座間猟奇犯罪とマスコミ報道とSNSへの誤解


 神奈川県座間市で起きたシリアルキラーの案件について。ここまででわかっている問題点を指摘しておきます。それは考えたくもないことですが、今後も起こり得る事案であり、かつ、今日に起きても不思議ではないからです。

 問題は2点。マスコミ報道とSNSへの誤解です。

 要点のみをまとめた「動画版」も公開しています。

 まず、マスコミの問題を取りあげます。犯罪を報じることは彼らの仕事でもありますが、猟奇的な事件を、その手口とともにつまびらかにすることは再発を誘発します。

 ある報道では、犯行現場の階下の住民のインタビューを紹介していましたが、多少の異常な物音や、頻繁なトイレの利用は語りましたが、犯行そのものには気がついていませんでした。また、発覚当初から近隣取材で、異臭が取りあげられましたが、それを警察に通報したという話は伝わってきません。

 ここからわかることは、人を殺してもそうはバレ無いということです。当然のことながら念のため明記しておきますが、人殺しを推奨するものでもなく、むしろそれを究極的に最小化するための一筆啓上です。

 残念ながら社会には一定の異常者がいます。むしろ「普通」のほうが虚構という指摘もあり、そちらの方が正しいかも知れません。

 不特定多数が参加する社会において、皆がそれなりに快適に暮らすための「妥協点」が常識であり、常識の枠を越えたものを隔離なり、排除なりをするために編み出されたのが法律とも言えます。

 だから、護憲信者のような脳内お花畑が現出するなら、武力どころか法律すら要らないことでしょう。しかし、現実はそうではありません。

 異常犯罪に目を戻せば、そこへの好奇心を抱えている人は少なからずいて、理性と利益がそれを抑えているに過ぎません。

 理性とは常識や愛情で、利益とは現実的な収入はもちろん、家族や恋人、友人知人から受ける愛情と評価も利益です。

 さて、このどちらもない人物にとって、今回の執拗でいて詳細な報道は「誘惑」となります。人を殺してもバレ無い、と。

 遺体の損壊についても、「ネットで調べた」との供述を垂れ流しにします。猟奇犯罪ですら国民の知る権利かもしれませんが、小中学生でもたやすく視聴できる、朝の情報番組や夕方のニュース(事実上のワイドショー)で、詳細な手口を報じるやり口に首をひねります。

 いわゆる「バラバラ殺人」と呼ばれる遺体損壊事件は、昭和時代からありましたが、身元特定を避ける為や、強度の怨恨などの理由がありました。

 最近目立つのは「処理」としてです。次の殺人に備えるためや、遺体の保管場所に困ってと言うものです。そして犯行が明らかになるたびに手口も公開され、ネットに保存されていき、次の機会(犯罪)に「ネットを見た」との犯人の証言を既存マスコミが報じることにより拡大再生産されています。

 これらの報道姿勢は、いまに始まったことでありません。20世紀のころから、猟奇的犯行が発生するたびに詳細な手口を、ワイドショーはつまびらかに報道し、一方で報道に対して疑問の声が挙がるのですが、冷静な検証も検討もされないまま放置されつづけてきました。こんなところにも、既存マスコミに「自浄作用」がないことを確認できます。

 こんな反論があるかもしれません。「起きた事実をすべて伝えるのが報道だ」。

 詭弁です。起きた事実のすべてなど報じることはできません。既存マスコミお得意の社論にそぐわない事実を省略する「報道しない自由」だけではなく、ニュースバリューと紙面、放送時間のバランスで、一部を切り取る構造になっているからです。

 つまり「再犯を誘発する情報」を意図的に報じているのです。

 ロフトの部屋にしたのは首つりをし易いから。あらかじめネットで遺体を損壊する方法を調べていた。ツイッターで自殺志願者を誘った。その後、LINEやカカオトークで会話し安心させた。などなど。

 例えばこれらが、BS番組や深夜のニュース、あるいは「検証報道」と銘打っての番組企画や記事ならば、国民の知る権利に答え、社会問題として共有する意義も十分に認めますが、繰り返しになりますが、小中学生の目に気楽に触れる時間と番組での報道にそれを感じはしません。

 もちろん、罪に問うことなどできませんが、マスコミが「幇助」しているようにすら感じてなりません。

 次に被害拡大の舞台となったとされるSNSについても誤解が広まっています。

 かつて「ウェブで政治を動かす」とのたまった人物がいました。典型的な「テクノユートピア論」に過ぎません。

 「テクノユートピア論」とは技術開発が進むに連れて、そこには楽園が生まれるという妄想です。古くは足尾銅山、四日市ぜんそく、最近のサイバーアタックなど、技術の進歩が地獄絵図を描く事例は枚挙に暇がないのです。

 ネットの発達によるメリットもあり、私もその恩恵で禄を食む側ながら、技術には善悪の意思も区別もなく、その技術を使う人間によって左右されるものに過ぎないということです。

 SNSも同じ。SNSに問題があるのではなく、SNSを使う側に問題がある。これだけのことであり、同時にここに立ち、啓発と警告を繰り返さない限り、同種の事件は頻発することになるでしょう。

 残酷すぎる事件につき、詳細には踏み込みませんが、被害者のなかには未成年や学生もいました。時代性からみて、その多くが「スマホ」によりSNSを利用していたとみるべきでしょう。

 スマホにはGPSによる追跡機能を搭載でき、保護者や関係者により居所を追跡することが可能となります。また、とりわけ学生が、夕方どころか夜が明けても帰宅せず、スマホで連絡がとれないとなれば「事件性」が疑うべきですが、ここへの対応はどうだったのか。

 実際、事件が発覚したのは、妹御と連絡が取れなくなった兄の「捜索」によります。

 事件が発覚してからの警察捜査で、スマホの通信記録、位置情報などが特定されています。1人2人ならばともかく、未成年だけで少なくない数の被害者がでています。

「子供が夜になっても帰ってこない状況は異常」

 というコンセンサスが社会で共有されていたならば、被害の拡大は防げたのではないかと考えずにいられません。

 いまどきの子供は、家族は違う。無断外泊もあれば、子供にだって人権があるから好きにさせておくべきだ。そして子供だってSNSをやる時代・・・それは本当でしょうか。

 SNSには賢者も変態もいます。だとしたときに、一定の「規制」を用意してあげることも大人の責任と愛情ではないでしょうか。自動車が普及したからと、幼稚園児に運転免許は与えません。もちろん、どんな規制をかけ、手段を講じても子供は悪さをするものです。しかし、それは「野放し」の言い訳にはなりません。

 まるで「SNS」を悪役にすることで、安心のラビリンスに閉じこもっていますが、それは誤解です。SNSは道具に過ぎません。

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