大江健三郎著「沖縄ノート」を読んで

まずはじめに。事実関係を断定しません。
私は一読者と人生で触れあった沖縄の人々とを織り交ぜての記します。

ノーベル賞の怪しさはお隣の元大統領の平和賞に、環境に優しくない
生活をしている不都合な人への授与からも明らかですが、文学賞は
純粋に言葉を弄したその技術によって讃えられるものであるならばそれも
また納得しろというのではないかと自分の中の誰かが叫ぶ。

って文章で綴られるのが「沖縄ノート」。
かくもまどろっこしい表現があるのかと勉強になりました。
そして結論。

「偏った思いこみを持つ傍観者と行動しないことを正当化する夢想劇」

という感想。
とにかく登場する全ての沖縄以外の日本人を悪辣に詰ります。
いやいやそれが氏の立場であるのならばそれで結構なのですが、
いつでも傍観者として「参加しない」を貫きます。そしてその理由を
つらつらと連ねてながながと記します。

思索の吐露というのでしょうかまるで思春期に目覚めた男子中学生が
いずれくる初キッスからつらつらと夢想に耽り淫らな夢をみ、その夢か
ら初体験を想定し、また夢の中で体験を重ね、その相手の人生と悦びを
語るかのようでひと言で言うと

「妄想」

です。
ひとつエピソードを紹介します。

大阪万博のテレビ中継で報じられた沖縄の「闘牛」をみた作者は、
日本という植民地での享楽と評して「戦うな!」と牛たちに向かって
叫びません。

・・・? 叫ばないのです。

沖縄での活動を「傍観」してきた彼はいつでも傍観者でしかなく、
闘牛も又

「僕は沖縄で闘牛をじかにみたことがないが、そこに滞在している
あいだ、現地紙で闘牛の具体的な論評を読むことは愛していたので
これらの豪傑(牛のこと)たちの名前に馴染みがあった」

と、みてもすらいないと告白して、

「(略)牛の豪傑達よ、戦うな! と叫ぶ思いでいたのである」

とブラウン管のこちらがでもまた叫ぶことすらしない傍観者で
あるのでした。

そして徹底的に日本人がお嫌いなようです。
・・・絶句するのが「だったら!」という当然おこる突っ込みに
自らが最後のページ自爆ギャグのようなひと言を残しています。

まるでつっこまれる前の防衛戦のように。
しかし、地域誌の論評を元にしたり、鉄の暴風の孫引きだったり
と一次情報の乏しさは曽野綾子さんの方を読むとよりくっきりと
浮かび上がります。

■沖縄ノート
http://www.as-mode.com/check.cgi?Code=4004150280

曽野綾子さんの方は後日。

■沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実—日本軍の住民自決命令はなかった! 
http://www.as-mode.com/check.cgi?Code=4898315453

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