テレビがつまらなくなった理由と宮崎駿の功罪

 テレビがつまらなくなったと言われて久しいのですが、当初これを健全な社会の有りようではないかと受け止めていました。

 テレビのようなくだらない娯楽を見ないというPTA的な発想ではなく「バブル」をきっかけとして、経験してきた人生の感想です。

 わたしが社会に出たのは平成元年。四半世紀前となるわけですが、社会に出てすぐに末期癌だった父を亡くし、当時中学1年生だった妹を引き取り生活していくと主張するも現実的ではなく、父の死の一月前に約5年間消息不明だった実母と再会し、彼女が彼女を引き取ることとなり、自動的にと言うかひとり暮らしへと追いやられました。

 出ていくのと、取り残されるのは大きな違いですが、これは別の話。

 そんなこんなでひとり暮らしを始めて楽しみと言えばテレビぐらいでした。なにせ突然、家族が誰もいなくなったのですから。当時はビデオデッキも高価で、支給額13万円のプログラマーの手が届くものではありません。

 と、ここで説明が必要ですね。当時はインフレで、いまのように再生専用のDVDプレイヤーが1万円以下で買うことはできず、レンタルビデオも1本500円ぐらいし、安いところでも一本350円で3本まとめて1000円だったような記憶があります。そして録画再生機はVHSテープです。

 ついでに生活に触れれば、100円ショップもいまほど店舗数もなく、充実はしておらず、コンビニは値引きせず、低価格ファミレスなど存在していません。食べていくのがやっとでした。

 もちろん、ガラケーもスマホもなく、家庭用ゲーム機の主力はいわゆる「ファミコン」で、そんな高価な遊技機はわが家に存在しませんでした。

 そんな時代、電気代だけで時間を埋めてくれ、ときに笑いや感動を提供しくれるテレビは娯楽の王様でした。

 テレビがつまらない。これを健全と受け止めたのは、社会生活に慣れ、遊び歩くようになってからのことです。人と接し、大人の世界に片足をツッコミ、仕事も理解してくると、圧倒的にリアルの方が楽しいことに気がつきます。

 つまり相対評価により「テレビがつまらない」と感じたのです。

 来週の26日で、独立してから丸12年となります。独立してからより一層、テレビがつまらなくなったのは言うまでもありません。圧倒的に毎日は楽しく、なにより刺激的です。

 だから、「つまらない」ものかと思っていましたが、さにあらず。

 やっぱりテレビはつまらなくなっています。

 TBSの『半沢直樹』やNHKの『あまちゃん』、テレビ朝日の『相棒』シリーズのように、視聴率を稼ぐコンテンツはあり、それらまでもつまらないとはいいません。『あまちゃん』などは、朝7時30分からのBSプレミアム、8時からの本放送、そして昼12時45分からの放送と、時間があれば日に三回(ちなみに昼の部をあま3と読んでます)見るほどドップリはまっているのですが、おしなべて見たときに、やはりつまらなくなっています。

 理由をひとことでいえば「幼児化」です。

 端的な例を挙げれば「テロップ」です。発言の要旨や、企画の趣旨を文字で表示するアレです。ニュース番組からバラエティ番組まで、テロップが入ります。

 親切ではありません。幼児化です。

 聞き取りにくい、分かりにくい言葉を、文字で表示することで、視聴者からのクレームを避けているのです。強い「なまり」のある言葉にテロップをいれるのは分からなくもありません。しかし、かつてそれはインタビュアーや記者が言葉をなぞり、繰り返し問いかけることで、テロップ無しで伝えたものです。それにより「なまり」がもつ、独特の表現や暖かみ、感情をテレビは伝えました。音声と映像を同時に伝えるメディアの力といってもよいでしょう。

 テロップによりこれが消滅します。耳慣れない方言を解読するために、テレビ画面に集中し、表情から感情を読み取ろうとする作業が奪われ、文字を追えば手軽に「内容」だけが分かるようになりました。この時、「じぇじぇじぇ!」に代表される方言やイントネーションはBGMに成り下がります。

