総括原価方式ってふつう

謝罪のベストのタイミングっていつでしょうか。

アメリカ的な発想が浸透してきた昨今、「謝らない」というのが
正しい回答のような風潮もありますが、それは違います。

先に謝ると裁判で不利になる。とは都市伝説のひとつで、例えば
謝罪後にこじれて口論になり、こういわれたとします。

「先に謝ったじゃないか」

ならば、こう答えます。

「日本人だから」

つまり、日本人の常識的範疇のなかでの「すいません」をとらえ
て「全面降伏」とするものではなく、一般的には裁判でも同じと考
えられています。

それではタイミングについてはいつでしょうか。

先日、関越道で死傷事故を起こしたバス会社の社長が、被害者や
遺族に向けた説明会で土下座の謝罪をしていました。

報道の映像では事故から1ヶ月以上過ぎてからの謝罪に、遅いと
被害者の怒号が飛んでいました。

中身は論外の、通学途中の児童を死傷させた京都の事故のとき、
加害者の父親や親族が、被害者家族の連絡先を入手し、連絡した
ことが非難されました。

このとき、加害者・・・いや、犯人の父親は葬儀に参列したい、
日本語の慣用句的にいえば、お線香をあげさせて欲しいということ
だったのでしょう、これは「直後」です。

このときは情報の入手先がとりあげられ、悲しみの渦中にいる
遺族の逆立つ神経をマスコミが利用しているようにも見えました。

葬儀の参列への可否は遺族が決めることで、妥当な方法として
考えられるのは、町会長や共通の知人、それが縁遠くても探し
だす努力をし、仲介者を立てて「お願い」するのが犯人の父親の
とるべき行動だったとわたしは考えます。

しかし、少なくとも謝罪しようとする気持ちを表したことは、
遺族や被害者に「謝りもしない」という新たな怒りを生み出す
ことを食い止めたのではないでしょうか。もちろん、ご家族に
しか本当の気持ちは分からないことですが、時が経てば坊主の
袈裟どころか、その宗派すら憎むものですので。

当初は警察側からの情報提供と大バッシングが起こりましたが
すぐあとに通っていた小学校の教頭先生が、犯人の父親と共通の
知人を介して提供したものであると判明しました。これもまた
非難されました。個人情報がなんちゃらと。

そしてなにより、亡くなった被害者のケータイに連絡がはいっ
たことを、感情が高ぶっている遺族はともかく、マスコミまでが
こぞって大騒ぎしたことに違和感を覚えたものです。

だって、連絡先を教えたのが教頭ならば、

「連絡網」

と考えるのが自然だからです。被害者の番号ではなく、被害者
一家の連絡先という認識です。

これは小学校のボランティアをしていたときに知ったことです
が、いまどきの保護者は連絡先をケータイにしている人が多く、
ときにはすべての連絡事項をケータイによこせと依頼する保護者
もいます。

だから小学校に通う娘を持つ母親のケータイが、それは
悲しくも被害者でもありましたが、鳴ったとして悲劇のなかの
悲劇としても、社会正義を振りかざすのは筋違いです。

もともとはパーソナルツールだった携帯電話を、学校という
オフィシャルな空間と接点に選択することを選ぶことに異議を
唱えないのであれば、その番号が洩れたことはそれほど深い
罪ではありません。

この件で公務員の守秘義務を持ち出して滔々と語る識者とは
あまりにも学校の現場を知らなすぎます。いや、仮にそうだと
主張するのであれば、校長以下、すべての教職員に個人情報に
触れさせないために、児童生徒を番号で呼び、労働時間も厳密
に守らせるなどの制度的な対応も同時に語らなければ、あまり
にも先生が可哀想すぎます。

少し脱線しますが、妙ちくりんな名前の「DQNネーム」を
みただけで親の程度が分かります。あるいは、顔かたち、肌の
色からうっすら家庭環境がみえることもあり、これらは立派な
「個人情報」です。番号で呼ぶのは「DQNネーム」対策で
顔かたちを隠すなら、児童生徒すべてに「覆面」をつけさせる
まで徹底させるとよいでしょう。教師の給料は重要機密をとり
あつかうほど高いものではありません。

話を戻します。

先の「情報流出」とは、犯人側と被害者側を直接つないだの
ではなく、共通の知人が間にはいっており、かつての「地域社会」
が存在した時代なら「よくあること」だったのではないでしょうか。

仮に責めを負うなら「共通の知人」です。この方が、犯人の
父親にかわって遺族や被害者に連絡をとるべきだったのです。
あいだに入るとはそれだけの責任があるのです。法律ではなく
「道義的」に。

