」という甘い見通しで重大事故に発展した福島原発事故を受けて発足した規制委員会です。ここにも「ミスは起きない」とするのは学習能力の欠如か、丸投げによる無責任な責任回避です。

そしてミスを怖がるあまりに、起きてしまったミスを隠そうとするのは人間の正常な防衛本能です。これが積み重なり大きな事故へと発展したことを、もう一度、我々は真剣に考えなければなりません。

石原都政批判する人は光と影の影ばかりをあげつらいます。すると間もなく訪れる都知事選挙で、後継候補に対立する立候補者は影に呼応して光を見なくなります。

自民党政治の打破が叫ばれ、二大政党制を煽ったこの二十余年で政治が劣化した理由のひとつです。自民党型政治の光の部分は置き去りにされ、影の部分の塗り替えに終始してきました。これは民主党だけではなく自民党内部でも同じです。

あなたはどちらをみて暮らしていきたいでしょうか。

失敗の反省は必要です。しかし、良いことは良いとほめる度量をなくした社会は切なすぎます。完璧を求め、批判を繰り返すマスコミこそがこの国を歪めています。

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