 安易な手段の多用から依存、そこに克己はなく、手を加えるのはテロップの色やフォントといった小手先だけでは、まるで24色のクレパスをすべて使って絵を描こうとする幼稚園児と同じです。それで仕上がるのは絵ではなく色見本です。番組ではなくテロップを見せられるテレビが面白いわけがありません。

 幼児がすべてのクレパスを使ったとして誉めてあげるべきでしょうか。教育が絡むので、正しい答えは「時と場合」に依りますが、判断を誤ると幼児は手段と目的を取り違えたまま、成長してしまいます。絵を描くことが目的であるなら、クレパスのチョイスは手段に過ぎないことを教えなければならないということです。

 当たり前のことですよね。ところが幼児化したテレビマンは、必然性を疑うことなくテロップをいれます。大人の幼児化とは思考停止の常態化と説明しても良いでしょう。

 挙げれば切りがないので、もうひとつだけ。ワイドショーや討論番組に登場するパネリストやコメンテーターが「バカ」になっていることなど幼児化の典型例です。

 代表選手が古市憲寿で、「社会学者」を名乗っていますが、これは自称で事実は学生です。学者の学びは一生というものではなく、在学中の学生が「学者」を名乗るところにバカが炸裂しています。

 メディアに登場する際「肩書き」は必ず確認されます。ということは、古市憲寿は「自称」しているのでしょう。仮に番組が勝手につけたのであれば、訂正するのが学究の徒の分際であり、立派な学者である先人への敬意です。

 こういう人物を番組に起用できるのは、テレビマンが幼児化しているからです。正確に言いましょう。

「想定の範囲内のバカ」

 を求めるのです。放送の枠からはみ出るようなバカはさすがに使えませんし、放送の枠からはみ出る切れ者は、番組ディレクターの理解の範囲を超えるので起用しないのです。

 分かりやすく言えばこんな感じ。

「古市憲寿ならこの程度の発言だろう」

 ディレクターやプロデューサーが、自分の知識の範囲内で使える人間を起用しているということです。

 反対の事例を見ると分かりやすいのですが、反TPPの論客である中野剛志氏が、京都大学准教授時代に、フジテレビ『とくダネ!』に出演したときのこと。舌鋒するどく、かつ的確にTPPの問題点を指摘しました。過分に感情的ではありましたが、メインMCの小倉智昭氏の正義の味方をした怒ったふりを見ている視聴者にとっては、それほど違和感のあるものではなかったことでしょう。

 ところが出番はこれっきり。ネットでは中野氏の「キレ」具合が、一部伝説と化し、反対にとくダネ! はTPP推進派の番組というレッテルが貼られています。2011年10月27日の放送分で、当時は民主党ドジョウ政権で、民主党マンセー(っていうかアンチ自民党芸人、つうか反権力のヒロイズムという幼さ)の小倉智昭氏との組み合わせから、あながち遠くもないのですが、かつてのテレビ局なら、中野氏のような「危険人物」と、主張が対立する別の識者を呼び寄せ、

「ハブとマングース」

 のようなガチガチの討論をさせたのでしょうが、そこまで本気でやるつもりなどさらさら無いのがいまのテレビです。幼児化しているので、複雑な議論が理解できないのです。

 その点、古市憲寿なら、セキセイインコが語る大自然です。聞きかじり、ネットで検索、想像&妄想でありながら、決定的であるのは「自分の意見」という脳内ワールドをベースとしているので、仮に問題発言(よくやってますが)があっても、古市憲寿の責任に押しつけることができるのです。ある意味、残酷ではありますが、毒にも薬にもならない発言で、時間を埋めることができるのは、番組制作サイドとしては安心できる材料です。

 先の中野氏のように、役所の方針に反旗を翻すと、当該官庁が「ご説明」と称して、押しかけることもあるといいます。これも面倒で避けたいところなのでしょう。

 それではテレビ局のディレクターやプロデューサーがTPPについて、どれだけ学んでいるかといえば、どれほども学んでいません。だからそのために「専門家」を呼ぶのですが、理解の範囲を超える専門家を呼び、中野氏のように暴走されては責任がとれません。

 そして理解の範囲内の説明しかしない専門家ばかりを集めるようになります。これを繰り返すうちに、古市憲寿のような人物に声を掛けるまで劣化していったのが、いまのテレビ局です。