いくつかの要素が絡んでいるので単純に割り切れないのですが
こういう見方もできます。

「すぐに謝罪するために地域社会のつながりに頼った」

わたしが批判するのは、こうした視点を持たないマスコミです。

とにかく「焚きつけよう」とします。

話は飛びますが、東京電力の値上げも「焚きつけ」ます。

・・・東電のやり口に辟易もしますが、ならば既に国有化
しているのですから枝野(現職大臣を呼び捨てはアレですが、
こいつは菅直人の不愉快な仲間のひとりなので)を集中攻撃す
ればよいだけのことです。少なくとも自民党政権時代なら
そのフォーマットを採用したことでしょう。電信柱高いのも、
郵便ポストが民営化されるのも(戻りますが)、みんな自民党
が悪いのよと。

ところが東電しか批判しません。
値上げ批判の代表格が

「総括原価方式」

すでに各種報道でご存じでしょうが、すべての原価に一定の
利益のせる計算方法です。

「だから損しない体質だった」

とはその通り。ましてや事実上の独占企業だから当然です。

そして

「利益の9割が家庭用販売だった」

ことも批判されます。

東電は批判に晒されるに値する充分な理由がありますが、
しかし、あえていいます。

「普通ジャン」

まず家庭用販売が・・・について。ほとんどの企業には

「花形部問」や「ドル箱事業」

というのがあり、儲けというのはすべての商品やサービス
から一律徴収するのではなく、例えばコーヒーショップの
コーヒー、居酒屋ならサワー類は利益率が高く、フードメニュー
の利益率は低いものです。さらにランチメニューやセット
ものは利益率を抑え、ディナータイムで利幅の多いメニューを
注文させることでバランスを取るのです。

家庭だけにしわ寄せが来る・・・ことに忸怩たる思いは
ありますが、それを認可してきたのは枝野・・・経産省です。
過去をほじくるなら、ここは自民党を責めてもOK。

前置きが長くなりましたが、いよいよ本題。

マスコミによる「焚きつけ」で見失ってはダメ。

「総括原価方式ってふつう」

とは、積算式の見積もりは総括原価方式なのですから。

家を建てるときは、土地代、設計費、建材費、人件費、
その他工賃を合算したものに一定の利益を計上します。
これを大工の日給と同じように定額制にすることはあり
ません。なぜなら

1億円の豪邸と2000万円の建て売りではリスクが
異なるからです。

印刷物でも同じです。紙の値段、インク、裁断費用の
他にデザイン料や、その他コストを合算してから販管費
や営業費などの名目で利益を計上します。

つまり、総括原価方式とは、ビジネス上当たり前の
アプローチなのです。独占企業で客に拒否権がないという
特殊事情からの批判は当然としても、そのアプローチその
ものが間違えているかのような断じるのは

「商売」

を知らない人のタワゴトです。

例えば「定価」が決まっている商品を例に挙げて、

「企業努力でコストを抑えている」

と正義を振りかざします。

大間違いです。「定価」とは、いうなれば

「総括原価方式で算出された単価」

ということ。逆に言えば東電は、利益率を認可制で
抑制されたので、営利企業として儲けるために知恵を
絞り

「高コスト体質」

を創りあげたのです。

そしてこれが問題であり、事故から1年以上が過ぎた
今も改められないというのであれば、すでに国営化され
ているのですから、国の責任にあるのです。

また、東電がボーナスの支給を目論んでいると、昨日
から大騒ぎしていますが、それを見逃しているのが破綻
させなかった政府の仕事で、これは1000%民主党の
「政治主導(笑、なにもしないという意味)」です。

さらに政府だけの問題ではありません。

総括原価方式の安直な批判の際にセットで指摘する

「企業努力」

とはなんでしょうか。値段を下げることでしょうか。

20年近く続くデフレのなか、国民の大半が値段が
下がることを当然と疑わず、あまつさえ企業努力と
言い垂れます。

昨年騒がせた「殺人ユッケ」は280円でした。

これは「企業努力」でした。近頃は、知ったかぶり
してこう答えいる人もいるでしょう。

「ユッケで損しても他のメニューで儲けている」

なるほど。それは東電が家庭向けで稼いでいたのと
同じ理屈です。

また、バス事故を挙げるまでもなく、最近の旅行は
安価となり、下請けが搾取されるのはどの業界でも
同じです。仮に下請け企業が「総括原価方式」を採用
できれば、安全対策を充分に講じることができるでし
ょう。

しかし、それを元請けとお客が許しません。

確認のために明記しますが、東電を擁護するつもりは
さらさらありません。すでに事実上の決定権は政府や
経産省に移っており、東電を責めるのは本質から目が
逸れてしまうと言う指摘と、これを機会に

「コスト」

というものを国民は考えなければならないというこ
とです。

見かけ上の安さと本当の負担は必ずトレードオフの
関係になるのです。それは原発しかり、ユッケしかり
です。

この視点に立ったときに、デフレを喜んでいた国民の
ひとりとして、わたしは心からの謝罪の言葉を述べたい
と思います。

「ごめんなさい」

謝罪とは真摯な反省にたったそのときが頭の下げどき
かと。

ちなみに、殺人ユッケの牛肉は、本当に普通の業者が
手を出さないような死にかけの牛が解体されたものだっ
た・・・とは食肉関係者情報。

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