 「若手論客」のオタク率が高いのも同じ理由。本来はアニメオタク、アイドルオタク、ライトノベルオタクで、せいぜいそれらについての「評論家」に過ぎない連中が、

「批評家」

 と名乗り、政治や時事問題を語ります。殴り合いもしたことない連中が、過剰暴力による殺人が起こる理由を語れる訳がないのに語っちゃいます。格差社会や市場原理主義を批判するというトンチキぶりを遺憾なく発揮して。

 彼らもテレビ製作者の理解の範囲内にいるセキセイインコです。1発2発までは拳の痛みを感じるが、繰り返す内に痛みが麻痺し、あるいは拳の痛みも相手のせいにと腹を立て、暴力は過激に転ずる・・・そして人を殴った瞬間に背筋をヌケル快楽・・・といった、暴力の真実をテレビ放送に乗せる勇気など、幼児化したテレビマンにはありません。「幼児化」とは責任を取る「大人」からの退化も意味し、責任を回避し、追わないようなポジション取りも含みます。

 ちなみに40歳過ぎても「若手」とよばれ、それを恥じない連中も合わせて、日本の論壇の動脈硬化は末期症状といえるでしょう。40歳はオジサンです。立派な。あるいは「気鋭」と呼ばれず「若手」と括られるところに、彼ら「批評家」の実力が見えるのかも知れません。

 斯くしてテレビがつまらなくなりました。その理由を「幼児化」としました。「幼児化」については、ネットの影響も強く、これについては、拙著

『食べログ化する政治〜ネット世論と幼児化と山本太郎〜
(電子書籍、キンドルストアで絶賛発売中)』

 に詳しいので買ってください。読まなくても良いので。買ってくれるとわたしに小銭が入ります(笑)。

 幼児化している証拠についての論証が少ないことをお詫びしますが、時間の関係で次に進みます。

 ではなぜ「幼児化」するのか。拙著ではネットの特殊環境を取り上げましたが、社会的にみたときにふたつの要因を見つけたというのが本稿のメインテーマ。前置きが長くてすいません。

 まず「戦争がない」こと。これは人類史においてとても良いことです。しかし、いまの日本で起きていることはこう。

「大人にならなくても良い」

 本日の『あまちゃん』で、主人公のアキちゃんは自分が変わらないことを肯定的に捉え、親友の兄ストーブさんは、変わらない自分への葛藤を見せていました。

 変わる、すなわち大人にならなければならない・・・はずが、子供のママで見逃される・・・どころか、それを了とする風潮すら生まれています。

 若作りや「女子会」なるネーミングもそのひとつです。大人としての責任を回避しながら生きても、生きられる世の中になったのは戦争がないからです。

 戦争があれば。悲しいことですが、死と向き合います。ひとはいずれ死ぬ現実と同居しなければなりません。生きるか死ぬかの局面で、アニメもライトノベルが救いを与えてくれるかも知れませんが、現実の空腹を満たすことはありません。空想や妄想も一発の銃声がかき消します。

 そのとき、我が身を守り、愛するものを守るという、命への責任が発生し、幼児でいることは許されなくなります。

 ところが戦争がありません。周辺で起こっていても、見ない振りして考えない振りをし続けてきました。いま、安全保障の議論が行われていますが、いまだに自衛隊という我が国の軍人さんは、ろくな武器を持たされずに危険地帯に送り出されています。まともな神経を持っていれば、どれだけ残酷な行動を強いているのか想像もできるのでしょうが、幼児化しているので首根っこを押さえつけられ、見せつけられるまで気がつかない振りをし続けることができます。

 自覚的幼児化といっても良いでしょう。我が身を守る、その実行力という大人の現実から目を逸らしているのです。

 幼児化したもう一つの理由は「宮崎駿」です。先日、引退を発表したアニメーター。

 彼の引退に際し、宮崎駿氏の功罪として

「大きいお友達に市民権を与えた」

 とツイートしたときに、まるでそれまでは市民権がなかったみたいだと批判的な返信を頂戴しましたが、その通りです。昭和時代、青年期を過ぎてアニメを追い掛けている人物は白眼視されたものです。作家などのプロはともかく、熱心にアニメ作品を見ている成人に、比喩的表現における市民権はなかったのです。

 いまでいうオタクがいなかったわけではありません。彼らはサブカルであることに自覚的でした。また、製作者もアニメという表現を用いてドラマを創り出すことに情熱を傾けてもいました。陳腐な例えで申し訳ないのですが『ガンダム』における登場人物の死などは、子供にとっては重すぎますが、人間ドラマを描くという目的は達成しています。

 また、『あしたのジョー』のように社会現象にまでなった漫画作品もあり、すべてが否定されていた訳ではありませんが、いまのようにすべてが受け入れられていたわけでもないということです。

 そこに宮崎駿が降臨し、大人の鑑賞に堪えうる、そして大人鑑賞しても恥ずかしくないという評価を創り出しました。

 そして生まれたのが

「ワンピースしか読まないオジサン」

 です。40歳になっても漫画『ワンピース』しか読まず、50歳を目前に『あひるの空』にワクワクする。新聞を読み、小説を読み、哲学書や経済学を学びながら、漫画やアニメを楽しむのではなく、アニメや漫画しか読まないオジサン達に市民権を与えたのは宮崎駿であり、そのオジサン達のメンタリティには、多分に幼児性が含まれているのです。

 いまや種市先輩となった福士蒼汰が主演の『仮面ライダーフォーゼ』が始まったときのこと、卵形のライダーのフォルムに

「(今度のライダーは)ないな」

 とツイッターに書き込んで大きなお友達=オッさんがいました。

 ライダーの評価は子供が下すもので、フォーゼは大ヒットしました。見事な幼児化です。リアルな子供の領域を上から目線で評論するのですから。

 宮崎駿氏の引退会見を見る限り、彼はその作品の多くを子供向けに創ってきたように感じました。いや、多分そうなのでしょう。マーケットとメディアが、彼を巨匠に祭り上げ、礼賛することで「芸術」のイメージが一人歩きしたに過ぎません。その結果、社会の幼児化が加速しました。

 幼児化の理由のひとつを「宮崎駿」としました。しかし、これは彼を非難するものではありませんし、正確には手塚治虫や藤子不二夫等々、キラ星の才能の積み重ねによる到達点ではありますが、アニメの社会的ステータスを上げたという点から、宮崎駿氏が果たした役割は大きいということです。

 現在上映中の『風立ちぬ』においての震災のシーンは、地面が波立ち、まるで彼の初期の代表作である『風の谷のナウシカ』における「オウムの群れ」のような街並みが描写されます。

 まるで漫画です。いや、アニメです。アニメ表現です。そしてデフォルメされたものが理解しやすい幼児や子供が、物語を経験する入口としてアニメを見ることは悪くはありません。

 しかし、大人になってもアニメ作品にだけ没頭することは、リアルとの乖離を必然的に呼び起こします。なぜならリアルはデフォルメされておらず、つまりは煩わしいからです。大人の付き合いもあれば、転べば怪我もします。日常会話に分かりやすい伏線など用意されておらず、エンドロールが流れて一件落着もありません。日々は続いていきます。

 かつてはこの煩わしい生活に追われ、染まっていったものです。少年期の終わり、あるいは青年から大人への階段です。それを宮崎アニメがアニメの評価をかえ、アニメを見続けることが否定されなくなりました。それは他のアニメにまで伝播し、特撮、鉄道、アイドルと拡大解釈され、社会全体が幼児化してしまいました。

 アイドルがジャンケンをするだけの番組が、ゴールデンタイムに流れ、それを真剣に観戦するオッさん芸人を「バカ」と呼ばない世の中こそが幼児化の証拠です。

 幼児に難しい話はわかりません。テレビにとって視聴率は重要です。視聴率は視聴者が視聴した割合です。幼児化した視聴者は、難しい話しを理解できません。

 幼児はじっくり話を聞くことができず、テロップでの説明を求めます。深い知見など到底理解不能ですが、コメンテーターのふわっとした会話なら、そもそも理解する必要がないので、耳に優しく少なくとも不快に感じることすらありません。ジャンケンならば3才児でも理解することでしょう。

 そしてテレビはつまらなくなったのです。

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